****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる

28.「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」

【聖書箇所】イザヤ書56章1~12節

ベレーシート

●イザヤ書56章1~8節の「異邦人の救い」は55章とつながり、9~12節の「堕落した宗教指導者たち」は57章とつながっています。前半の1~8節の預言は、教会が携挙された後に救われる異邦人(諸国民、異国の民、疎外された宦官)に対する預言であり、この者たちを「わたしの聖なる山」、すなわち、エルサレムに連れて来て、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」というものです。8節の「すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」とあるように、イスラエルの残りの者だけでなく、「主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民」も救いに加えられて、「わたしの家で彼らを楽しませる」、しかも「(わたしの)息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」という神のご計画なのです。まさに、アブラハムに与えられた約束にある「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される」という約束が、十全に実現し、成就されるのです。以下がそのテキストです。

【新改訳2017】イザヤ書56章1~8節
1 主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。
3 主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」


1. わたしの救いは近い

【新改訳2017】イザヤ書56章1~2節
1 主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。

●1節のことばは、イェシュアが公生涯のはじめに語られたことばと似ています。

【新改訳2017】 マタイの福音書4章17節
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

●何が似ているのかと言えば、命令形があって、そのあとにその理由が示されているという点です。

画像の説明

しかしこれらの命令には「あること」が隠されています。その「あること」とは「人の霊が回復すること」です。それなしには、悔い改めることも、公正を守り、正義を行うことも不可能だということです。たましいの悔い改めでは、あの罪、この罪、ごめんなさいで終わってしまいます。真の悔い改めはただ神に立ち返り、神の中へと信じることですが、これができるためには人の霊と神の霊がミングリングする必要があるのです。そのときはじめてこの命令に従うことが出来るのです。イェシュアが人となって来られて、死と復活を通られ、秘密の昇天によって御父から聖霊を与えられました。この聖霊を受け取ることによって、人はすべての命令に従うことができるのです。

●「公正と正義」(ミシュパート:מִשְׁפָּטとツェダーカー:צְדָקָה)は、これまでもイザヤ書で繰り返し出てきました。主のしもべであるイェシュアは「公正と正義」を地に打ち立てるために来られましたが、主の再臨においては「公正と正義」をもって地を治められます。民はそのときに「公正を守り、正義を行う」ことが実現されるのです。なぜなら、メシア王国ではみな「聖霊に満たされている」からです。「救い」と「義」とは同義なのです。「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)は神の統治とその理念、支配、主権、父性的訓練、計らい、計画、知恵、導きなどを含んでいます。しかもその統治の在り方は決して専制君主のようなものではなく、驚くべき愛に満ちた福祉理念に基づいています。それは主の支配の秩序と理念を意味することばです。しかも神を信頼する者に生存と防衛を保障する神でもあります。イザヤ書30章18節に「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義(=ミシュパート: מִשְׁפָּט)の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は」とある通りです。主の基準に従うことが、公正を守るということであり、義を行うということです。神が霊によって、ご自身の統治に従う民として造り変えて下さるのです。ですから、それに従えるというのは神の恵みでしかありません。

●「公正を守り、正義を行う」(エノーシュ:אֱנוֹשׁ)、あるいは「人の子」(ベン・アーダーム:בֶּן־אָדָם)を「幸いだ」(アシュレー:אַשְׁרֵי)としています。「エノーシュ」は「弱く、もろい、死を免れない者」を意味しますが、「ベン・アーダーム」もそれと同義と解釈します。このような人の義の行いを「安息日を守って、これを汚さず」と「どんな悪事からもその手を守る」と言い換えられています。つまり、やがてそのような人となることを言っているのです。

