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イェシュアによる五千人の給食の奇蹟

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61. イェシュアによる五千人の給食の奇蹟

【聖書箇所】マタイの福音書14章13~21節

ベレーシート

●今回の「五千人の給食の奇蹟」は、四つの福音書が共通に記している重要な奇蹟ですが、それぞれ微妙に違っています。マタイの福音書14章13節以降の一連の奇蹟は、「御国の王なるメシアとはどのようなお方であるか」ということを示すデモンストレーションの後編です。すでに8~9章にも10の奇蹟が記されていました。その奇蹟の多くは「病のいやし」が扱われていました。そしてこれが天の御国の一つのデモンストレーションだったのです。そこでは、汚れていたツァラアトだけでなく、異邦人の百人隊長の中風のしもべ、耳の聞こえない者や口のきけない者、および当時のユダヤ人の男性社会にとってはご法度とされていた女性に対しても、イェシュアは手で触れて癒されています。


●これまでもお話ししたように、イェシュアが語ったたとえ話となされた奇蹟は、すべて天の御国に関するものです。さらにこれまでの講解説教で分かってきたことですが、奇蹟はイェシュアが再臨された後に実現される天の御国がいかなる世界であるかということについて、たとえ話はイェシュアの初臨から再臨までの期間、どのようなことが起こるのかを教えています。ですから、今回の「五千人の給食の奇蹟」はやがて天の御国が実現した時に、特に御国の民は何によって生きるのかということが教えられていると言えます。そのことを聖書に照らしながら(=聖書のことばを根拠にしながら)考えていきたいと思います。まずは、テキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書14章13~21節
13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いイエスの後を追った。
14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。
15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
16 しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」
17 弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」
18 するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。
19 そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
20 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。
21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。

●今回の「五千人の給食の奇蹟」の出来事から、特に3つの語彙を取り上げてみたいと思います。第一は、13節にある「寂しいところ」(15節では「人里離れたところ」)ということば、つまりその奇蹟がなされた場所です。第二は17節と19節にある「五つのパンと二匹の魚」ということば、とりわけなぜ食物が「パン」と「魚」なのか。その組み合わせは何を象徴しているのかということ。そして第三は、「パン」と「魚」を食べた群集がみな「満腹した」という事実です。この奇蹟には多くの神の秘密が隠されているのですが、今回は細かな部分には立ち入らずに(例えば、なぜ「五千人なのか」など)、大字で記した三つの語彙に的を絞ってお話をしてみたいと思います。

1. 「寂しいところ」(人里離れたところ)

●人間の基本的なニーズは「満ち足りる」ことです。それをどこに、だれに、どのように求めるかが重要です。マタイの福音書14章における群衆も、「寂しいところ」でこの問題に遭遇するようにさせられました。「寂しいところ」はギリシア語で「エレーモス・トポス」(ἔρημος τόπος)と言い、「人里離れたところ」(人の住んでいない荒野「エレーモス」ἔρημος)のことを指します。ギリシア語は「荒野」のことを「エレーモス」の一語で表しますが、ヘブル語では幾つかの語彙で表します。使用頻度の多い順から挙げるなら、「ミドゥバール」(מִדְבָּר)、「アラーヴァー」(עֲרָבָה)、「ホルバー」(חָרְבָּה)の順です。

①「ミドゥバール」(מִדְבָּר)は、「語る」という意味の動詞「ダ―ヴァル」(דָּבַר)から派生した名詞で、「神のことばを聞くところ」という意味合いを持った語彙です。
②「アラーヴァー」(עֲרָבָה)は、イスラエルの地を南北に貫く「アラバ」と呼ばれる低地帯の荒地、および草原を意味します。モアブの草原、エリコの草原など、そして「アラバの海」と言えば「死海」を意味します。つまり地理的・地形的な意味合いを持つ語彙です。
③「ホルバー」(חָרְבָּה)は、「かわく」という動詞「ハーレーヴ」(חָרֵב)から派生した名詞で、「乾いた地、荒れ果てた地」などを意味します。

