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あなたがたは、地の塩

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7. あなたがたは、地の塩

【聖書箇所】マタイの福音書5章13節

ベレーシート

  • 「山上の説教」の冒頭にある「八つの幸い」を二回に分けて取り上げましたが、今回は5章13~16節にある三つのタブレット(Tablet)を一つ一つ取り上げて行きたいと思います。「タブレット」という言葉は、小さな板のようなPC機器のことで使われていますが、モーセの十戒もいわば石に板に書かれたタブレットと言えます。三つのタブレット(三つの語彙というよりは、一つだけでもそれぞれ完結した内容を持っている板)のうち、「地の塩」「世の光」は耳慣れたものですが、「山の上の町」については耳慣れないのではないかと思います。
  • ところで、耳慣れた「地の塩」「世の光」について、果たしてその意味するところは何かと突っ込んでみると、そう簡単な事柄ではなさそうなのです。正しく理解しているのかどうか、聖書全体から吟味する必要があるのです。これからの進め方として、まずはそれぞれのタブレットについて理解すること。その上でそれらの三つが互いにどのような関係を持っているかについて考えてみたいと思います。
  • 聖書に「ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、・・立証されなければならない」(申命記19:15)とか、「ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるため」(マタイ18:16)、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とあることから、二重、三重の表現によって「事柄が確定する」というラビ的修辞法があります。この修辞法もヘブル的視点から聖書を読み解くカギになります。
  • 今回の5章10~15節には、右の図に見るように、「三つの事柄」についての言及があります。最初は「地の塩」、次は「世(世界)の光」、そして「山の上の町」(=エルサレム)の三つです。これら三つの事柄によって、御国に住む者たちの霊性とその場所がより明確に啓示されているということです。一つひとつは単独した区別される事柄でありながらも、三つを合わせて一つの事柄が指し示されているのではないかということです。このことについては後で触れることにして、まず今回取り上げるのは、「あなたがたは、地の塩です」と記された最初のタブレットです。

三つの概念.JPG

1. 聖書が意味している「塩」の概念について 

(1) 塩の持つ一般的なイメージ 

  • 私たちが「塩」に対して持っているイメージとは何でしょうか。白色の粒子で、腐敗を防ぐ防腐剤としての塩。保存食はみな塩で漬けられています。また、料理に味をつけたり、味を整えたりする調味料としての塩があります。いずれも塩が持っている重要な効能です。ヨブ記にこんな記述があります。「味のない物は塩がなくて食べられようか。卵のしろみに味があろうか。私はそんなものに触れるまい。それは私には腐った食物のようだ」(6:6~7)と。もっともこれは意味の分からない苦しみや災いは耐えられないという嫌悪を表わす比喩的表現ですが、卵のしろみの部分だけを塩なしに食べるのは無理があります。イメージとしては、何の調味料もいれずに納豆をこねて食べるようなものです。耐えられません。
  • あるいは、仏式の葬儀に参列した時に香典返しや会葬礼状などと一緒に渡される「清めの塩」があります。その塩は葬式から帰宅した際に自宅の玄関先で体に振りかけ、身を清めるために使われるものです。なぜなら死は穢れたものだという考えがあるからです。この清めの塩を、果たして料理に使うことができるのかどうか、私は試したことがないので何とも言えませんが、おそらくそのような用途で用いる人はほとんどいないでしょう。もしいたとしたら、(パウロに言わせれば)、その人は信仰の強い人です。
  • さて、聖書に出て来る塩は今日のような精製された白いものではなく、不純物の入った岩塩であったようです。「塩」は「海塩」と「岩塩」の二種類しかありません。「海塩」とは海水を原料として作られた塩のことで、「岩塩」とは地の下に閉じ込められた海水が数億年前の地殻変動で海底が隆起するなどして、長い年月をかけて結晶化したものと言われています。
  • 「塩」のことを、英語では「ソールト」(salt)、ヘブル語は「メラハ」(מֶלַח)、ギリシア語は「ハラス」(ἅλας)と表記されます。パレスチナでは死海の南西岸に沿って11kmにおよぶ断崖に、岩塩の巨大な露頭があるようです。今日のイスラエルは「ソドムの山」(「ハル・セドーム」הַר סְדֹם)と呼び、塩の無限の供給源とされています。ただし、そこでの岩塩は風化したり、湿気を吸って潮解したりすることで、あとに「味を失った塩」が残り、肥料にもならない無用の長物として道に捨てられることがあったようです。この事実が、今回の「あなたがたは地の塩」のたとえの背景の一つともなっています。
岩塩.JPG