●「安息日を守って、これを汚さず」とはどういうことでしょうか。これは神がイスラエルと結んだ契約(シナイ契約の十戒)であり、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」というものです。このことを覚えるために、「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない」とあります。この真意を悟ることは決して容易ではありませんが、霊を働かせるなら理解できます。「主の安息」とは「主が安息する」ことを意味します。そのことを覚えるために、七日目はいかなる仕事もしてはならないのです。今日のユダヤ教は、この戒めを守るために、安息日にあらゆる公的機関は完全にストップします。また、どこからどこまでが仕事かという細則があって、それを守れば祝福され、それを破ればのろわれるのです。そのような安息日規定が律法を罪定めの道具としてしまったことから、イェシュアはあえてそれを破りました。そのことでユダヤ人たちはイェシュアを迫害し、殺そうとするようになったのです。重要な点は「主が安息するとはどういうことか」を知ることなのです。そのための「安息日規定」なのですが、彼らは「仕事を休む」ことに徹底したのです。そうすることで、神からの祝福を得られるとしたことが、イェシュアと衝突した要因のひとつでした。

●安息日を厳守していればそれで良いという問題ではありません。七日毎に巡ってくる「安息日」が指し示していることは、神のマスタープランの最終ステージにある「メシア王国」を覚えて、それを霊によって待ち望むことです。「永遠の安息」とは、神と人とが顔と顔を合わせながら、ともに住むという愛の至福の世界です。すばらしい御国を受け継ぐだけでなく、御国の民はそれを理解する者となるのです。また「主が安息する」とは、この地において、民が王なる祭司として主のみこころを行うことで、主が休まれることを意味しています。また、「どんな悪事からもその手を守る」も、一切の悪事に手を染めないことを意味しますが、それは「人の霊が回復される」ことなしには不可能なのです。それゆえ、1節で主が語っていることは重要です。「わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも(近いからだ)」ということばは、「わたしは人の霊を回復する」という宣言に等しいのです。

2. 主に連なる異国の民と宦官の救い

【新改訳2017】イザヤ書56章3~6節
3 主に連なる異国の民(ハンネーハール: הַנֵּכָר)は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官(ハッサーリース: הַסָּרִיס)も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、

●3~7節には「交差配列法(交差対句法)」という修辞法(キアスムス)が見られます。対照的な表現や概念を反転させて配置することで、メッセージを強調する修辞法です。基本的な形は「A - B - B' - A'」です。

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●AとBに共通する条件は、「安息日を守り、わたしの契約を堅く保つ」ことです。そうするなら、

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●「異国の民」を改訂第3版では「外国人」と訳し、新共同訳では「異邦人」と訳しています。これは敬神者も含まれています。「異国の民」について、イザヤ書44章でも、以下のように語られていました。

【新改訳2017】イザヤ書44章3~5節
3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫(=イスラエルの残りの者)に、わたしの祝福をあなたの末裔(=同)に注ぐ。
4 彼ら(イスラエルの残りの者)は流れのほとりの柳の木のように、
青草 (=イェシュアをメシアと信じないイスラエル) の間に芽生える。
5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼び、ある者は手に『主のもの』と記してイスラエルの名を名乗る。」

●5節の三つの「ある者」が「異邦人」、あるいは「異国の民」を表しています。これは、やがてメシア王国に入ることになる異邦人のことです。エックレーシアを除くと、メシア王国に入る異邦人としては、以下の三種類のグループしかありません。

(1) 未曾有の患難の中で、イスラエルの残りの者によって救われることになる「数えきれないほどの大勢の群衆」(黙示録7:9)です。

(2) より分けられた「羊の群れ」です。彼らは「イェシュアの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人に」、つまりイスラエルの民(=イェシュア)に良いことをした異邦人です(マタイ25:35~40)。彼らは、世界の基が据えられたときからすでに、備えられていた御国を受け継ぐことが定まっていた者たちです(同34節)。御父に祝福され、永遠のいのちに入る人々なのです。この人たちはイェシュアをメシアとして信じた人ではありませんが、御国に入ったあとでイェシュアがメシアであることを知るのです。これは「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──」(イザヤ55:8)の成就と言えます。

(3) ゼカリヤ書14章16節にある「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」とある異邦人です。彼らはおそらく、獣の像を拝まない者たちを殺すというシステムを潜り抜けた者たちで、最後の最後に、再臨のメシアによってメシア王国に入ることになる人々です。また彼らは、あの書に名が書き記されていた者だとも言えます。とすれば、なんと彼らにはメシア王国において、「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(7節)という祝福が与えられることが分かります。一見目立たないグループですが、イスラエルの残りの者によって救われることになる「数えきれないほどの大勢の群衆」に比べて劣ることのない者たちなのです。

●では、56章に登場する「宦官・宦官たち」は果たして「異邦人」でしょうか。それとも、「イスラエルの民」でしょうか。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。」(申命記23:1)という規定を背景にイザヤは語っていると解釈します。この定めは旧約においては廃止されることはありませんでした。しかしメシア王国ではこの規定が外されるという意味で、ユダヤ人の宦官と解釈します。ユダヤ人は散らされた民ですが、各地で用いられた者も数多くいたと思われます。使徒の働き8章26~39節に登場する「エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人」も「宦官」でした。あえて「宦官」であったと記しているということが重要です。

●この箇所の「女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人」を、異邦人の敬神者と解釈する人が多い中で、私はこの人が「ユダヤ人」であったと考えます。その論拠は、この記事が置かれている文脈です。使徒の働き10~11章では、使徒ペテロが異邦人(具体的には、カイサリアにいるローマの百人隊長であったコルネリウスという敬神者)の家に訪ねて行って福音を語る前に、彼が入念な(三度の)取り扱いを主から受けています。ユダヤ人が異邦人の家を訪ねるということは律法で禁じられていたので、神の新たな導きを理解するために、彼の理解の型紙が破られる必要があったのです。そのような取り扱いは、カンダケの高官を導いたピリポにはありませんでした。またカンダケの高官がイェシュアの伝えた福音を信じた後で、ピリポからバプテスマを受けます。一方、コルネリウスとその家族もペテロから福音を聞いたときに聖霊のバプテスマを受けましたが、その後に水のバプテスマを受けています。同じことが起こっているにもかかわらず、カンダケの高官にはすんなりと事が運んでいますが、コルネリウスの場合には特別な導きを必要としたことで、二人は異なる種類の人だということが分かるのです。カンダケの高官はユダヤ人であると同時に「宦官」であったということ。この人がイェシュアを信じてバプテスマを受けたことは、宦官であっても、御国に入ることができるようにされたというデモンストレーションであると言えるのです。

●この記事は「宦官」が主の家(=メシア王国)に入った最初の記録です。使徒の働き3章では「生まれつき足の不自由な人」がイェシュアの御名で癒やされて、立ち上がり、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人(ペテロとヨハネ)と一緒に宮(=メシア王国)に入って行ったことが記されています。この「生まれつき足の不自由な人」とはヤコブのメタファーであり、「イスラエルの残りの者」の型です。そのあとに「宦官」の救いの出来事が出てくるのです。彼は「ユダヤ人」でもあり、また「異国の民」でもあり得ます。いずれにせよ、「宦官たち」にとっても、「異国の民」にとっても、重要なことは「安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら」(イザヤ56:4, 6)ということです。「安息日を守る」とありますが、十戒には「安息日を守れ」という表現はありません。正しくは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」(出エジプト20:8)です。「守る」と訳された「シャーマル」(שָׁמַר)には確かに「守る」という意味がありますが、「気をつける、見張る、心に留める、保つ」という意味合いもあるのです。つまり、ここではあらゆる領域において、神の統治(支配)があることを「気をつけて、見張り」、そして「心に留め、保つ」ことが求められているのです。それは安息日の真の意味を悟り、それを「心に留める」という意味で理解するべきで、「堅く保つ」もそれを強調することばです。そうするなら、以下のことが成就するのです。

【新改訳2017】イザヤ書56章7~8節
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ
8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

●7節の「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」という預言が成就します。ここでの「彼ら」とは、異国の民です。また、この預言は宦官たちにも成就する、と解釈できます。「私の聖なる山」とはエルサレムです。そこで「楽しませる」は「サーマハ:שָׂמַח」で、メシア王国の基調となる重要な語彙です。新共同訳はこの7節前半を「・・・わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。」と意訳しています。御国の福音の基調は「喜びと楽しみ」です。そんな喜びに満ちた御国の世界に招かれていることを、いつも「心に留め」ながら、「見張っている」必要があるのです。そこに、上からの新たな力(ピンプレーミ)が注がれるのです。ですから、主は、「宦官」に対して「ああ、私は枯れ木だ」と言ってはならないと語っています。「枯れ木も山のにぎわい」ということわざがありますが、それは「つまらない者でも、いないよりはましである」という意味で使われています。しかし、ここでの「枯れ木」は「子を生むことのできない無用な存在」という意味で使われており、そのように思ってはならないことを語っています。なぜなら、「主のしもべ」の代償的贖いによって、宦官も主に連なり、主に仕え、主の名を愛して、安息日を守り(=主が安息することを心に留めて)、それを堅く保つ新しい民となることが預言されているからです。それは人の努力目標ではなく、主ご自身が霊によって、主に連なる者として下さるからなのです。そしてその暁には「息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」(5節)というとてつもない栄誉を主から与えてくださるのです。

画像の説明

●上記の「祈りの家」とはどういう意味でしょうか。ここでの「祈りの家」とは、この世にあるなにかの施設のことではありません。それは「メシア王国そのもの」のことです。神と人とがともに住む家、それは王なるメシアと、その王によって贖われたすべての民がともに住む「王国」、それが「祈りの家」と呼ばれるのです。その「祈りの家」のことをイェシュアは「わたしの父の家」、「わたしの家」とも言っています。

●8節に、ハイフン付の「ー神である主のことばー」があります。普通は「ネウム・アドナイ」(נְאֻם יְהוִה )が使われますが、ここではあえて「נְאֻם אֲדֹנָי יְהוִה」と書いて、「ネウム・アドナイ・エローヒーム」と読みます。通常このことばが置かれる位置としては、ことばの最後か、途中です。しかしここでは珍しく8節冒頭に置かれています。これは非常に珍しい例です。何を強調しているのかと言えば、「すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」ということです。「すでに集められた者たち」とは「イスラエルの散らされた者たち」です。つまり「離散の民」のことです。ここには、アッシリアに捕囚された者たちや世界離散された者たちを含んでいます。この中から「イスラエルの残りの者」が立ち上げられるのです。そして「さらに集めて加える」とは「異邦人」のことです。異邦人を除外することなく、御国を継がせることは、最初からあった神のご計画です。そのみこころを示しているのが「―神である主のことばー」なのです。それは神の思いに印を押すようなものです。

3. 堕落した宗教指導者たち

●イザヤ書56章の後半(9~12節)は、イスラエルの指導者たちの堕落した姿が描かれています。

【新改訳2017】イザヤ書56章9~12節
9 野のすべての獣よ。やって来て貪り食うがよい。林の中のすべての獣も。
10 神の見張り人は目が見えず、みな何も知らない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りを貪る。
11 この犬どもは貪欲で、足ることを知らない。彼らは牧者なのに、悟ることがない。だれもがみな、自分勝手な道に向かって行く。一人残らず、自分の利得に。
12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。明日も今日と同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」

●9節には、神の敵が「野のすべての獣」と「林の中のすべての獣」と呼ばれています。「獣」と訳された語彙は「ハッヤー」(חַיָּה)で、ユダに侵入する外敵を象徴しています。国単位で言うなら、バビロン、ギリシア、ローマが「獣」に相当します。終わりの日にも「獣」と呼ばれる反キリストが台頭してきて、神の民を貪り食います。その理由は、10節にあるように「神の見張り人は目が見えず、みな何も知らない」からです。「神の見張り人」(ツァーファー:צָפָהの分詞複数)は「敵の侵入を警告する預言者」のことです。彼らの目が見えていないので、その務めに適さなくなってしまっているのです。また「口のきけない犬(複)」とは、羊たちの番をする番犬のことです。声を出さなくなった番犬はそれだけで用済みですが、「貪欲で、足ることを知らない」とあります。この「貪欲」は「強欲」のことで「足ることを知らない、飽きることを知らない」者のことです。この「貪欲」が偶像礼拝と結びつくのです。

