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「贖い主は、主に立ち返る者のところに来る」

31.「贖い主は、主に立ち返る者のところに来る」

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【聖書箇所】イザヤ書59章1~21節

ベレーシート

●イザヤ書58章ではイスラエルの偽善が取り上げられて叱責されていましたが、59章ではイスラエルの罪深さが取り上げられています。イスラエルに真の救いが与えられない原因は、「見よ」(へーン:הֵן)で表されています。「ヘーン」の「見よ」は、その後に記されていることばに注目させる語彙です。つまり、それはイスラエルの民の罪に起因しているということです。

1. 神とのかかわりを妨げる人間の「罪」

【新改訳2017】イザヤ書59章1~2節
1 見よ(ヘーン:הֵן)。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
2 むしろ、あなたがたの咎(アーヴォーン: עָוֹן)が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪(ハッタート: חַטָּאת)が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

【新改訳2017】イザヤ書59章12節
12 それは、私たちの背き(ペシャ: פֶּשַׁע)が御前で多くなり、私たちの罪(ハッタート: חַטָּאת)が不利な証言をするからだ。まことに、私たちの背き(ペシャ: פֶּשַׁע)は私たちとともにあり、私たちは自分の咎(アーヴォーン: עָוֹן)をよく知っている。

●上記の箇所には、主の救いを待ち望んでも実現しない真の理由は、人間の「罪」であることが語られています。ここには「罪」に関する三大用語が登場しています。「ハッタート」(חַטָּאת)。これがギリシア語に翻訳されると「ハマルティア」(άμρτια)となり、「的を外すこと」を意味します。神から離れた人間は、何をしても結局は「的を外した」人生となるのです。的が外れていることで生じる「ゆがみ」「ひずみ」「悪」「不義」「咎」を意味するのが「アーヴォーン」(עָוֹן)です。ここでは複数形(アヴォーノート:עֲוֹנוֹת)で使われています。それゆえ、神への「背き」(ペシャפֶּשַׁע)がもたらされます。「罪」に関するこれら三つの語彙が表しているのは、「偶像礼拝」という罪です。これが最も重い罪です。エジプトから贖い出されたイスラエルの民に対する「十戒」の序文と第一戒、第二戒はこうです。

【新改訳2017】出エジプト記20章2~5節
2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

●「偶像」は「自分のために造られた神」です。ですから「自分のために神を造る」という人間の三つの罪のゆえに、神の「公正」(ミシュパート: מִשְׁפָּט)、「正義」(ツェダーカー: צְדָּקָה)、「真理」(エメット: אֶמֶת)が退けられるのは当然のことです。退けられるこれら三つの語彙は、神の「救い」の語彙として換言できます

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●2節でなされた非難が、以下で、より具体化されます。

【新改訳2017】イザヤ書59章3節
実に、あなたがたの手は血で、指は咎で汚れている。あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正を告げる。

からだの器官が非難の理由として挙げられています。「」(原文=両手のひら/カフ:כַּף)、「」(エツァバ:אֶצְַבַּע)、「」(サーファー:שָׂפָה)、「」(レショーン:לְשׁוֹן)、そのすべてに「あなたがたの」(ヘム:כֶם)がついています。なぜ、からだの器官の人称が複数形で女性形なのかといえば、それは「イスラエルの残りの者」(女性形)をも預言的に啓示しているからです。国が豊かになればなるほど、腐敗は広がるのです。獣と呼ばれる反キリストがメシアとして信じられる時代には、贅沢極まりない時代となり、現代風にいえば「今だけ、金だけ、自分だけ」となります。すなわち民のみならず、国全体に腐敗がはびこるようになるのです。ですから、