(2) 旧約聖書における「塩」の記述

  • 預言者エリシャは数々の奇蹟をした預言者としてで有名ですが、Ⅱ列王記2章19節以降に「塩」にまつわる話があります。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ列王記2章19~21節
19 この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20 すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「【主】はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」

  • もう一つの記述は、メシア王国においてはエルサレムの神殿の敷居の下から流れ出る水があります。その水はやがて川となって流れて行きますが、その流れて行く所はどこででも、そこの水が良くなり、すべてのものが生きるのです。そのため、「死海」は数多くの種類の魚が住むようになり、その数も非常に多くなると預言されています。ただし死海であっても、神殿から流れ出る水のとどかない沢と沼は、塩のままで残るとあります(エゼキエル47章1~11)。つまり、塩の地は不毛のままだということです。したがって、エリシャの奇蹟も塩に力があったのではなく、神の特別な力が現わされる象徴としての「塩」であったと解釈できます。ひとたび海水が覆った田畑は、かなりの高さの盛土をしないかぎり、不毛の地となってしまうのは自然の理です。
  • 「塩」について言及している箇所で、より重要な意味を持つ箇所は、レビ記2章13節にあります。

【新改訳2017】レビ記 2章13節
穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。

  • この箇所に、神の「契約の塩」(「メラハ・ベリート」מֶלַח בְּרִית)という表現があります。しかも「あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」とあります。これは何を意味しているのでしょうか。実はこの記述がイェシュアの言われる「あなたがたは地の塩です」と関連があるのです。

(3)「塩の契約」における「親交」

  • 語順が逆になりますが、「塩の契約」(「ベリート・メラハ」בְּרִית מֶלַח)という語彙が旧約聖書に二箇所あります。意味としては同義です。一つは大祭司アロンとその子孫に対して語られたことばの中に、もう一つはダビデとその子らに対して語られたことばの中にあります。

①大祭司アロンとその子孫に対して
【新改訳改訂第3版】民数記 18章19節
イスラエル人が【主】に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、【主】の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」

※「永遠の分け前」を新共同訳では「不変の定め」(「ホック・オーラーム」חָק־עוֹלָם)と訳しています。
※「永遠の塩の契約」は「ベリート・メラハ・オーラーム」
(בְּרִית מֶלַח עוֹלָם)

②ダビデとその子孫に対して
【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌 13章5節
イスラエルの神、【主】が、イスラエルの王国をとこしえにダビデに与えられたこと、すなわち、塩の契約をもって、彼とその子らとに与えられたことは、あなたがたが知らないはずはあるまい。

●大祭司とその子孫、およびダビデとその子孫に対して語られた「塩の契約」(ベリート・メラハ)とは、祭司と王のそれぞれの子孫に対する神の永遠の契約を意味しています。なぜ「塩の契約」と呼ばれるのでしょうか。それは「塩」が不変性を象徴しているからです。それは何についての不変性なのかと言えば、神と「王であり祭司」の務めをする者との「親しい交わり」(親交)における不変性です。

●人々が他者と一緒に飲み食いして契約をかわす時の食事に必ず塩が用いられたように、神もまたご自身の民とともに飲み食いする時に塩によって彼らとの契約を確立するのです。つまり、塩は「親交」の象徴です。穀物のささげ物には塩を添えてささげますが、神殿の庭には、「塩の部屋」と呼ばれる部屋があり、塩はいつもそこにたくわえられていました。それは、穀物をささげる者たちが塩を入れるのを忘れてささげてしまうことのないためです。つまり、日常的に、神との親しい交わりを伴わないささげものを神は受けることができないということを意味しているのです。

●「王である祭司」という表現は新約聖書において1回しかありません。

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ 2章9節
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

●「王である祭司」とは、「王の身分を持った祭司」という集合名詞として単数で表わされています。「王である祭司」は本来イェシュアにのみ当てはまりますが、「あなたがた」(複数)はこのイェシュアと一体であるがゆえに「王である祭司」とされているのです。今回の山上の説教において、「あなたがたは地の塩です」とイェシュアが言われたのは、弟子である「あなたがたは、地における永遠の王である祭司として、永遠の塩の契約で結ばれた者たちだ」という意味合いで、「あなたがたは地の塩です」と語られたのだと理解できます。

