****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イェシュアの復活と顕現


126. イェシュアの復活と顕現

【聖書箇所】マタイの福音書28章1~10節

ベレーシート

●2017年1月8日から始まった「マタイの福音書の講解説教」の最後の章となりました。5年を経過し、4月で終了となります。この間、2018年3月11日に脳出血で倒れ、6月から再び主の恵みによって立たせられて、今に至っています。今年は信仰生活50年、ヨベルの年を迎えています。原点に帰ろうとすると、新しいことが次々と開かれて、ますます時間の管理をしなければならなくなっています。私の内と外に聖霊の助けの必要をひしひしと感じています。

●さて、イェシュアの復活と顕現は四つの福音書すべてに記されていますが、その共通点は「週の初めの日」ということです。「よみがえられました」というフレーズは共観福音書に共通して記されていますが、ヨハネにはそれがありません。みな微妙に異なっています。さらに四つの福音書のもう一つの共通点と言えば、「マクダラのマリア」が登場していますが、ヨハネの福音書のマクダラのマリアにはある特別なことが秘められています。イェシュアが復活したに墓に来たマグダラのマリアとのやりとり、そしてその日の夕方に隠れていた弟子たちのところに現れたイェシュアの語ったことばに注目してみたいと思います。マタイの福音書の説教なのになぜヨハネ? と思われるかもしれませんが、ヨハネの福音書は共観福音書、およびパウロの書簡よりもずっと後に書かれたゆえに、共観福音書、およびパウロ書簡には記されていない重要な事柄が記されているのです。復活という大切な出来事にもヨハネは何かを付け加える必要があったのです。漁師が漁を終えて網を洗い、破れてしまった網を繕うように、ヨハネ文書は「繕う務め」の書として書かれているのです。今回の説教では、共通する「週の初めの日」と、ヨハネだけが記すとてもデリケートな部分を取り上げてみたいと思います。そのことによって、復活の奥義の新たな面に触れたいと思います。

1. 「週の初めの日」

●マタイの福音書28章1節に「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」とあります。安息日が終わった次の日は「週の初めの日」です。それは土曜日の夕方から始まります。そして夜から明け方になって、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行ったことが記されています。金曜日の夕方、イェシュアの葬りが慌しくなされたために、再度、丁寧に葬るために墓に行ったと考えられます。その間、墓を塞いだ大きな石に封印をされたことや、主の使いが天から降りて来たことで地震が起こり墓の大きな石がわきに転がったこと、そして墓の番をしていた兵士たちが主の使いの姿の恐ろしさに震え上がって死人のようになったことなど、何一つ彼女たちは知らずにやって来たのでした。

●そんな彼女たちは、主の使いから「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです」と聞かされます。なぜ安息日の翌日、「週の初めの日」にイェシュアはよみがえられたのでしょうか。それはイェシュアが死んで「三日目」のことでした。使徒パウロが「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリント15:4)と記していますが、「聖書に書いてとおりに」という意味について話したいと思います。このことはすでに何度も語って来たことです。それは旧約にある主の例祭に啓示されていることが成就したことを、「聖書に書いてあるとおりに」と記しているのです。レビ記23章に記されている「主の例祭」は神のご計画の「時のしるし」であったのです。時のしるしに従って神のご計画が成就したのであれば、私たち(教会)はその「主の例祭」を知る必要があります。

●聖書に記された「主の例祭」はすでに実現された祭りもあれば、いまだ実現されていない祭りもあります。主の例祭が神のご計画を啓示する「時のしるし」だとすれば、私たちがそれを無視すること、無関心であることは、神のご計画に無関心であることと同義なのです。イェシュアが来られた時の宗教指導者たちがまさにそうでした。箴言29章18節に「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」とありますが、これは一般的な意味でのヴィジョンや夢のことを言っているのではありません。ここでいう「幻」は「ハーゾーン」(חָזוֹן)のことで、神の定められたご計画を意味する言葉なのです。それに無関心であるとするなら、神の民は「好き勝手にふるまう」ことになるのです。

【新改訳2017】マタイの福音書16章1~4節
1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、
3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知って いながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。

●パリサイ人たちやサドカイ人たちは、自分たちを支配している時代における「天からのしるし」、つまり「神からのしるし」を求めていました。長い間続いている異邦人による支配から自分たちを解放してくれるような神の奇跡を期待していました。そんな彼らの願いを果たしてくれるメシアを人々は求めていたのです。これは現代の教会においても同様です。今の時代に神が生きておられることを求めようとする動きです。目に見える奇蹟、いやしとかリバイバルとか、大勢の賛美集会とか、圧倒的なしるしを求めることで、教会を活性化しようとする心です。そのような人たちは「リバイバルを求めない教会などない」という一途な信念をもって忙しくしています。それそのものは決して悪いことには見えませんが、イェシュアはそうしたものを求める時代を「悪い、姦淫の時代」だと言っています。「空模様を見分けながらも、神のご計画に一切関心がない」ことを指摘しています。もし神の奇跡が現されるとすれば、それは「ヨナのしるし」以外にないと言われました。「ヨナのしるし」とは「復活の奇蹟」です。それとて何度も繰り返し、預言者たちを通して語られていることなのです。にもかかわらず彼らの目は盲目にされていたのです。未だにそうです。

