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あなたがたがわたしを捜し求めるなら

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29. あなたがたがわたしを捜し求めるなら

【聖書箇所】 エレミヤ書29章13節、14節前半

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【読み】
「ウーヴィッカシュテム  オーティー ウームツァーテム キー ティドゥルシュニー  ベル  レヴァヴヘム 
ヴェニムツェーティ ラーヘム」

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
【口語訳】
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
【新共同訳】
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
【NKJV】
And you will seek Me and find Me, when you search for Me with all your heart.

  • 13節には二つの渇望用語が使われていますが、新改訳はその二つをまとめて一つに訳しています。しかし、口語訳、新共同訳ではその二つをそのまま訳しています。その二つの渇望用語とは「バーカシュ」(בָּקַשׁ)と「ダーラシュ」(דָרַשׁ)です。「バーカシュ」が「求める、慕い求める」といった感情的・心情的な意味合いが強いのに対して、「ダーラシュ」の方は「捜し求める、捜す、探り出す、探る、慕う、調べる、問う、問い尋ねる、尋ね求める」といった理性的意味合いが強いように思えます。実は、この二つの動詞が13節で使われていることが重要です。しかもそれを「心を尽くして」「一心に」することが条件です。なぜなら、この渇望なしに将来と希望の約束はあり得ないからです。

【瞑想】

11節に「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。ただし、この部分だけを抜き取って励ましのことばとしてはなりません。ここで語られている「将来と希望を与える計画」とは決して安易な計画ではないからです。それは七十年という長きにわたって、つまり二代、三代という期間の、しかも真摯な神のみおしえ(トーラー)に対する取り組みが前提となっているからです。

バビロンでのユダの民に対する計画は自分の代だけでは終わらない、世代を越えた取り組みなのです。口を開けて待っているような者に約束されている将来ではありません。あるいは、自己実現に対する神のサポートでもありません。神のみことばに対する真剣な取り組みが求められたのです。このことを正しく悟らなければなりません。

13節と14節前半では、神の民が神を尋ね求めることによって神を「見出し」、しかも心を尽くして求めることで、主は「見出される」とあります。神を「見出す」とはどういうことでしょう。それは神のみことばを通して、神を知り、神のみおしえ(みことば)を通してそのすばらしさを味わい、神の深い心に触れることを意味します。みことばが開かれて神のみこころを悟り、そのみこころがなされることを祈り求めるようになることです。神との愛のかかわりが深められて、それを喜ぶこと・・。これらが「神を見出す」ことの意味です。


2013.3.15


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