【新改訳2017】イザヤ書59章4~15節
4 義(ツェデク)をもって訴える者はなく、真実(エムーナー)をもって弁護する者もいない。空しいことに頼り、嘘を言い、邪悪をはらみ、不正を産む。
5 彼らは、まむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと毒蛇が飛び出す。
6 そのくもの巣は衣にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義(アーヴェン:אָוֶן)のわざ、暴虐の行いがその手にある。
7 その足は悪に走り、咎(アーヴォ―ン)なき者の血を流すのに速い。その思いは不義(アーヴェン:אָוֶן)思い。暴行と破滅が彼らの大路にある。
8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公正(ミシュパート)がない。自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも平和を知らない。
9 それゆえ、公正(ミシュパート)は私たちから遠く離れ、義(ツェダーカー)は私たちに届かない。私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。
10 私たちは見えない人のように壁を手さぐりし、目が無いかのように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、強健な者の中にいる死人のようだ。
11 私たちはみな、熊のようにうなり、鳩のようにぶつぶつうめく。公正(ミシュパート)を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、私たちから遠く離れている。
12 それは、私たちの背き(ペシャ)が御前で多くなり、私たちの罪(ハッタート)が不利な証言をするからだ。まことに、私たちの背き(ペシャ)は私たちとともにあり、私たちは自分の咎(アーヴォーン)をよく知っている。
13 私たちは主に背き(ペシャ)、主を否んで、私たちの神に従うことをやめ、虐げと反逆を語り、心に偽りのことばをはらんで告げる。
14 こうして公正(ミシュパート)は退けられ、正義(ツェダーカー)は遠く離れて立っている。それは、真理(エメット)が広場でつまずき、正直さが中に入ることもできないからだ。
15 そこでは真理(エメット)は失われ、悪から遠ざかっている者も略奪される。主はこれを見て、公正(ミシュパート)がないことに心を痛められた。

●3節は「あなたがた」でしたが、4~8節までは「彼ら」となり、9~13節までは「私たち」となっています。
それらの人称は誰を指しているのでしょうか。
①「あなたがた」・「イスラエルの民」
②「彼ら」・・・・「神に背き、悪に加担する者たち(=イスラエルの民)」
③「私たち」・・・「イザヤも含めたイスラエルの民」
これらはすべて、当時のイスラエルの民と、終わりの日のイスラエルの民の状態が重層的に語られています。

2. とりなす者がいないことに驚かれる主

【新改訳2017】イザヤ書59章16~19節
16 主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに唖然とされた。それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を支えとされた。
17 主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。
18 主は彼らの仕打ちに応じて報い、はむかう者に憤り、敵に報復し、島々にも報復をされる。
19 そうして、西の方では主の御名が、日の昇る方では主の栄光が恐れられる。それは、主が激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっているからだ。

(1) 人間の絶望的状態

●16節の「主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに唖然とされた」の「人がいないのを見て」とはどういうことでしょうか。それはイスラエルの民を思慮深く治める人がいない、義と真理のために立ち上がる人もいない、不義なる者に抵抗し、無知なる者を保護するために立ち上がる人もいない、民を救うことの出来る人はだれひとりとしていないということを意味しています。しかもイスラエルの民の罪の絶望的な状態にもかかわらず、だれひとりとして主の御前でとりなす者もいないことに、主は「唖然とされた」とあります。

●「とりなす者がいない」とは、本来、唯一とりなしをするエックレーシアが携挙されて地上にはいないことを表しています。そのあとに、「主はとりなす者がいないことに唖然とされた」のです。「唖然とされた」という動詞は「シャーマム」(שָׁמַם)の強意形ヒットパエル態で、新改訳第三版では「驚かれた」、口語訳では「あやしまれた」、岩波訳は「訝る(いぶかる)」、フランシスコ会訳は「あきれ果てられた」と訳されています。それゆえ、主の出番なのです。主が登場してくださらなければ、イスラエルの民は絶望の淵をさまようことになり、滅びの運命にあるのです。まさに終わりの日のイスラエルの民の状態が預言されています。

(2) 主は御腕と義を支えとされる

●この絶望的なイスラエルの民の状態に対して、主は自ら「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を支えとされた」(16節後半)とあります。「御腕」とは神の力の象徴です。また「義」は「救い」、あるいは「勝利」の意味です。このことにおいて、主はいかなる人間の支えも必要とされることはないのです。

3. 主が神の民を救われる

(1) 戦士として

【新改訳2017】イザヤ書59章17節
主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。

●主ご自身が戦士として、イスラエルの民の救いのために戦われるさまが比喩的な表現で描かれています。

(2) 敵に対する正しい報復的さばきによって主への恐れがもたらされる

【新改訳2017】イザヤ書59章18節
主は彼らの仕打ちに応じて報い、はむかう者(צַרの複数)に憤り、に報復し、島々にも報復をされる。

●18節で記されているように、主は「彼ら」であるイスラエルの敵の「仕打ち」(ゲムーラー:גְּמוּלָה)に応じて報い(シャーレーム:שָׁלֵם)、神に「はむかう者」(ツァル:צַר)たち、あるいは神の民の内部にいる「敵」(イーヴ:אִיב)たち、そして「島々」(イッイーム:אִיִּים)とあるように、主はイスラエルに敵対した異邦諸国に対しても報復的さばき(報復で報いる「ゲムール・イェシャッレーム」גְּמוּל יְשַׁלֵּם)をもたらします。

(3)「主は激しい流れのように来られる」?

