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それは私の口の中で蜜のように甘かった

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73. それは私の口の中で蜜のように甘かった

【聖書箇所】 エゼキエル書 3章3節後半

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【読み】
ヴァーオーヘー ヴァットー ベフィ キデヴァシュ レマーーク

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
【口語訳】
わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。
【新共同訳】
わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
【NKJV】
So I ate, and it was in my mouth like honey in sweetness.

【瞑想】

エゼキエル書3章1~3節は、エゼキエルに語りかけた主の召命の出来事です。エレミヤの召命は、主が御手を伸ばしてエレミヤの口に触れ、「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」という在り方でしたが、エゼキエルの場合は、「巻き物を食べ、それを腹の中に満たし、行って、告げよ」という在り方でした。同じ預言者としての召命でしたが、その在り方はエレミヤとエゼキエルの場合とは異なっていました。
主が人を召される方法やあり方はまちまちなのだということが分かります。

さて、ここではエゼキエルが「食べよ」と主からいわれて「巻き物」を食べたことです。そしてそれは彼の口には蜜のように甘かったとあります。「巻き物を食べる」というその象徴的行為はどういうことなのでしょうか。

主がエゼキエルに命じた一連の動詞を並べてみると以下のようになります。そこには食べるだけで終わらず、一連のプロセスがあるのです。

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「食べる」という象徴的行為は、主から与えられたみとばを人に伝える前に、自分自身で十分に消化し、自分のものとしなければならないことを意味しています。「食べて」、それで「腹を満たす」ということは、みことばをよく噛み、完全に消化させることを意味します。それから主に遣われていって人々に告げるのです。主がまず何よりもエゼキエルに求めたことは、「行って、告げる」という行為の前に、それをしっかりと自分のものとして消化し、腹を満たすということでした。Doingの前にBeing、アウトプットの前にインプットです。この優先順位はきわめて重要で、どんなに強調しても強調しきれません。

主イエスが弟子たちに「わたしにとどまりなさい。・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書15:4, 5)と言われたことを、私たちはよく悟る必要があります。エゼキエルの場合、主のみことばにとどまることのすばらしさを「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と表現しています。

サウルの息子ヨナタンは戦場での疲れの中で蜂蜜をー少しばかりでしたがー食べると「目が輝いた」とあります(サムエル第一、14:27)。「目が輝く」とは、力や元気が回復することを意味します。甘いものは比較的、即効的に、エネルギーへと換えられます。

詩篇119篇103節にも「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とあります。尤も、ここでの「甘い」と訳された動詞はマーラツמָלַץ(malats)で詩篇119篇独自の言葉です。このことばは旧約の中でもここ詩119篇103節にしか使われていませんが、とても印象的なことばです。エゼキエルの場合の「甘い」は形容詞の「マートーク」מָתוֹקが使われています。マーラツמָלַץにしても、マートークמָתוֹקにしても、「甘い」という味覚用語の意味するところは、①美味しい ②貴重なもの ③元気が出る(元気づけられる) ④心地よい ⑤快い・・といった意味です。

詩篇119篇の作者は今日のことばでいうならば「みことばのグルメ」です。「グルメ」とは、食通であり、人並みはずれて美食をどこまでも追求する人のことを言いますが、詩篇の作者の場合はどこまでもみことばのすばらしさを追求する人と言えます。誰でも「グルメ」にはなれないように、神のトーラーを「甘い」、「美味しい」と感じるには特別な能力と訓練が必要です。

今はグルメ流行です。彼らの存在によってどこにどんな美味しい店があるか、どんな料理があるかが、いろいろな情報誌を通して知ることができます。彼らは単に味わう舌が肥えているだけでなく、食に関するありとあらゆる知識を持っています。そしてグルメ道を究めるために、彼らは毎日そのことについて学び、実際に食しながら多くの経験を積んでいるとも言われます。

「みことばのグルメ」である詩篇の作者も、自ら「みことばを愛し、一日中、私の思いとなっている」と述べています。「思い」と訳されたことばはシーハーשִׂיחָהと言って「黙想、熟考、祈り、研究、実生活への適用も含めた思索」を意味する名詞です。それゆえ、だれよりもその世界のことにかけては負けないという相当の自信を持っています。

グルメたちの情報によって、多くの人たちが美味しい料理を味わうことができるように、詩篇の作者の情報によって、多くの人たちがみことばのすばらしいさを味わうことができるはずです。そんな「みことばのグルメ」たちの存在は、神のみことばを通して、私たちを楽しませるスイートな世界があることを指し示してくれる水先案内人です。私もそんなひとりになりたいと願いながら、日々、みことばを学び、瞑想を続けていますが、神のことばを味わうことが祈りそのものなのです。


2013.4.28


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