●主の例祭にある「初穂の祭り」は、安息日の翌日の「週の初めの日」と定められていました。初穂の祭りは二回あります。一つは過越の祭りの後の安息日の翌日の「初穂の祭り」であり、もう一つはそれから五十日後の「七週の祭り」=「五旬節」=「ペンテコステ」です。その祭りでは初物を神にささげるのです。

【新改訳2017】レビ記23章10~11, 14~17, 21節
10 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。
11 その束は【主】の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。
14 ・・・・・・・・・・・・これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である。
15 あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。
16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】に献げる。
17 あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物としてのパンとして持って行く。これは【主】への初物である。
21 その同じ日に、あなたがたは聖なる会合を召集する。それは、あなたがたのためである。いかなる労働もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠の掟である。

(1) 過越の祭り後の安息日の翌日(週の初め)に初穂(大麦)の束を持って行き、祭司はそれを主の前で揺り動かす。

(2) 初穂の束を持って行ってから五十日後に、小麦粉にパン種を入れて焼いたもの二つを主に献げる。


●いずれも初物を主に献げる祭りです。一つ目の「初穂」が指し示している預言的な意味は、キリストの復活です。キリストの復活こそ、眠った者(=死んだ者)が死者の中からよみがえった初穂であるということです。二つの目の「初穂」として、五十日後の「パン種を入れて焼いた二つのパン」をささげる「七週の祭り」は、「五旬節」とも「ペンテコステ」とも言われます。つまり、その日に聖霊が降臨して教会が誕生することで、その祭りが啓示していたことが成就したのです。教会は「ユダヤ人」と「異邦人」から構成されますが、「二個のパン」はその予表でした。神のなされることは、すべて神が定められた例祭に隠された計画に沿って進んで行くことが示されています。

仮庵の祭り.PNG

●すでに聖霊はこの地に来られています。私たちはその方によって神を知り、救い主を知り、神に導かれて、霊的な祝福を受けています。しかしそれはあくまでも「初穂」でしかありません。その規模はやがて訪れることになる本格的な祝福に比べるならば、からし種程度にしかすぎません。もしこのことを正しく理解するならば、私たちのこれまでの教会観(教会に対する見方、考え方)は一新されるはずです。そしてメシアの再臨への待望はより増し加わるはずです。なぜなら、神の「時のしるし」である「幻」をはっきりと見る(知る)ことになるからです。単に、キリストが死からよみがえられたという事実を信じるだけでなく、それが神の計画に沿ってなされた出来事であると信じることが大切なのです。初穂の祭りを「イースター」として単に過去の出来事を祝うのではなく、初穂としてよみがえられたキリストに続いて、いつどのようにして、多くの収穫がなされるのかを知らなければならないのです。神の関心は常にご自身の計画の完成に向けられています。それだけでなく、聖書それ自体もその完成の預言の書なのです。

●サタンは受肉したイェシュアの誕生日を12月25日に設定したことで、神の時のしるしである「主の例祭」を見えなくさせました。これはサタンの戦略です。クリスマスがサタンの戦略であるというのは、神がしようとしておられる大切な事柄を覆い隠す目的がそこにあるということです。「時のしるし」を回復するためには、新しいぶどう酒を入れる新しい皮袋が必要なのです。古い皮袋を大切にしてそれに新しいぶどう酒を入れるなら、どちらもダメになってしまうことをイェシュアが警告しているのです。

2. 復活の初穂を御父にささげる「秘密の昇天」

●主イェシュアの来臨は二度あります。聖書は「初臨」と「再臨」を区別しています。また再臨も二度あります。それは空中再臨と地上再臨です。空中再臨で教会は携挙されますが、地上再臨では主は携挙された教会の聖徒たちと共に地上に来て、イスラエルの残りの者と合流します。聖霊の注ぎも二度あります。一度目の聖霊降臨は「七週の祭り」に教会を誕生させました。二度目の降臨は反キリストによる未曽有の苦難の中で聖霊が「恵みと哀願の霊」として注がれ、イスラエルの残りの者を主に立ち返らせます。これらはすでに何度も学んできたことです。ところで今日は、イェシュアの昇天も二度あったことを話したいと思いますが、果たして信じられるでしょうか。これはウイットネス・リーが教えていることですが、奥義派と言われるアンドリュー・マーレー、およびC・H・マッキントッシュがそれについて教えていると述べています(ウイットネス・リー著「聖書の重要な真理」(第三巻)、日本福音書房、2011年)。彼(リー)が新しいことを発見したというよりも、すでにその奥義が啓示されていたことを述べています。