●こうして19節では、主のさばきによって、全地の人々が主の主権を認めて主を恐れる(畏れる)ようになることが預言されています。ちなみに、「西の方」と「日の昇る方」が、原文では「日の沈む方」と「太陽が昇る方」となっています。いずれにしても、西と東の両極を指し示すことで、「全地のすべて」を表すヘブル語修辞法「メリズモ法」です。敵に対するさばきによって、全地が「主を恐れる(畏れる)ようになる」のです。恐れる(=畏れる)とは神を最高度に敬うことを意味しています。日本語(新改訳)では受動態のように「恐れられる」と訳していますが、原文では「彼らは畏れ敬うようになる」のです。そして19節後半ですが、ここからが今回の注目すべき箇所です。

①【新改訳2017】イザヤ書59章19節
そうして、西の方では主の御名が、日の昇る方では主の栄光が恐れられる。それは、主が激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっているからだ

②【新共同訳】イザヤ書59章19節
西では主の御名を畏れ/東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み/主の霊がその上を吹く

③【フランシスコ会訳】イザヤ書59章19節
こうして日の沈む所からヤーウェの名が、日の昇る所からその栄光が、畏れ敬われることとなる。ヤーウェは、その霊に動かされて、堰を切った川のようにやってこられる

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●新改訳では19節を「主が激しい流れのように来られる」と訳していますが、「来られる」主体が誰なのかという問題です。「主」なのか「ツァル」(צַר)なのかという問題です。「ツァル:צַר」は単数形です。「ツァル」は18節にも「はむかう者」(複数)と訳されています。それは何を指しているのでしょうか。おそらく終末の「獣と呼ばれる反キリスト」と「にせ預言者」がそれに相当します。同様に、19節の「神にはむかう者」(仇=ツァル)の単数形と言えば、「獣と呼ばれる反キリスト」しかいません。ところが、どの聖書もツァル(צַר)を形容詞の「激しい」「堰を切った」という意味で訳し、「主が激しい堰を切った流れのように来る」とき、「その中で主の息が吹きまくっている」と訳しています。しかし、「吹きまくっている」は原文では「追い立てる」です。誰が誰を「追い立てる」のかと言えば、「主」が「仇」である反キリストを「追い立てる」と訳すことができるのです。

●原文で見るなら、主の息「ルーアッハ アドナイ」(רוּחַ יְהוָה)が、「はむかう者」である反キリストを「追い立てる」と訳せます。「主の息」とは「主の霊」とも「主ご自身」とも言えます。「追い立てる」は「消え去る」を意味する「ヌース」(נוּס)ですが、ここでは強意態で「(主の霊が)追い立てる」(3女単完了形)で置かれていると考えられます。旧約のヘブル語では「霊」は女性名詞ですが、ギリシア語の「霊」は中性名詞です。「ツァル(צַר)」を形容詞ではなく、名詞の「敵・仇」として理解するなら、「反キリストが川の流れのように来る」とは、黙示録12章13~16節と噛み合います。そこでは「蛇はその口から、・・水を川のように吐き出す」とあります。「水を川のように」とは、反キリストの軍勢が、男の子を産んだ女である「イスラエルの残りの者」に押し寄せることのたとえです。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章13~16節
13 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。
14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。
15 すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。

●16節の「地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した」が、イザヤ書59章19節後半の原文「主の霊が彼(=仇)を追い立てる(消え去った)」ことと同義と考えられます。19節は、終わりの日のメシアの再臨が預言されています。ですから、20節の接続詞は「しかし」という逆接ではなく、順接の「そして」とか「それゆえ」と訳すことがふさわしいのです。「それゆえ、シオンには贖い主として来る」です。誰が「来る」のかと言えば、メシアなる主ご自身です。なぜなら、神に敵対する者(仇=ツァル: צַר=反キリスト)が川の流れのように来たとしても、主の霊(=主)が彼を追い立てるからです。神に敵対する反キリストが川のように神の民イスラエル(=イスラエルの残りの者)に押し寄せたとしても、主(=主の霊)だけがそれに対抗し、敵は決してそれに打ち勝つことができないという意味なのです。このように、19節後半は同義的パラレリズムではなく、反意的パラレリズムと考えられます。※岩波書店の「イザヤ書」(訳者:関根清三)が、反意的パラレリズムで訳しています。

