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なぜ、詩篇の瞑想なのか

なぜ、詩篇の瞑想なのか


  • 「なぜ、詩篇なのか」、「なぜ詩篇を瞑想するのか」・・それは私にとって生涯の大きな問いです。今のところ、「ただ惹きつけられるものが詩篇の中にあるから」としか答えることができません。
  • 瞑想というのは、「ことば」にしても、「絵」にしても、あるいは「自然」にしても、そこからある種のメッセージを読み取っていくという意識的なアプローチが求められます。「ひとつの言葉」、「一枚の絵」、「一輪の花」-そこには私たちの心を豊かにしてくれる「麗しさ」(beauty)※1
    があります。それに出会った喜びは、実用的な達成感とは別のものです。生産性を追求する人生から、神と共に歩む人生、神を味わう人生へと切り変えるとき、この「麗しさ」が私たちの人生の大切なテーマとなると考えます。
  • 実用的な世界では「麗しさ」に全く縁がなくても生きていけます。しかし、心豊かな生活を生きようとするならば、この「麗しさ」は必要不可欠です。「麗しさ」の凄みを経験することが私たちの心を豊かにし、神と共なる人生を楽しむ力となります。※2
  • 尤も、心に余裕がなければそこに隠されている「麗しさ」をゆっくりと味わうことはできません。そのためには生活をシンプルにする必要があります。これからの高齢化社会において、セカンドライフを迎える者にとっては、この「麗しさ」は生き方の転換をはかる重要な鍵となるに違いありません。
  • 私が詩篇の一つの動詞(恩寵用語、礼拝用語)を味わうのは、一種のマニア的嗜好と思われるかもしれません。しかしそれは詩篇の世界の中に分け入り、神の「麗しさ」を味わうための習慣を身につけていく修練だと私は思っています。そこにはそれまで味わったことのない霊的な喜びの世界が埋もれているのです。それに私は魅せられています。
  • 詩篇の作者のひとりであるダビデはそのことを悟っていました。彼は詩27篇4節でこう歌っています。

〔新改訳聖書〕

私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見
その宮で、思いにふける、そのために。

〔典礼訳聖書〕

私は神に一つのことを願い求めている。
生涯、神の家を住まいとし、
あかつきとともに目覚め
神の美しさを仰ぎ見ることを。

  • ひとたび、ダビデのように「主の家に住む」という世界に入ると、そこには、耳を傾けるべきことも、また得るべきことも、私たちの思いに勝って豊かなものが備えられているのです。日々のほんのわずかな時間その中に入るだけでは、到底得られないほどです。

※1
「麗しさ」はヘブル語では名詞ノアムנֹעַם(no`am)です。7/OT、2/Ps. 詩篇27:4「麗しさ(beauty)」/90:17「慈愛(favor)」と訳されて、 箴言の3:17では「楽しい(pleasant)」、15:26/16:24では「親切」と訳されています。
形容詞ナーイームנָעִים(na`iym)、11/OT、5/Ps(16:6,11/133:1/135:3/147:1)は、ほとんど、pleasant, beautiful,「楽しい、麗しい、好ましい」と訳されます。また「望みが完全にかなえられていなくても、心が安んじて満足している」という意味でcontentment(NIV)とも訳されています。
135:3「その御名はいかにも麗しい」   147:1「まことに、・・賛美は麗しい」

レンブラント「放蕩息子の帰郷」

※2
ヘンリー・ナウエンは画家レンブラントの「放蕩息子の帰郷」という絵との出会いをとおして、それを瞑想する霊的冒険の旅をしています。その旅の中で、ヘンリーは、神に立ち返ること、神に愛される子としての私たちのあり方の新しい発見へと導かれています。この「放蕩息子の帰郷」という本(あめんどう、2003年発行)は、ナウエンの最高傑作と言われています。



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