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イェシュアが逮捕される(改)


9. 午前1時~午前2時 イェシュアが逮捕される(改) (真夜中の逮捕劇)

【聖書箇所】
マタイの福音書26章47~56節、マルコの福音書14章43~53節
ルカの福音書22章47~53節、ヨハネの福音書18章2~12節

ベレーシート

●ゲツセマネの園において暗やみの力と戦ったイェシュアは、御使いに力づけられながら祈り、「汗が血のしずくのように地に落ちた」後に戦いに勝利して、「立ち上がり」ました(ルカ22:45)。この後、イスカリオテのユダを先頭にして剣や棒を手にした群衆がイェシュアを逮捕するためにやって来ました。この群衆はみな「祭司長、民の長老たちから差し向けられたもの」です(マタイ26:47)。イェシュアが逮捕される場面では、ゲツセマネとは異なる毅然としたイェシュアの姿が目立ちます。

1. 真夜中の逮捕劇の様相

●四つの福音書のすべてがイェシュアの逮捕劇を記していますが、微妙に異なっています。いくつかのことを整理しておきたいと思います。

(1) イェシュアを逮捕するために差し向けられた者たちと手にしていたもの
①マタイ・・ユダと剣や棒を手にした大勢の群衆
②マルコ・・ユダと剣や棒を手にした群衆
③ルカ・・・ユダと群衆
④ヨハネ・・ユダとともしびとたいまつと武器を持った一隊の兵士と役人たち
※新改訳では「ともしびとたいまつ」と訳されていますが、原文では複数の「たいまつ」(「ファノス」φανός)と「ともしび」(「ランパス」λαμπάς)です。前者の「たいまつ」(「ファノス」)は新約聖書ではこの箇所のみ。後者の「ともしび」は油を灯した灯火のこと。

(2) イスカリオテのユダとイェシュアとの会話
●ヨハネはゲツセマネの祈りの場面を記していませんが、共観福音書の記者たちが記していない情報を記しています。その情報とは、イェシュアと弟子たちがたびたびゲッセマネで会合していたということです。ユダはその場所に群衆や役人たちを引き連れて行き、自分が口づけする者がイェシュアであることを前もって打ち合わせていました。
●イスカリオテのユダとイェシュアが交わした会話は以下の通りです。
①マタイ
(ユダ)「先生。お元気で(こんばんわ)」(イェシュア)「友よ。何のために来たのですか」
②マルコ
(ユダ)「先生」(イェシュア)「ーー」
③ルカ
(ユダ)「ーー」(イェシュア)「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」

(3) 「だれを捜すのか」

●これはヨハネだけが記しているイェシュアのことばです。イェシュアは「自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられた」(ヨハネ18:4)ので、「あなたがたはだれを捜しているのか」(原文)と言われました。彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イェシュアは「それはわたしです」と言われました。原文は「エゴ―・エイミ」(ἐγώ εἰμί)です。
●逃げようとする様子もなく、むしろ堂々と前に出て、毅然としているイェシュアの姿に群衆の方が圧倒されてしまいました。ヨハネは「彼らはあとずさりし、そして地に倒れた」と記しています(18:6)。その驚きが目に浮かぶような表現です。

(4) 「剣をさやに収めなさい」
●イェシュアが捕えられそうになったとき、一人の弟子が剣を抜いて、大祭司のしもべの耳を切り落としました。その時、即座に語ったイェシュアのことばが「剣をさやに収めなさい」でした。
●この場面を、四つの福音書にあるすべての情報を寄せ集めると次のように説明することができます。

「群衆がイェシュアを逮捕しようとしたそのとき、剣を持っていたシモン・ペテロがそれを抜き、大祭司のしもべの右の耳を切り落としました。そのときイェシュアはすかさず、『やめなさい。それまで。』と言い、ペテロに『剣をさや(もと)に収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。父がわたしにくださった杯を、どうして飲まずにいられようか。』と言って、大祭司のしもべ(マルコス)の切り落とされた右耳にさわっていやされました。そして、押しかけて来た者たちに、『あなたがたはまるで強盗にでも向かうようにやって来た。・・今はあなたがたの時。そして暗やみの力(支配)です。』と言われました。」


2. 「ナザレ人イェシュア」

画像の説明

●「ナザレ人イェシュア」(ヨハネ18:5,7)、この名称はイェシュアが逮捕される時にはじめて登場することばです。この後にこの名称が各福音書にそれぞれ一回ずつ、4回出てきます(マタイ26:71、マルコ16:6、ルカ24:19、ヨハネ19:19)。使徒の働きにも4回登場します(2:22, 4:10, 6:14, 26:9)。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 2章23節
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。

●預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われたことが成就するためであったとありますが、旧約でそのような預言が語られている箇所を見出すことはできません。「ナザレ」という町も旧約聖書には出て来ません。このような預言をした預言者もいません。このことをどのように理解したらよいのでしょうか。

●「ナザレ」という町の名称が預言されていなくても、この預言(マタイ2;23)の真意は、「ナザレ」というヘブル語の語彙にあります。ナザレはヘブル語では「ナーツラット」(נָצְרַת)と表記します。町の名前はヘブル語ではすべて女性名詞です。

●オリーブの木の根から出た若枝のことを、ヘブル語では「ネーツェル」(נֵצֶר)と言います。イザヤ書11章1節、14章19節、60章21節、ダニエル書11章7節を参照。

(1) 【新改訳改訂第3版】イザヤ書11章1節
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
①「根株」-「ゲーザ」(גֵּזַע)
②「新芽」-「ホーテル」(חֹטֶר)ー根株から出た枝で、羊飼いの杖となる。
③「根」--「ショーレシュ」(שֹׁרֶשׁ)
「若枝」-「ネーツェル」(נֵצֶר)―根から出た枝で、オリーブの木を取り囲むように生え、苗木となる。

(2) 【新改訳改訂第3版】詩篇128篇3節
あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。
※「若木」-「ネーツェル」(נֵצֶר)

●オリーブの木の根株から出る「新芽」と根から出る「若枝」は、いずれもメシアの象徴です。根株から出る「新芽」(「ホーテル」חֹטֶר)は羊たちを導き守る羊飼いとしての「メシア」を象徴し、根から出た「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)はユダ部族から出たダビデ王国、すなわち「メシア王国」を象徴しています。

●ちなみに、「ネーツェル」の動詞は「ナーツァル」(נָצַר)で、「見張る、見守る、保つ、包囲する」という意味の他に「秘める」という意味があります。神の秘められた事柄としての「若枝」、それが「ネーツェル」、すなわち「ナザレ」の語義なのです。すなわち、「ナザレ人イェシュア」とはメシア王国の王であるイェシュアを意味しているのです。

  • 使徒ペテロは次のように述べています。

    【新改訳改訂第3版】使徒の働き 2章22~23節
    22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
    23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。


2015.3.19


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