画像の説明

(4) 「塩の契約」における「専心性」

  • 先に、塩の契約における「親しい交わり」(親交)について取り上げましたが、「塩」に関する聖書の言及をもう少し調べてみましょう。塩の契約にはもうひとつの面として「専心性」が隠されています。この二つはイェシュアの弟子において密接な関係にあります。そのことをイェシュアは「塩けをつける」という表現をしています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 5章13節
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

【新改訳改訂第3版】マルコの福音書 9章49節
すべては、火によって、塩けをつけられるのです。

  • 上記のみことばにある「何によって塩け」をつけるのでしょう。この問いに対しての答えが語られています。その答えとは、「すべては、火によって、塩けをつけられる」ということです。「すべては、火によって、塩けをつけられる」とはどういう意味なのでしょうか。
  • 旧約聖書では動物の犠牲がほふられたとき、「火」で焼かれました。同様に、キリスト者の塩けが生きるためには「火」という試練を通らなければなりません。ダニエルの三人の友は、「縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。」(ダニエル書3:23)とあります。ペテロは信仰の試練のことを「火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」と書かれています (Ⅰペテロ1:7)。信仰の試練という「火」は信仰が練られるプロセスにすぎませんが、この火の試練が聖徒を御国の民としてふさわしくするのです。つまり「火によって、塩けをつけられる」のです。
  • 「塩の契約」では、大祭司とその子孫に対しても、また王とその子孫に対しても、神への親交だけでなく、神に対する「専心性」が求められています。つまり、イェシュアがそうであられたように、自分を捨て、自分に与えられた務めのために専心することが求められました。特に、神と「塩の契約」を結んだ祭司と王には自己否定と献身的奉仕が要求されたのです。そしてそれは「王である祭司」となった私たちクリスャンにも同様に求められているのです。
  • イェシュアは、「わたしについて来たいのならば」、あるいは「わたしに仕えるというのなら」という前提で、真心から弟子になりたいと思う者と「塩の契約」を結ばれます。この「塩の契約」には弟子の自己否定、十字架を負うことが要求されます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)とあるとおりです。キリストが弟子と結ばれる塩の契約は不変の契約ですから、新約時代においても同様に引き継がれます。それは「あなたがた」と呼ばれる「弟子たち」に対してです。弟子たちは、キリストが自らを空しくして十字架を負われたように、弟子は日々自分を捨て、自分の十字架を負って仕えることが条件です。「わたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:26)と約束しています。

(5) マタイの福音書5章10~15節のコンテキストからの論証

  • マタイ5章13節の「あなたがたは、地の塩です」にある「あなたがた」とは、主の「弟子たち」のことです。すでに5章1節で初めて「弟子」(「マセーテース」μαθητής)という言葉が登場しています。「弟子」とは、イェシュアによれば、「御国の奥義を知ることが許されている者」であり(マタイ13:11)、その「御国の奥義」を聖書から自由に引き出すことのできる「学者」でもあります(同13:52)。しかしここでは、「あなたがたは、地の塩」だと語られています。「あなたがたは、地の塩になりなさい」というのではなく、弟子であるということは、「地の塩」であることと同義だということです。「弟子」という語彙は、ガリラヤのラビであるイェシュアとのかかわりにおける重要な新しい語彙なのです。つまり、「師と弟子」というかかわりは、旧約時代の神と大祭司とその子孫、および神とダビデ王とその子孫に代わる「イェシュアの弟子たち」という新しいかかわりなのです。
  • マタイ5章13節は、一見唐突に語られているように見えます。しかしそうではありません。すでに、10~12節で語られていることと結びつけられているのです。その箇所を読んでみましょう。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章11~12節
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

 