●一度目の昇天とは「秘密の昇天」と言われるもので、イェシュアの復活の日になされています。そしてその復活日の夕方にイェシュアが弟子たちに息を吹きかける場面がありますが、それはすでに「秘密の昇天」がなされた後なのです。「秘密の昇天」という表現に驚かないでください。復活の初穂であるイェシュアは何よりもまず御父に初穂であるご自身をささげるために昇天され、最後のアダムとして、「いのちを与える御霊」となられたのです。そのことを使徒パウロがⅠコリント15章45節で記しています。二度目の昇天とは、復活後の四十日目に弟子たちが見ている前で天に昇って行かれた「公の昇天」です。

【新改訳2017】使徒の働き1章8~9節
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリ
アの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

●「秘密の昇天」の場合は秘密なのですから、誰にも知られずになされます。しかし復活の日の夕方、イェシュアは弟子たちに息を吹きかけて「『聖霊を受けなさい・・」と語っています。このときの聖霊は「いのちの霊」にかかわるものですが、「公の昇天」は「力の霊」にかかわるものです。「いのちの霊」と「力の霊」を区別して考えることで、「聖霊に満たされる」ことのバランスの取れた考え方をすることができるのです。それは「内に働く霊」と「外に働く霊」です。決して聖書と矛盾しないのです。「秘密の昇天」があることを示す箇所は以下です。これはヨハネだけが記している真理で、イェシュアとマグダラのマリアの会話から見て取れるのです。初めて聞かれる方もいると思いますので、注意して聞いてください。教理によって聖書を読むのではなく、聖書そのものをつまびらかに読むことによって真理を知るのです。以下の聖書に目を留めたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書20章13~17節
13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

●マグダラのマリアがイェシュアに対して思い入れの激しい女性であることは一目瞭然です。彼女がすがりつこうとするのをイェシュアはたしなめられました。一度すがりつかれると大変なことを察知していると思われます。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方のもとに上る』と伝えなさい」(20:17)とあり、復活の朝にこのことを語ったということは、これから秘密の昇天があることを示しているのです。

●マタイの福音書では、マグダラのマリアともう一人がイェシュアと出会っています。そして彼女たちはイェシュアに近寄ってその足を抱き、イェシュアを神として拝しています(マタイ28:9)が、ヨハネが記すマグダラのマリアはイェシュアだと分かって、イェシュアにすがりついています(現在形)。イェシュアが「すがりついていてはいけません」と彼女をたしなめたのはなぜでしょうか。 「すがりつく」ことは確かに親しいかかわりの表現であり、きわめて個人的なかかわりです。マグダラのマリアの場合、人一倍そのかかわりが強かったと言えます。しかしイェシュアによれば、「わたしはまだ父のもとに上っていないのです」と言っています。復活したイェシュアは「よみがえりの初穂」です。「初穂」を意味するヘブル語の「レーシート」(רֵאשִׁית)は、「初物、最上のもの、最良」という意味があります。それは何よりも御父に献げられるべきものであることから、人一倍強くすがりつこうとする彼女を見越してのイェシュアの発言だったのではないかと考えられます。

●「秘密の昇天」は復活の日になされたと思われますが、その日の夕刻にはすでに天から地に戻っています。イェシュアは御霊のからだに変えられているということを忘れないでください。時間と空間の制限を受けることなく、地から天へ、天から地にと御使いと同様に移動が可能なからだとなっているのです。ですから、復活の日の夕方、弟子たちが集まっていたところは鍵が掛っていたにもかかわらず、イェシュアはその扉をすり抜けるようにして、彼らの真ん中に立たれたのです。そして彼らに息を吹きかけて言ったのです。「聖霊を受けなさい」。これは「いのちを与える御霊を受けよ」ということです。私たちのどこでそれを受け取るのでしょうか。それは「人の霊」の部分においてです。

●この聖書箇所には苦い思い出があります。かつて私が東京聖書学院のインターン生(本科の四年生)の時、卒業のための御前説教(教授たちの前で説教をするという試験)がありました。その説教のテキストをヨハネの福音書20章19~23節にしたのですが、そのとき、何を語ったのか、自分でも分からないほど目茶苦茶な説教をしたのを覚えています。ほとんど準備という準備をしないで臨んだ説教だったために、そこに出かけて行くまでの緊張で、冷汗が流れ、顔が真っ青になっていたと思います。生涯忘れることのできない恥ずかしさの極みを味わいました。それ以来、説教の準備をきちんとするようになった出来事でした。しかし今考えると、この箇所はとんでもない深い奥義が隠されていたことを思えば、どんなに準備したところで、要を得たメッセージには到底ならなかったと思います。しかし今回こうしてこの箇所を取り上げることに導かれたことに、私は深い神のあわれみを感じさせられているのです。

