****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

むちを控える者はその子を憎む者

文字サイズ:

箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

25. むちを控える者はその子を憎む者

【聖書箇所】13章24節

ベレーシート

  • 13章にある家庭教育における重要な知恵として、24節を取り上げます。またそれに関連して、1節、8節、18節にある「叱責」と訳されたことばにも注目したいと思います。ここには子どもを訓練することの重要性が教えられています。

【新改訳改訂第3版】箴言 13章24節
むちを控える者はその子を憎む者である。
子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

【新共同訳】箴言 13章24節
鞭を控える者は自分の子を憎む者。
子を愛する人は熱心に諭しを与える。


●箴言において初めて登場することばがあります。それは「むち」(鞭)ということばです。詩篇23篇4節の「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」にある「むち」(「シェーヴェット」שֵׁבֶט)です。

●「懲らしめる」と訳された原語は名詞の「ムーサール」(מוּסָר)です。動詞ではありません。

●24節には一つの動詞しかありません。それは「シャーハル」(שָׁחַר)です。これについては後で触れます。


1. 「子を憎む者」と「子を愛する者」

  • 「自分の子を憎む者(親)」と「自分の子を愛する者(親)」がいます。「愛すること」と「憎むこと」とは正反対ですが、聖書でそれが使われる場合、愛していないならば、それは憎むことと表現されます。その中間はありません。この概念は日本人にはなかなか理解できないところです。聖書では、たとえ親が子どもを憎んでなどいないと思ったとしても、子どもを主から与えられた愛すべき者として、それにふさわしく教育しないならば、それは子を憎むことと同じだと見なされるのです。これは聖書(ヘブライズム)独自の親と子のかかわりと言えます。
  • 箴言13章には「叱責」と訳されたことばが三箇所(1, 8, 18節)あります。しかし最初の二つの「叱責」(1, 8節)は「ゲアーラー」(גְּעָרָה)という原語が使われており、幾分「鼻息の荒い厳しい叱責」のニュアンスです。もう一つの「叱責」(18節)は「トーハハット」(תּוֹכַחַת)という原語で、新共同訳はこれを「懲らしめ」と訳しています。訓練としての叱責のニュアンスです。そして24節の「懲らしめ」(新改訳)は「ムーサール」(מוּסָר)が使われています。
  • 「ゲアーラー」(גְּעָרָה)、「トーハハット」(תּוֹכַחַת)、「ムーサール」(מוּסָר)は、いずれも、しつけとしての教育に用いられています。とりわけ「ムーサール」と「トーハハット」はしばしばワンセットで用いられることが多いようです。
  • 聖書で「親が子を愛する」とは、子に対するふさわしいしつけをすることなのです。そのことをしない親は真に子を愛していることにはならないとしています。子をしつけるということは大変なことです。つまり、しつけるためには、常に「一貫した態度」が親に要求されますし、それなりの教育の指針をもっていなければなりません。その指針を時や状況によって変えてしまってはいけないのです。だれがそのような任に堪えられるでしょうか。神から多くの能力が与えられた者はそれを管理して神の栄光のために使うということが求められるように、子どもが与えられた親(両親)は子どもを神からの賜物として預けられた者として、それにふさわしく教育するという責任が伴うのです。神の賜物は私たちの側で決められない神の主権的な事柄です。
  • 24節の後半の部分を原文で見てみましょう。

    ムーサール シハロー  オーハヴォー

    אֹהֲבוֹ שִׁחֲרוֹ מוּסָר

三つの語彙の中で真ん中にある語彙は「シャーハル」(שָׁחַר)という動詞(ピエル態)です。この動詞は「(熱心に)捜し求める」という意味です。この動詞が神に向けられると、人が熱心に神を求めるという意味になりますが、この動詞が名詞になると「夜明け、早朝」という意味になります。詩篇63篇1節に「あなたを切に求めます」とありますが、「あなたを朝早く求めます」とも訳されます。そのような動詞が箴言13章24節では、「つとめて・・する」「熱心に・・与える」となります(太字の部分)。

「子を愛する者はつとめてこれを懲らしめ。」(新改訳)
「子を愛する人は熱心に諭しを与える。」(新共同訳)

  • つまり、ここで親が子に対して「つとめて」「熱心に」・・「懲らしめ」を与えるのです。これは親が主を恐れ、主に聞き従う心を持つことなしには到底できないことです。親の神に対するあり方は、親と子のかかわりにそのまま反映されます。そのような熱意をもって、子を「つとめて」「熱心に」しつけることが、本当に子を愛している者だとされているのです。子どもが与えられるということは、このような神からの務めを委ねられることなのです。「この任にだれが堪え得ようか」です。

2. 子を懲らしめる基本的方法は「叱責」と「むち」の二つ

  • さて、神がご自身の民を教育するとき、また親が子どもを教育するとき、その基本的な方法として二つのことを聖書は語っています。その二つとは「叱責」と「むち」です。

(1) 叱責

●直接的に子どもの顔を見て、ことばをもって語り、諭すことによる教育です。時には、神が沈黙するように、無言の形を取ることもあります。「訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ」(箴言6:23)とあります。


(2) むち(鞭)

●子どもを懲らしめるために、冷静に、愛のむちを用いることによる教育です。「むち」と訳された「シェーヴェット」(שֵׁבֶט)は「杖」とも訳されます。「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」(箴言22:15)とも、「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。」(同、23:13)、「あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。」(同、23:14)、「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」(同、29:15)ともあります。

●子に対する訓練の大切さは、新約聖書のヘブル人への手紙12章でも扱われています。

【新改訳改訂第3版】
5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

  • 家庭教育の位置づけは、教会教育、および社会教育にまさって、要となる部分です。これはいつの時代においても最も優先されるべき事業であり、また難事業でもあります。しかし教会がそのことに目覚め、また主にある親たちもその重要性に目覚めることです。そこに目を留めるならば、将来、多くの益を勝ち取ることになると信じます。


2015.12.22


a:8583 t:3 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional