アモス書〔עָמוֹס〕
アモス書〔「アーモース」עָמוֹס〕
ベレーシート
●「アモス」(「アーモース」עָמוֹס)の語源である「アーマス」(עָמַס)は「重荷を負う」という意味です。アモスのプロフィールは1章1節、および7章14~15節にあります。1章1節によれば、彼の故郷はエルサレムの近くにある寒村「テコア」(下の地図参照)出身で「牧者・羊飼い」(「ノーケード」נוֹקֵד)です。ところがアモスが預言した相手は、北イスラエルなのです。預言者ヨエルは南ユダ王国に対して神のことばを語りましたが、アモスはユダの出身でありながら北イスラエル王国のベテルという場所で語った預言者です。
【新改訳2017】アモス書 1章1 節
テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。
(1) 地震
1節にあるように、彼が預言した時期は南ユダのウジヤ王、並びに北イスラエルのヤロブアムⅡ世の治世の時期で、いずれも表面的には最も繁栄していた時代でした。しかしその繁栄は偶像による見せかけのものであり、神のさばきを免れ得ないものでした。神のさばきの前兆として「地震が起こる」ことが記されています。十二の小預言書で「地震」が起こることが記述されているのは、アモス書1章1節とゼカリヤ書14章4節(5節)の二箇所しかありません。ゼカリヤ書の場合は再臨のメシアの足がオリーブ山に立つときに、そこが地震で二つに裂けることが記されています。アモス書の地震はすでに歴史上で起こっていますが、同時に地震は神のご計画と密接な関係にあります。その証拠に、ヨハネの黙示録では「地震」が五回登場します。イェシュアも、地震が起こるのは「産みの苦しみ」の前兆であることを述べています(マタイ24:8)。
●「地が揺れる(地震の)」ときには、地のみならず、自然の様々なことが連動します。津波を引き起こし、火山が噴火し、人間が造り出した様々なシステムが破壊され、文明のあらゆる機能が不全になります。天において様々な異変が引き起こされ、それがまた地における災害をもたらします。聖書においては、神のさばきが地震と密接な関係があることを教えています。以下の記述の中にも「地震」とそれに連動する自然災害が記されています。
①【新改訳2017】ヨハネの黙示録6章12節
また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
●第六の封印が解かれた時から、大患難(患難時代の後半)が始まります。地震はそのしるしとなります。②【新改訳2017】ヨハネの黙示録8章5節
それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。③【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章13節
そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。
●「そのとき」とは「二人の証人」が復活し携挙されたときで、七年間の患難時代の前半の間に起こります。④【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章19節
それから、天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた。すると稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大粒の雹が降った。⑤【新改訳2017】ヨハネの黙示録16章18節
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
●この⼤地震によって「あの⼤きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の⺠の町々は倒れた」とあります。「あの⼤きな都」とは、エルサレムのことではなく、「諸国の⺠の町々」も含んでいることから、「⼤バビロン」と考えられます。17章ではこの⼤バビロン(「⼤淫婦」とも呼ばれます)に対するさばきが記されているからです。この「⼤バビロン」(⼤淫婦)は、地上において世界中の国々の王たちを⽀配する政治的・経済的・宗教的な組織と考えられます。あるいは、ゼカリヤ書14章4節にあるように、オリーブ山が裂ける地形の大変動が起こることも含まれているかもしれません。いずれにせよ、大患難時代の終息をもたらす未曽有の大地震となるはずです。このように、主の日、終わりの日に起こる地震は、神のご計画と密接な関係にあります。しかし、これらの地震と出来事の時系列を定めることには難しさがあります。なぜなら、出来事の有無は明確ですが、時系列で説明されてはいないからです。これこそがまさにヘブル的記述の特徴なのです。
(2) 「牧者」と「いちじく桑の木の栽培」という職業
●アモスは自分の職業を「牧者」(1:1)と「いちじく桑の木を栽培する者」(7:14)として述べています。なぜ彼は二つの職業をしていたのでしょうか。どのようにしてこの二つの職業が両立できるのでしょうか(これについては、リュ・モーセ著「聖書に潜む植物のストーリー『聖書の世界が見える』」植物編、ツラノ出版、2011年の84~86頁を参照)。その理由はこうです。当時の牧者は荒野で羊を飼っていました。イスラエルの季節は雨季(10月~3月)と乾季(4~9月)に分かれます。雨季には荒野で羊を飼いますが、乾季には荒野からヨルダン平野に下って、羊の群れに麦の切り株や雑草を食べさせました。そのための契約を土地の持ち主と交わすと同時に、牧者はいちじく桑の木の栽培も引き受けていたようです。そもそも、そのようにしなければ羊の群れを荒野で死なせてしまうので、選択の余地は全くなかったということです。
●ちなみに、「いちじく桑の木」と「いちじくの木」とは異なります。これら二つの木の系統は異なるようです。「いちじく桑の木」は、「いちじくの木の実」と似た野生の実を真夏に結びますが、そのままでは渋くて食べられません。実に針で一つひとつ突いて穴をあけ、その穴にオリーブ油を塗るといちじくのように甘い実となるようです。その作業は大変な労を伴いますが、牧者たちは羊を食べさせるために、その労をいわばただ同然でしていたのです。しかもいちじく桑の実の収穫は所有者のものです。収穫の時期は仮庵祭の前までで、その時期を逃すと全く食べられなくなるようです。こうした背景のゆえに、「羊飼い」と「いちじく桑を栽培する」という二つの職業が成立していたということです。当時の社会において、牧者(羊飼い)たちは社会の貧困層に属していました。そのようなアモスを通して、特に北イスラエルの首都であるサマリアの金持ちたちの贅沢三昧と極度の貧富の格差という事実が訴えられているのは、神の定めとしか言いようがありません。
●イェシュアがエリコの町を通られた時、取税人のかしらで、金持ちのザアカイがいちじく桑の木に登った話は有名です。「今日、あなたの家に泊まることにしている」と言ったイェシュアをザアカイが自分の家に泊めた時に語られた、それぞれのことばがとても重要です。まずザアカイの「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」という悔改のことば、それに対するイェシュアの「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」ということばーこの二つのことばは、アモスの預言と深いつながりを感じさせます。「アブラハムの子」とは「全イスラエル」を意味するからです。ザアカイは「全イスラエルの象徴的な存在」と言えるのです。
1.「わたしは彼らを顧みない」
●神はイスラエルの周囲の諸国に対するさばきを語っていますが、北イスラエルに対してはこう語っています。
【新改訳2017】アモス書2章6節
【主】はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。
●「・・のゆえに、わたしは彼らを顧みない(「ロー・シューヴ」לֹא שׁוּב)」という部分を、新改訳第三版までは「わたしはその刑罰を取り消さない」と訳しています。他の訳では、「撤回しない」(岩波訳)、「後へは引かない」(関根訳)、「ゆるさない」(口語訳)、「決してゆるさない」(新共同訳)、「わたしはもう容赦はしない」(フランシスコ会訳)となっています。イスラエルの罪については、以下のように多くの理由が語られています。
①人身売買(6節)・・金のために正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売った。
②貪欲(7節)・・物欲のために弱い者の頭を地のちりに踏みつけた。
③不正(7節)・・貧しい者の道を曲げた。つまり、賄賂によって裁判が左右されていた。
④不道徳(7節)・・父と子が同じ女(神殿娼婦)のところに通っていた。
⑤非情(8節)・・祭壇のそばで、質に取った衣服の上に横たわっていた。
⑥不敬虔と放縦(8節)・・罰金で取り立てたぶどう酒を、自分たちの神の宮で飲んでいる。
●当時の貧しい者たちは高利の借金を返すことができず、「履き物一足」の値段で人が売買されていました。貧しさが貧しさを生み、富が富を生むという現象はますます深刻となっていったのです。経済の豊かさ(繁栄)は必ずしも人間を向上させることがないことを思い知らされます。むしろ反対に、想像を越えるような堕落と腐敗を社会に蔓延させます。この問題は現代も同様です。アモスはサマリアにいる支配層のことを「バシャンの雌牛ども」にたとえ、自分たちの夫「バアル」によって自分たちの欲望を満たそうとするその貪欲さや残虐さを批判しています(4:1)。これは偶像礼拝がもたらす実です。それゆえ、神である主は「見よ、その時代がおまえたちに来る。おまえたちは釣り針にかけて引き上げられる。最後の一人までが、銛(もり)で突かれる。」と言っています。「釣り針にかけて引き上げられる」とはアッシリアによって捕囚されることを意味しています。
2. 「神に会う備えをせよ」
●アモス書4章6節以降には、以下のように5回のリフレイン(反復句)があります。
【新改訳2017】アモス書4章6, 8, 9, 10, 11節
それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。
●「わたしのもとに」と訳されている語彙は「アーダイ」(עָדַי)。これはホセア書、ヨエル書でも触れました。「わたしに」という方向性を示す場合に「エーライ」(אֵלַי)という語彙を使用しますが、アモス書4章のリフレインにある「わたしのもとに」は「アーダイ」(עָדַי)です。単に神に立ち返るだけでなく、神のふところに届くような、そしてそこにとどまり続けることを要求する表現です。
●「それでも」とは、イスラエルの民たちが神に立ち返る契機として、①すべての地での「飢饉」(6節)、②一部の地域での「旱魃(かんばつ)」(7節)、③「害虫による黒穂病」と「いなごによる被害」(9節)、④「疫病と剣」(10節)、⑤「火による災害」(11節)がもたらされたにもかかわらず、それを神への立ち返りのチャンスとはしなかったことを叱責しています。
●人間は自然の災害に遭っても、それを神に立ち返る機会とはせずに、逆に「神が愛であるなら、なぜこんなことが起こるのか」、「神を許せない」という思いが先行してしまい、むしろ神に敵対する者となってしまうことが往々にしてあります。北イスラエルの民はその模範となってしまいました。「それゆえイスラエルよ、・・・あなたの神に会う備えをせよ。」(4:12)と語られます。このみことばをどのように理解すれば良いのでしょうか。「もう立ち返るチャンスはなくなった。それゆえ終わりだ、覚悟しろ」という意味でしょうか。実は、このみことばは二つに解釈できます。一つは、主がさまざまな災いを通して立ち返りのチャンスを与えたにもかかわらず、主のもとに帰ることをしなかった。それゆえに「主のさばきは免れない」とする解釈で、そのために「備えよ」という理解。しかしもう一つの解釈は、すでに彼らの力によって主のもとに立ち返ることは不可能となった。それゆえ「わたしが彼らを立ち返るようにさせる」という意味で、「神に会う備えをしていなさい」という理解です。4章13節を読むなら、どちらの意味かを理解できます。
【新改訳2017】アモス書4章13節
見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思いが何であるかを人間に告げる方。
暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、【主】。
●「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)ということばは「終わりの日」を示す預言的なことばです。ここで神を、「風を創造した方(「バーラー」בָּרָאの分詞)」、「その御思いが何であるかを人間に告げる方」としてたたえています。「風」は「ルーアッハ」(רוּחַ)で、「霊」とも訳されます。つまり、人が神に立ち返るためには、神の霊「ルーアッハ」が絶対に不可欠ということです。イスラエルの子らには多くの良いこと(良い物)が与えられました。奴隷状態からの解放、神との特別なかかわり、そして約束の地などです。多くの賜物には多くの課題(要求)が伴います。その課題は神が望んでいることです。しかしその課題に対する神の期待に、イスラエルの子らは応えることができませんでした。「それゆえ」、神は彼らの咎に「報いる」のです。つまり「さばき、罰する」のです。しかし、事はこれで終わりません。イスラエルの子らが「選び出された」のは、神が彼らとともに歩むことによって、神のヴィジョンのすべてを共有するためです。そのことを3章3節で、「約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか」と語っています。この表現は、選んだ者と選ばれた者が、互いに知り合うという関係でなければならないことが前提とされています。その関係を再び「創造する」というのが神のご計画なのです。その意味で「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)と言われているのです。事実、イェシュアの死と復活によって、その日のうちに「息が吹きかけられて、聖霊」がすでに包括的に与えられています。
3. 「主のことばを聞くことの飢饉」
【新改訳2017】アモス書8章11~12節
11 見よ、その時代が来る。──【神】である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことの飢饉である。
12 彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。【主】のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。