●以上の三つの語彙が旧約における「荒野」の概念を有しています。今回のマタイの14章13節の「寂しいところ」と訳されたヘブル語訳には「ホルバー」(חָרְבָּה)が使われていますが、このことばに「神のことばを聞くところ」という意味合いも含めたとしても、決しておかしくはありません。なぜなら、イェシ
ュアはしばしばそのようなところに退かれ、御父と交わっておられたからです。また「アラーヴァー」(עֲרָבָה)という地理的な語彙でも可能です。実際、この奇蹟がなされたのはそのような地理的な場所だからです。いずれにしても、イェシュアが群集に対して「荒野」においてこの奇蹟をしたことは、決して偶然ではなく、イェシュアの戦略です。この奇蹟には、かつて神がイスラエルの民をエジプトから導き出して、荒野に導き入れた出来事の背景があります。というのは、荒野は生存の保障が断たれる場でもあると同時に、そこは神がどのような方であるかを示す絶好の場所だったからです。荒野は人々が主の教えに従って歩むかどうかを試みるための場所だからです。つまり、「荒野」において「給食の奇蹟」が起こったことが重要なのです。

●イスラエルの歴史を踏み直されたイェシュアは、公生涯に入る前に、御霊によって荒野に導かれました。そこで四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた時に、試みる者(=悪魔)が近づいて来て言いました。「もしあなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と。するとイェシュアは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」と申命記8章3節に記されているみことばを使って、悪魔の誘惑を退けられました(マタイ4:4)。この『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』ということが実現される世界こそ、まさに天の御国なのです。

●「生きる」と訳された動詞「ザオー」(ζάω)の元のヘブル語訳は「ハ―ヤー」(חָיָה)です。この動詞は「わたしは『わたしはある』という者である」 (「エイェ・アシェル・エイェ」אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)という永遠の自己啓示を表わす神の名となっています(出エジプト3:14)。英語で表現するなら、I am who I am となります。それゆえ「人は・・、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」とは、神でしか言えない途轍もないことばなのです。そのことを示す一つの例が、弟子たちに対して「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」というのがそれです。イェシュアはそれができないことを知っていて、弟子たちに命じました。そこで弟子たちが「ここにはパン五つと魚が二匹しかありません」と言うと、イェシュアは「それを、ここに持って来なさい」と命じます。「ここに持ってくる」、すなわち「イェシュアのところ」です。ここが重要なところです。なぜなら、イェシュアこそ「わたしは『わたしはある』という者である」という方だからです。実はこのことばのなかに、イェシュアの言われた「エゴー・エイミー・〇〇〇」(わたしは〇〇〇)が入るのです。この〇〇〇には「いのちのパン」「生ける水」「世の光」「良い羊飼い」などのことばが入りますが、ここでは「いのちのパン」であるという啓示を示すためにも、この奇蹟は必要だったと考えられます。

2. 「パン」と「魚」に象徴される神のことば

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●人は何によって生きるのかといえば、それは神のことば以外にありません。神のことばは、神のみおしえである「トーラー」(תוֹרָה)です。みことば詩篇と言われる「詩篇119篇」には、神のご計画、みこころ、みむね、目的を示す神の「トーラー」が、右図に示すように、様々な語彙で言い換えられています。「トーラー」は狭義的には【モーセ五書】を指していますが、広義的には神のことば全体、すなわち聖書全体とも言えます。御国はこれが完全に実現・成就する世界であり、御国の民は神のことばによって生かされ、満たされる世界なのです。

●山上の説教と言われるマタイの説教に、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(5:6)とあります。「飢え渇く」の「飢え」は「食物」によって満たされますが、「渇き」は「水」によって満たされます。しかしここで目に見える物でなく、天から与えられる「食物」と「水」、すなわち、天からのパンと天からの水、それは「神のことば」と「聖霊」のことを指します。義である神とのかかわりは、この「神のことば」と「聖霊」によって、完全に満たされることが未来形で記されているのです。つまり、天の御国が完全にこの地に到来する時にそのことが実現されるということですが、今回の「パン」と「魚」は何を意味するのでしょう。なにゆえに「パン」と「魚」なのでしょうか。この組み合わせに意図があるのかないのか、それを検証するためにいくつかの聖書箇所を引用したいと思います。

(1) マタイの福音書7章7~11節 

●山上の説教7章において、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(7節)という約束があります。何を求めるのか、何を探すか、何をたたくのか、それについてのヒントがそのあとに記されています。

【新改訳2017】マタイの福音書7章9~11節  
9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらない ことがあるでしょうか。