4. 主は、主に立ち返る者のところに来る

【新改訳2017】イザヤ書59章20~21節
20 「しかし(そして)、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背き(背きの罪)から立ち返る者のところに。──主のことば。」
21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である──主は言われる──。あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、子孫の子孫の口からも、今よりとこしえに離れない──主は言われる。」

●ここで注意しなければならないことは、20節にある「ヤコブの中の、背き(=背きの罪)から立ち返る者のところに」という表現です。特に「背き(=背きの罪)から立ち返る者」という表現です。それは、「・・の中から、・・の状況から」という語彙を伴いながら、常に「神に立ち返ること」を意味し、どんなに、あの罪この罪を謝ったところで、神に立ち返ることがなければ救いはありません。イェシュアが語られた放蕩息子のたとえ話も、完全に行き詰まってしまった弟息子が、我に返って、自分の父のもとに帰ろうと決心したことが、父の祝福を受けた要因です。たとえどんなに自分の罪を悔いて反省したとしても、父のもとに立ち返ることが無かったとしたら、弟息子は生き返ることはできなかったはずです。ですから、「ヤコブの中の、背き(背きの罪)から立ち返る者(複数)」とは、「イスラエルの残りの者」以外にあり得ないのです。

●20節の意味は、悔い改めた者(背きから、主に立ち返る者=イスラエルの残りの者を)贖う(救う)ために、シオンにメシアが天から降って来られる、ということです。これがメシアの地上再臨です。確実にそうなることを「主のことば(ネウム・アドナイ)」を付け足すことで表しています。

21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である──主は言われる──。あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、子孫の子孫の口からも、今よりとこしえに離れない──主は言われる。」

画像の説明

●21節の「彼ら」と「あなた」は複数と単数ですが、いずれも「イスラエルの残りの者」を指しています。主に立ち返る者たちが「わたしの霊」(ルーヒー:רוּחִי)と確かな「わたしのことば」(デヴァーライ:דְבָרַי)によって、主との永遠の契約を結ぶことが預言されています。これらの出来事のすべてが、主の主権によってなされるのです。「終わりの日」に成就する主の契約とは、エレミヤの言う「新しい契約」のことです。

【新改訳2017】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

●これはイスラエルの残りの者が「恵みと嘆願の霊」を注がれて、はじめて神に立ち返ることができ(ゼカリヤ12:10)、王であるメシアの支配のもとで真の神の民としての回復がなされるという契約です。その彼らと結ぶ契約とは「新しい契約」(エレミヤ31:31~34)のことです。「あなたの上にあるわたしの霊」(ルーヒー アシェル アーレーハー:רוּחִי אֲשֶׁר עָלֶיךָ)と「あなたの口に置いたわたしのことば」(デヴァーライ アシェル サムティ ベヒーハー: דְבָרַי אֲשֶׁר־שַׂמְתִּי בְּפִיךָ)が結びついて一つとなり、「今から、そしてとこしえまで」(メーアッター・ヴェアド・オーラーム:מֵעַתָּה וְעַד־עוֹלָם)、つまり「イスラエルの残りの者」が歴史の中で立ち上がって来た時からとこしえまで、つまりメシア王国の終わりまで、幾代にも亘って続くのです。

●「離れない」というフレーズは、まさに創世記1章2節にある「神の霊がその水(大水=神のことば)の面を動いていた」(=それらはミングリングすることなくホバリングしている状態、離れている状態)ということがとこしえまで無い、ということを宣言しています。それはメシア王国に住む者たちが、すべて神の霊と神のことばによって生きる者(New Creature)になることを意味しています。その「神の霊」とは、イェシュアが死と復活によってもたらしてくださった霊です。それはパウロの言う「いのちを与える御霊」のことであり、ヨハネの言う「もう一人の助け主」、「真理の御霊」、「聖霊」、「聖なる注ぎの油」のことです。

●21節には、二度「主は言われる」(アーマル・アドナイ:אָמַר יְהוָה)があります。これは「主のことば」(ネウム・アドナイ:נְאֻם יְהוָה)と同様、最も確かな主の約束を証しするフレーズです。終わりの日の「イスラエルの残りの者」への約束が確かならば、その他の約束も確かなのです。神のことばの確かさを聖書では「アーメン」(確かに、その通り)で表します。ですから、新約の最後のことばはいみじくも「アーメン」で閉じられているのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2026. 8.02
a:21 t:1 y:1

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