●ここで「見よ、その時代が来る」と預言されています。つまり「終わりの日」を預言しています。そのとき何が起こるのかといえば、「みことばを聞くことの飢饉」です。それはどういうことでしょうか。人々は「主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。」のです。ここにある「それ」とは隠された主のことば、すなわち「御国の福音」のメッセージです。イェシュアがこの世に来られた時、多くの人々が主を捜し求めました。どんな理由で人々がイェシュアを捜したのかというと、それは、彼らが「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とイェシュアは辛辣です。パンの給食の奇積はある大切なことを指し示す「しるし」でした。その「しるし」は御国における重要なことを教え指し示すものでした。しかし人々はそのことを悟らず、ただ目先の目に見えるパンを求めていただけでした。求めているものがずれているために、神のパンが意味することを見失い、真の希望を失って生きることができなくなっているのです。それが「みことばを聞く飢饉」です。現代においても、イェシュアが語った「御国の福音」に対して無関心なために、みことばの真の意味を悟ることがなく、飢饉を招いていると言えるのです。
4. 「根絶やしにするが、全く根絶やしにはしない」
【新改訳2017】アモス書9章8節
「見よ。【神】である主の目が、罪深い王国に向けられている。」
わたしはこれを地の面から根絶やしにする。しかし、ヤコブの家を根絶やしにすることはない。──【主】のことば──
●「見よ。【神】である主の目が、罪深い王国に向けられている。」とあります。それゆえ、だれ一人逃れることはできません。ところが、不思議なことばがあります。「根絶やしにする」は「シャーマド」(שָׁמַד)で、意味としては預言的完了形、つまり必ずそうなるということを意味します。後半の「根絶やしにすることはない」は「シャーマド」(שָׁמַד)の不定詞+未完了形が重ねられています。これは強調のためのヘブル的用法です。ですからこの箇所は、「目に見える北イスラエルは罪深い王国として根絶やしにするが、ヤコブの家そのものを根絶やしにすることは決してしない。」という意味です。
●この預言は、この時代にも起こると同時に、終わりの日(キリストの再臨前)にも起こります。黙示録7章にあるように、イスラエルの全部族の中からそれぞれ1万2千人ずつ、合計14万4千人が「神の印」を与えられて、反キリストの未曽有の苦難から守られ、生きたままで(=生身のからだで)メシア王国に入って行きます。おそらく彼ら、すなわち失なわれた十部族(北イスラエル)は、患難時代に入る前には神によって見出され、神に立ち返っているはずです。それがいつ、どのような形でなされるのかは定かではありませんが、教会は携挙されるので、それを目で見ることはないかも知れません。
5. 「昔のように、ダビデの仮庵が回復される」
●アモス書の1章から9章10節まで、そのほとんどが神のさばきのメッセージです。しかしその後の11節から最後までは、驚くべき回復のメッセージです。ですからその1節1節を味わっていきたいと思います。
【新改訳2017】アモス書9章11~15節
11 その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。
その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。
●「その日」とはメシア王国を意味しています。「ダビデの仮庵」(「スッカット・ダーヴィード」סֻכַּת דָּוִיד)とは、北イスラエルのことではなく、統一王国としての全イスラエルを意味します。主の日が来る時に、それがもう一度回復されるのです。「仮庵」と訳されたヘブル語は「スッカー」(סֻכָּה)です。それは「茂み、仮小屋、仮庵、幕屋」などを意味し、いわば粗末な掘っ建て小屋です。昔のようなダビデ王国の栄光と麗しさが全く失われた状態を「スッカー」という言葉で表しているのです。「ダビデ王国」と言えば、イスラエルの歴史の中で最も輝かしい黄金時代と言われた栄光の王国でした。それはダビデから息子ソロモンに受け継がれました。しかしその王国は、ソロモンの罪のゆえに北イスラエル10部族と南ユダ2部族の二つに分裂をもたらしました。二つに裂かれた「ダビデの王国」は今や倒れようとしており、やがて廃墟と化す運命にある状況をアモスは「倒れているダビデの仮庵」と言っているのです。
●ダビデが全イスラエルの王となって最初にしたことは、シオンの要害を全イスラエルの中心地としたことです。そこにはエブス人が住んでいましたが、ダビデはその地を攻め取りました。これが「ダビデの町」と呼ばれるようになります。ちなみに、聖書にはもうひとつ「ダビデの町」と呼ばれる場所があります。それはダビデの出身地ベツレヘムであり、預言されたメシアが誕生した場所です。御使いが羊飼いたちに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」(ルカ2:11)と告げた「ダビデの町」は、ベツレヘムのことです。
●「シオン」(「ツィッヨーン」צִיּוֹן)は、旧約で154回使われており、そこに天幕が張られ、神の契約の箱が安置されたのです。それが「ダビデの仮庵(幕屋)」と呼ばれるものでした。聖書では他の山々にまさってシオンの山が特筆されます。その理由は、そこにダビデの幕屋が置かれ、神の臨在が満ち溢れていたからです。シオンは神が選ばれた場所(詩篇132:13)であり、やがてメシアがそこを中心として全地を治める「麗しさの極み」、「全地の喜び」の場所となるからです(詩篇9:11, 48:2, 11, 50:2)。
