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まことに主は、ミシュパートの神である

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58. まことに主は、ミシュパートの神である

【聖書箇所】 イザヤ書30章18節

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【読み】
ヴェラーヘーン イェハン アドナーイ ラハナーン
ヴェラーーン ヤーーム レラヘムヘム
ー エロー ミシュート アドーイ 
アシュー ル ホーー 

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
それゆえ、【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。【主】は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
【口語訳】
それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。
【新共同訳】
それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
【岩波訳】
それゆえ、ヤハウェは、あなたたちに恵むことを待ちわび、それゆえ、あなたたちを憐れむために立ち上がる。まことにヤハウェは、義の神である。幸いだ、総て彼を待ち望む者は。
【中澤洽樹訳】
それでもヤハウェは、恵みをもつてお前たちを待ち、それでもお前たちを憐れもうとして立ち上がる。げにヤハウェは公正の神、彼を待ち望むすべての者は幸いだ。
【関根訳】
それゆえヤハヴェは君たちに恵みを施すときを待ち、それゆえふたたび立って君たちを憐れまれる。まことにヤハヴェは義(ただ)しき神にいます。すべて彼を待ち望む者は幸いである。
【NKJV】
Therefore the Lord will wait, that He may be gracious to you; And therefore He will be exalted, that He may have mercy on you. For the Lord is a God of justice; Blessed are all those who wait for Him.

【瞑想】

イザヤ書30章15~17節のことばは「イスラエルの聖なる方、主なる神」のことばのです。しかし18節のことばは、預言者、あるいは「人称なき存在」の声です。

イザヤ書30章18節で特に注目したいことは、後半の部分の「主は正義の神だからだ」、あるいは「まことに主は正義の神」と訳されている部分です。ただし、「正義」と訳された原語の「ミシュパート」の概念はなかなか一つの言葉で訳すことが難しいのです。

ちなみに、この18節の「ミシュパート」はいろいろな言葉で訳されています。新改訳「正義」、口語訳「公平」、新共同訳「正義」、岩波訳「義」、関根訳「義(ただ)しき」、中澤訳「公正」、他にも、この「ミシュパート」מִשְׁפָּטは「さばき、定め、公義、訴え、権利」とも訳されます。元になっている動詞は「シャーファト」で、その本来的な意味合いは「さばく」ですが、どのようにさばくのかと言えば、正義と公平さとをもって、また神の恵みやあわれみ、あるいは真実と知恵、深い計らいをもってです。とすれば、「ミシュパート」は神のひとつの属性というよりも、神の統治理念を統括することばだと考えることができます。聖書の中では、その時々によって神の属性―神の恵み(へセド)、真実(エムーナー)、義(ツェデェク)、慰め(ナハムー)などと結びつけながら神の統治のある面を表しているように思います。むしろ、「ミシュパート」は単なる法廷用語ではなく、神の統治支配の総称なのです。

ミシュパートמִשְׁפָּטは神の統治とその理念、支配、主権、父性的訓練(懲罰も含む)、はからい、計画、知恵、導きなどを含んでいます。しかもその統治の在り方は決して専制君主のようなものではなく、驚くべき愛に満ちた福祉理念に基づいています。それは主の支配の秩序と理念を意味することばです。しかも神を信頼する者に生存と防衛を保障する神でもあります。イザヤ30:18の「まことに、わたしはミシュパートの神である」とはそのことを意味しています。

そのことを神の民は悟っていないために、消極的な意味において神はそのことに気づかせようと民をさばきますが、積極的な意味においては、神は忍耐深く、神の民に神の恵みとあわれみを注ごうとしてその時(タイミング)を待っているのです。それが18節の冒頭にある「それゆえ」の意味だと理解します。

18節の一行目と二行目の冒頭にある「ヴェラーヘーム」は、接続詞の「ヴェ」と前置詞の「ラ」と副詞の「ヘーム」という三つの語彙から成っています。おおかた「それゆえ」と訳されていますが、その意味する内容は、その前の事柄と結びついています。つまり、神の民が主を信頼するように呼びかけたけれども、その呼びかけに応じなかった民の判断の結果は、「山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい」という実に悲惨な結果をもたらすことを主はご存じなのです。神はご自身の民に、人間に(30章ではエジプト)頼る者を罰して破滅と孤独というさばきを経験させ、それを戒めとして示します。彼らの罪にもかわらず、それで終わりというのでは決してなく、さらに、そのうえ、主は忍耐をもって彼らが悔い改めることを待っておられる・・。それがここでの「それゆえ」という意味です。中澤訳のみが「それでも」と訳していますが、この訳語が真意に近いかも知れません。

「それゆえ(それでも)、【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。【主】はミシュパートの神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

原文では「それゆえ」が同義的並行法によって二回あります。また、18節にはー日本語の聖書ではわからないのですがー意味を強める強意形ピエル態のヘブル語動詞が二つ使われています。ひとつは「待っておられ」(「ハーハー」חָכָה)という動詞と、もうひとつは「あわれむ」(ラーハムרָחַם)という動詞です。前者の「待つ」とは、神の民が悔い改めた後に与えようとする「恵み」をいつ与えようかと待ちわびているという意味での「待つ」です。また同義的並行法の次の行にある「あわれむ」も、そのときが来たならばただちにそうしようと「立ち上がる」構えをもっていることを意味しています。なんというすばらしい神の「ミシュパート」(統治理念)でしょう。「まことに主は、ミシュパートの神」なのです。そしてそのことを知って、その主を待ち望むすべての者はなんと幸いなことか、と驚きをもって、人称なき存在が語っているのです。


2013.4.13


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