●ところで「公の昇天」は復活の40日後です。この間にイェシュアは何をしておられたのでしょうか。使徒の働き1章3節を見ると、「イェシュアは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ(顕現)、神の国のことを語られた。」とあります。使徒たちはいのちを与える御霊を受けていますから、以前に比べると格段に神の国のことを理解できたに違いありません。40日間のイェシュアの顕現には深い意味が隠されているのではないでしょうか。十字架の死と復活についての話は聞いても、顕現が意味する話をこれまで聞いたことがありません。しかし今、イェシュアの顕現の重要性にあらためて気づかされています。ペンテコステの力の御霊は瞬時的なものですが、内なるいのちの御霊を受ける準備を40日間弟子たちに施された後に、イェシュアは天に昇って行かれたのです。

3. 「息を吹きかけて」(息を吹き入れて)

●ヨハネの福音書20章22節を新改訳では「息を吹きかけて」と訳していますが、回復訳では「彼らのうちに息を吹き入れて」と訳しています。ニュアンスが気になります。どうしてそのような訳になるのでしょうか。それは原文を見てみなければ分かりません。

【新改訳2017】ヨハネの福音書20章22節
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
【回復訳】彼はこう言って、彼らの中に息を吹き込んで言われた。『聖霊を受けよ。・・』

●「息を吹きかけた」「彼らの中に息を吹き込んで」と訳されたギリシア語は「エンフュソー」(ἐμφυσω)で、ここにしか使われていない語彙ですが、これをヘブル語に訳すと「ナーファハ」(נַָפַח)です。この初出箇所は創世記2章7節で「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」の「いのちの息を吹き込まれた」がそうです。その「ナーファハ」(נַָפַח)はエゼキエル書37章9節でも使われ、「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」とあります。つまり、「ナーファハ」(נַָפַח)には「息を吹き込む」という面と「息を吹きつける」という面があるのです。この「ナーファハ」の二つの面が、新約では「内なるいのちの息が吹き込む」という面となり、「外なる力の息(=風)が吹きつける」という面になるとも考えられます。「ルーアッハ」(רוּחַ)は「霊・息・風」とも訳されます。イェシュアの復活後の「秘密の昇天」と「公の昇天」後にそれぞれ現わされた「いのちの御霊」と「力の御霊」。この二つの聖霊の働きが教会にとってなくてはならないものです。どちらが正しいかという話ではありません。このように考えて来ると、これまでの「イェシュアの贖いの全体像」が修正を余儀なくされます。

画像の説明

① イェシュアが神の種として、人となられた受肉。
② 私たちがイェシュアのうちに包括的に取り込まれ、一体とされた受洗。
③ 御父のみこころに完全に従ったイェシュア。
④ イェシュアの十字架を私たちもともに死ぬ(最初のアダムを終わらせた)。
⑤ 最後のアダムであるイェシュアとともに私たちも三日目に死からよみがえった。
⑥ 秘密の昇天により御父に初穂としてご自分をささげ、イェシュアは「いのちを与える御霊」となられて「聖霊を受けよ」と言い、私たちの中におられる霊となられた。
【新改訳2017】ヨハネ14章16~17節
16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(※「助け主」「慰め主」パラクレートス, παράκλητος)
17 この方は真理の御霊です。・・この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
⑦ イェシュアは第二の人として40日間にわたっていろいろな所に現われて、神の国のことを語った。と同時に、息を吹きかけて、いのちを与える御霊を受けるようにと語られた。
⑧ 復活後40日目にイェシュアは弟子たちに見守られながら、天に昇られた。弟子たちは熱心に約束の力の聖霊が与えられることを祈った。祈ること自体が御霊の働きです。
⑨ 神の右に着座されたイェシュアは最高の権威である「イェシュアの御名」をもって治める方となられた。すでに私たちも包括的にともに座に着いて、イェシュアの御名の権威をもって治める者とされている。
⑩ あらゆる国の人々を弟子とする力、キリストの証人となるための力として、いと高きところから約束された「力の御霊」(あかしの御霊)を賦与された。


●「いのちの聖霊」は前置詞「エン」(εν /~の中に)で表され、「力の御霊」は前置詞「エピ」(ἐπί /~の上に)でそれぞれ表されます。聖霊の働きにはこの二つの面があり、どちらも不可欠なのです。内側のいのちの溢れ、内住の満たし、聖霊の実、聖霊の満たしと同時に、外側の力ある働き、あかしの力、御霊の現われ、大胆さを私たちは求めなければならないのです。これが聖霊に満たされるということなのです。

2022.3.20
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