●このたとえ話で、なぜ「パン」と「魚」が登場しているのか、気づく人は少ないと思います。なぜなら、「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」というところに強調点が行ってしまい、何を求めるのか、何を探すのか、何に対してたたくのかに思いが行かないからです。自分の子が「パン」を求めているのに、「魚」を求めているのに、石や蛇を与える父がいるだろうか。悪い父親であってもそのようなことはしないし、自分の子には良いものを与えることを知っている。「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」とイェシュアは述べています。マタイは「良いもの」(複数)としていますが、平衡記事であるルカの福音書では「聖霊」(単数)としています。ちなみに、魚に似た「蛇」( 「オフィス」ὄφις)は、レビ記11章で食べることが禁じられている「ひれとうろこをもたない水の生き物」のことです。そしてこの「蛇」が、ルカでは「さそり」となっています(11:12)。ちなみに、聖書では「蛇とさそり」は常に一対として使われています。

●このたとえに出てくる「パン」と「魚」。なぜこの組み合わせなのでしょうか。マタイはこれを御国の民が求めるものとして挙げているのです。ですから必然的な意味を持った組み合わせなのです。この二つは、神のみおしえ、神のトーラーを表す象徴なのです。この組み合わせは、「五千人の給食」でも「四千人の給食」でも全く同じです。「五千人の給食」では「五つのパンと二匹の魚」(14:17, 19)によってなされますが、「四千人の給食」では「七つのパンと小さな少しばかりの魚」(15:34, 36)によってなされます。そして、いずれも群衆たちは「満腹して」います。数はそれぞれ異なりますが、「パン」(「アルトス」ἄρτος/「レヘム」לֶחֶם)と「」(「イクスス」ἰχθύς/「ダーグ」דָּג)の組み合わせはいずれも変わりません。

(2) ルカの福音書24章

●さらにルカの福音書24章では、イェシュアはご自分が復活したことを弟子たちにあかしするときに、エマオの村では弟子たちと食卓に着き、パンを裂かれたこと。また、エルサレムにおいてはご自分が生きておられることを示すために「焼いたを一切れ」食べたということ。これらの行為がすべて聖書を悟らせることと無関係でなかったことがそれらの箇所の記述を読むと理解できるのです。

●ルカの福音書24章27節以降には、「モーセやすべての預言書たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた」(17節)こと。「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければならないこと」(44節)。「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」言われたことが記されています(45節)。ルカもイェシュアが「タナフ」を用いて、ご自分のことを語ったとしています。以下がそれです。

【新改訳2017】ルカの福音書24章27節
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

●ここでの「モーセ」とは「トーラー」(תוֹרָה)、「すべての預言者たち」とは「ネヴィーイーム」(נְבִיאִים)、「聖書」とは「諸書」と呼ばれる
「ケトゥーヴィーム」(כְּתוּבִים)のことです。

① 24章32節
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
② 24章44節
そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。
わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
③ 24章45節
それからイエスは、聖書(「ケトゥーヴィーム」כְּתוּבִים)を悟らせるために彼らの心を開いて、

●ルカの24章では、エマオの村でイェシュアが食卓でパンを裂かれた後で、二人の弟子たちはイェシュアだと分かり、エルサレムではイェシュアが生きておられることを示す証拠として「焼いたを一切れ」食べた後で、「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」と弟子たちに語っています。これは預言的な行動です。つまり、食べるためにパンを裂くことや魚を食べた行為が、神のことばである「トーラー」(תוֹרָה)と「ネヴィーイーム」(נְבִיאִים)と「ケトゥーヴィーム」כְּתוּבִים)のすべてが成就することにつながっているのです。

(3) マタイの福音書14章19節

●イェシュアが「五千人の人々」に食べさせたのは「五つのパンと二匹の魚」でした。なぜパンが「五つ」なのか、なぜ魚が「二匹」なのかといえば、これは「旧約聖書」のことを指しているからだと言えるのです(イェシュアの時代には新約聖書はありませんでした)。ユダヤ人はこれを「タナフ」と言います。なぜ「タナフ」というのかと言えば、その中身は「モーセ五書」(「トーラー」תוֹרָה)と「預言書」(「ネヴィーイーム」נְבִיאִים)と「諸書」(「ケトゥーヴィーム」כְּתוּבִים)とからなっているからです。

画像の説明

●赤色で表された三つの頭文字を取って「タナフ」(תַנַךְ)と呼んでいるのです。しかしその位置づけは、「トーラー」が最も法的に基本的なものであって、あとの二つはこの「トーラー」の参考書程度の位置づけなのです。食事に例えるなら、主食と副食の関係です。ただし、キリスト教の旧約聖書の中身はユダヤ教とは異なっています。キリスト教のそれは「モーセ五書」「歴史書」(ヨシュア記~エステル記)、「諸書」(ヨブ記~雅歌)、「預言書」(イザヤ~マラキ書)の四つに分類されます。イェシュアの語った旧約聖書はユダヤ教の三つからなる分類です。