12 これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う【主】のことば。
●メシア王国において、イスラエルは諸国を所有する支配国となります。イスラエルの敵であった「エドムの残りの者」がいるだけでなく、神の名で呼ばれる諸国の民がイスラエルによって支配される位置付けとなります。メシア王国にはイスラエルだけでなく、それに接ぎ木された諸国の民、すなわち多くの異邦人がいるのです。このことのゆえに、初代教会の最初の会議(使徒15章)では、議長であったヤコブを通して、アモス書の9章11~12節が引用されています(ただし引用元は七十人訳)。つまり、神のご計画の視点から、異邦人の割礼の問題が初めて協議されたのです。
13 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。
●8章11節に続いて再度「見よ、その時代が来る」というフレーズが来ます。そのとき、「耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」とはどういうことでしょうか。それは、収穫があまりにも多いために、処理しきれないほどであることを表現しています。
●また、ここでは「ぶどう」(「エーナーヴ」עֵנָב)と「甘いぶどう酒」(「アースィース」עָסִיס)ということばが出てきます。これは神とイスラエルとの関係を表す最も重要な象徴です。「溶けて流れる」という表現に、オリーブの油が豊かに流れ出るイメージを感じさせますが、いずれもイェシュアを表すたとえとなっています。
14 わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。
彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑(כֶּרֶם)を作って、そのぶどう酒(יַיִן)を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。
●ここには、「わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる」とあります。ダビデがしたような賛美を回復するということは、一言も記されていません。ダビデが全イスラエルを一つにまとめたように、昔のような「全イスラエルの回復」がなされるということが記されているだけです。私は長い間、「ダビデの仮庵を建て直す」という預言を、ダビデがしたような賛美を立て直すことだと信じて取り組んできました。しかしそうでないことに気づいたときから、今度はダビデのように「ただ一つのこと」(One Thing)を願い求める「みことばの瞑想」に取り組み始めました。しかし、ここで言われていることはそういうことではなく、神が「わたしの民イスラエルを回復させる」ということであったのです。ダビデが目指した礼拝やみことばの瞑想がとても大事であることに違いはありませんが、アモス書が語っているのは、そういうことではないということです。
●イスラエルの地ではどこででもぶどうの木が育つと言われます。そのこと自体が、その地がイェシュアを表す最良のたとえとなっています。「ぶどう畑」も「ぶどう酒」も、そして「その実」も、すべて神の祝福の象徴です。イェシュアは「わたしはぶどうの木(「ゲフェン」גֶּפֶן)です」と言われました。またイェシュアの公生涯はぶどう酒に始まり(ヨハネ2章)、ぶどう酒で終わっています(マタイ26:29)。聖書において「ぶどう酒」は単なる酒ではなく、霊的な渇きを癒す真の飲み物なのです。ですから、「ぶどう畑、ぶどうの木、ぶどう、ぶどう酒、甘いぶどう酒」のすべてが、イェシュアにある溢れんばかりの喜びと満足と祝福の源泉を表すたとえとなっているのです。換言すれば、メシア王国はイェシュアこそすべてのすべてとなることを表しているのです。
15 わたしは、彼らを彼らの地に植える。
彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、【主】は言われる。」
●「わたしは、彼らを彼らの地に植える」という預言も重要です。「彼らの地」とは神が与えた「良い地」を意味します。そこに彼らを再度「植える」のです。「植える・設ける」(「ナータ」נָטַע)の初出箇所は創世記2章8節で、「人をその園に置いた」で使われています。ということは、その地は「エデンの園」のことでもあり、神が与えた「良い地」のことでもあります。全イスラエルの回復とは、彼らがメシア王国において「王なる祭司としての務め」を回復するようになるということです。そこではもはや、決して「引き抜かれる」ことも、「根こそぎにされる」こともないのです。
三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。
2023.6.11
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