  • 上記のみことば(10~12節)は、「八つの幸い」の第八の幸いが「義のために迫害されている者」に対して語られていることから、「義のために」という一般論から、「わたしのために」という具体論に言い換えられて、イェシュアのためにののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口雑言を言われたりする「あなたがた」は幸いだと言及されていることで関連づけられています。と同時に、コンテキスト(文脈)的には、13節から語られる「あなたがたは、地の塩です」の前置きとして置かれているとも言えるのです。
  • 「あなたがた」と呼ばれるイェシュアの弟子たちだけでなく、旧約時代の預言者たちも同じように迫害を受けました。しかし「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」との理由が記されています。「喜ぶ」「喜び踊おどれ」という動詞をヘブル語に戻すと、「サーマハ」(שָׂמַח)と「ギール」(גִּיל)の二つの動詞が使われています。この二つの動詞は、詩篇などではしばしばワンセットで用いられていることが多いのですが、重要なことはこの動詞が終末論的であるということです。つまり、明確な永遠への希望なしには、決して喜ぶことなどできません。つまり、イェシュアは「終わりの日」にもたらされる主からの報いを先取りして、「喜び」「喜びおどれ」と命令(ギリシア語の時制は現在命令形)されているのです。つまり、地における「天的喜び」を驚いています。
  • その文脈の流れから、マタイ5章13節の「あなたがたは、地の塩です」へとつながっていきます。その流れで理解するならば、「地の塩」である弟子たちは、地において迫害される存在となるほどに、主との親密なかかわりを持っているだけでなく、主に対する専心性を含んだ関係性をもっているということが分かります。つまり、「塩の契約」とは、神との「親交」と、火によって塩けをつけられた「専心性」を含んだ関係性を象徴する概念なのです。御国とは、そのような者たちがいるところなのです。事実、「使徒の働き」にはそうした姿を見ることができます。その一つを第1章に見ることができます。
  • そこには、イェシュアが昇天された後、弟子たち(使徒たちとイェシュアの母、そして兄弟たち)は、エルサレムの「泊まっている屋上の間で」、「みな心を合わせ、祈りに専念していた」(1:14)とあります。この「専念する」と訳されたギリシア語の「プロスカルテレオー」(προσκαρτερέω)は、「絶えず、変わることなく、着実に、ひたすら続ける、忙しく~に励む、熱心に~をする」という意味があります。この語彙は使徒の働きの特愛用語です。というのは、新約では10回、そのうちの6回は使徒の働きで用いられているからです(1:14/2:42,46/6:4/8:13/10:7の6回)。そして特に、6章4節はとりわけ重要です。教会の中に問題が起こった時に彼らは何を優先したでしょうか。その優先順位として使徒たちは「祈りとみことばの奉仕に」専念することにしたのです。これは使徒たちによるすばらしい英断ですが、この「専心性」が初代教会における特徴でもあり、教会を建て上げていく知恵でした。ここに、教会を霊的な敵から守り勝利していくことのできた「塩の契約」を見ることができます。
  • ちなみに、使徒1章14節で彼らが祈っていた祈りとは何でしょうか。原文では「ひたすら、その祈りに専心し続けていた」とあります。冠詞付の名詞の「祈り」(「プロスユーケイ」προςευχή)を、「専心し続けている」(「エイミ」είμιの未完了形)ということです。ここで冠詞付の「祈り」といえば、ユダヤの伝統的な祈りということも言えますが、イェシュアの弟子たちがここでそのような祈りに専心していたとは思えません。むしろイェシュアが彼らに教えられた「あの祈り」、つまり「主の祈り」について瞑想していたと考える方が自然です。その冠詞付の祈りは、これまでイェシュアが常に祈って来られた祈りであり、また、祈りを教えてほしいと願った弟子たちに対してイェシュアが教えられた祈りですから、その祈りを祈ってはその祈りの内容について思いめぐらし続けることに専心していたと考えるのは、決して不自然なことではありません。まさに「主の祈り」は神のご計画の鳥瞰的視点からのものであり、実に深遠です。終末論的視野がなければ決して理解できない祈りなのです。にもかかわらず、彼らは繰り返し、繰り返し、この祈りを味わい(瞑想し)ながら、イェシュアが語られた「御国の福音」を心に深く刻みつけていったと考えられます。
  • イェシュアの「あなたがたは、地の塩です」という表現の中に、神の永遠の塩の契約に基づく弟子たちの不変の姿を読み解くことができます。私たちもイェシュアにあってこの永遠の「塩の契約」の中に招かれています。そのことを聖霊が私たちの心にしっかりと刻み付けてくださって、今も、そして来たる御国が地に完全に来るまで、「塩けが保たれるように」と祈り続けたいと思います。

  • 次回(2017.4.2)は、
    2. 聖書が意味している「光」の概念と
    3. 隠れることのできない「山の上の町」(エルサレム) 
    について取り上げる予定です。

2017.3.24


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