3. パンと魚を食べた人々がみな「満腹した」という事実

●「五千人の給食」の奇蹟における最も重要なエキサイティングな出来事は何でしょうか。それは「人々はみな、食べて満腹した」(14:20)に尽きると思います。これこそ御国の福音のデモンストレーションなのです。これはエデンの園の回復を預言している出来事です。エデンの園は「思いのままに食べてよい」世界でした。「あなたは園にある木の実を思いのままに食べてよい」と。ヘブル語原文は「園の木のすべてから大いに食べてよい」となっており、食べるという意味の「アーハル」(אָכַל)という語彙が不定詞と未完了形によって二重に重ねられることで強調されています。これが神と人とが住む家(=園、幕屋、神殿、御国)の喜びです。

●「満腹した」を意味するヘブル語動詞「サーヴァー」(שָׂבַע)の初出箇所は、イスラエルの民が荒野で飢え渇いて神につぶやいたときに、主が「夕方にはあなたがたに・・朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。」と語った時に使われた言葉です。何もない荒野で、神は彼らに「満ち足りるほどのパン」を与えたのです。「五千人の給食の奇蹟」はまさにこの出来事が背景となっているのです。

●イェシュアはまさに「神の口から出る一つ一つのことばで生きた」人(=リビング・トーラー)でした。それだけでなく、人々に神の口から出た一つ一つのことばを伝えることのできた人でもあり、それを人に語って生かすことのできる方なのです。重要なことは、人が生きるに必要なことは、神の口から出る一つ一つのことばによるのであって、神の口から出ることばを語るイェシュアと、そのイェシュアが語ることばに飢え渇くことが重要なのです。それがマタイの言う「義に飢え渇く」ことなのであり、そしてそのような者は例外なく「満ち足りる」のです(マタイ5:6)。

●特に、イェシュアによって神のご計画が解き明かされた時のエマオの弟子の二人が互いに言ったことばは何だったでしょうか。それは、「道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか」(ルカ24:32)でした。これは彼らの心の内が「満ち足りる」ということ以外のなにものでもありません。「燃えていた」と訳された「カイノー」(καίω)は現在受動分詞で「燃やされ続けていた」という意味です。「満ち足りる」と訳された「コルタゾー」(χορτάζω)は、神のことばが正しく解釈されるとき、私たちの内なる霊は解き放たれ、私たちの内に霊的な火が点火し、燃やし続けられることでもたらされるのです。それが「心が燃やされ続ける」という経験であり、マタイ5章6節のことばで言うならば、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」ということの実現です。この言葉は「五千人の給食」「四千人の給食」での「満腹した」(マタイ14:20、15:37)ということばと同じです。それゆえ、天の御国は爆発的な喜びという旧約聖書の預言が理解できるのです。天の御国とはまさにそのような感動に満ちたところと言えます。

●ですから、「何の楽しみもない」と嘆く前に、やがて「満ち足りる」世界が相続されている御国の到来をひたすら求め続けていかなければなりません。それが聖書のいう「信仰」であり、その信仰があるところに「聖霊」も働くのです。

●使徒パウロは、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証である」と言っています(エペソ1:14)。とすれば、主にある私たちは、いよいよ神のことばを聞くことを「求め続け」「捜し続け」「たたき続け」なければなりません。そうすることで、御霊が働き、以下のパウロの祈りのことばが私たちのうちに実現されてくるのです。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章18~19節
18 あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しにより与えられる望みがどのようなものか
聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを
知ることができますよう


ベアハリート

●プロテスタント教会の歴史は、聖書を読み、これに命をかけて来た信仰集団の歴史です。宗教改革者のルターは深く聖書に沈潜して、聖書の精髄としての福音を発見しました。それは、1514年の詩篇講解の最中でした。その翌年から2年にわたって有名なローマ書の講解をします。次に、ルターは聖書を自国語で読めるように、自ら旧新約両聖書をドイツ語に、民衆の言葉に翻訳しました。1522~34年のことです。その背後には、明確な動かし得ない確信があります。それは、人は神のことばによって生きるという確信です。ですから、キリスト者が聖書を読まなくなるということは、たとえどんな理由があったにせよ、「死に至る病」なのです。それはみことばを開かせる聖霊に対する無関心さに原因があるのかもしれません。聖霊はみことばとともに働かれます。みことばによる感動は、聖霊の働きのあかしでもあるのです。

2019.9.15


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