●また「牧者」はイスラエルの宗教指導者たちのことです。彼らは祭司たちですが、その使命を果たすどころか、「悟ることがない」者たちとあります。「悟りのない」祭司たちが「自分勝手な道に向かって行く」ことで、国は亡びることになるのです。「見張り人」「犬」「牧者」の三つのたとえは、すべてイスラエルの民を養い守るために、神が立てられた指導者たちを指しています。ですが、彼らは自分の務めを理解せず、「一人残らず、自分の利得」を追い求めて、自分の責任を果たしていない指導者なのです。終わりの日にも、獣が与えるこの世の豊潤な酒に酔う者たちが起こります。12節の「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。明日も今日と同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」とはどういう意味でしょうか。「強い酒を浴びるほど飲もう」の原文は「私たちは酒を大いに飲もう」です。「酒を大いに飲む」は「サーヴァー」(סָבָא)で、その初出箇所(申21:20)を見るなら、「大酒飲み」は「わがまま・頑固・強情」と同義であることが分かります。しかも「明日も今日と同じだろう」とは放縦が習慣化しているため、神の民としても、また特に指導者としても不適格極まりないということです。箴言23章20節には「大酒飲みや、肉を貪り食う者と交わるな」とも言われています。

ベアハリート

●今回のイザヤ書56章以降は、53章に登場した「主のしもべ」の代償的贖いによって罪赦された、新しい神の民に対する永遠のかかわりの預言です。その預言はメシア王国で実現します。56章1~8節で、神は新しい神の民に対して、「公正を守り、正義を行い、安息日を守ってこれを保つよう」呼びかけています。その真意は、聖霊によって神の支配(統治)に目を見張り(目を留めて)、神とのあるべき正しいかかわりを築き上げ、神の安息を悟り、待ち望む者には、イスラエルの残りの者のみならずすべての者に、神の家(御国)における喜びと楽しみが与えられることを約束しています。この呼びかけの理由は、神の救いが来るのが(神の義が現れるのが)「近い」からです。しかし、イザヤが神のことばを語った当時の指導者たち(=見張り人)はみな、そのことに盲目で無知であり、自分の務めが何であるかを理解していませんでした。

●イェシュアが来られた時(初臨)にもそうです。「宮きよめ」と「いちじくの木が枯れる」の話は「二つで一つ」です。この二つは「神の訪れの時を知らなかった」当時のエルサレムの現実をよく表しています。イェシュアは商売人たちと両替人たち、そして羊も牛も、宮から追い出しています。宮を神聖視しているユダヤ当局がそれを黙って見過ごすことはありません。エルサレムに入ったイェシュアの言動の一つ一つが、ユダヤ当局との激しい戦いを意味しているのです。それは神とサタンとの激しい戦いが始まったことを示しています。イェシュアは商売人と両替人たちに対して、宮を「強盗の巣にしている」と言いました。彼らは当時の祭司長、祭司たちと親戚関係にあったことから、イェシュアの彼らに対する言動は、むしろ祭司長や祭司たちに対する批判をしたことになります。まさにエルサレムの神殿は祭司集団の利得をむさぼる「巣窟」となっていたのです。しかし、神のご計画においてやがてそこは「祈りの家と呼ばれる」ようになるのです。御国はイスラエルだけでなく、多くの異邦人を包み込んだ憩いの場となるのです。まさにエルサレムは「生きるものすべての母」(創3:20)としての機能が回復し、「一つによくまとまった都として建てられている」(詩122:3)のを、私たちは目の当たりにするのです。

シャーローム シャーローム イェルーシャーライム
平和あれ メシアが来られるとき 誉れは あなたに

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2026.6.21
a:63 t:1 y:1

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