イェシュアの本当の誕生日はいつか
アドベント瞑想3の目次
序 「イェシュアの本当の誕生日はいつか」
ベレーシート
- 「教会でもクリスマスするんですか」-これは、私が知人を教会のクリスマス集会にお誘いしようとしたときに聞いたことばでした。12月のローカルな新聞を見ると、至るところでのクリスマスの記事が掲載されています。老人ホームのクリスマスから始まって、幼稚園、保育園、地域の子どもや大人の集会、有名人を招いてのホテルでのディナーショー、歓楽街など、この時期の催しはあれもこれもすべてがクリスマス集会なのです。
- 「本当のクリスマスを教会で!」と力んで広告したとしても、年に一度来られる方々はそんな気持ちは毛頭なく、準備に力を入れれば入れるほど虚しく感じられるのが教会のクリスマスです(私個人的には)。そして一週間もしないうちに正月がやってきて、まるでクリスマスなど何事もなかったかのように日は過ぎていきます。
- クリスマスの時期は、世界的にも、また日本においても、確実にある種の霊的な力(宗教の霊)が覆っていることを私は強く感じるようになりました。惰性に流されることなく、流れに竿をさす(※脚注1)ように、クリスマスに対する自分なりの考え方をしっかりと持つべき必要に迫られました。
1. クリスマスはそもそも異教徒との妥協からはじまった
- キリスト教会の中では三世紀まで、クリスマスといったような行事はありませんでした。クリスマスは使徒の時代の教会から始まったのではありません。あるいは、歴史のある時点で敬虔なクリスチャンがキリストの降臨を思い起こしてキリストを礼拝しようという願いで始めたのでもありません。それは異教との妥協として始まったのです。どうしてこのような事が起こったのでしょうか。
- キリスト教の初期に教会はローマ帝国によって迫害を受けました。にもかかわらず、ローマが教会を破壊しようとすればするほど教会は強く成長していきました。四世紀に入って、コンスタンティヌスがローマの皇帝となりましたが、彼は帝国の統一を図るためにキリスト教を国教としました。そのために、純粋な回心というものがなくなり、キリストの教えに従うこともなくなってしまいました。ローマ教会も、またローマの皇帝コンスタンティヌスも、多数の人々をクリスチャンらしくするため一つの政治的・宗教的施策として、当時、彼らが信じて崇拝していた太陽神の祭日をキリストの誕生日と定めました。聖書でキリストは「義の太陽」と呼ばれているので、その太陽神こそがキリストだとしたのです。そして、これを法律として制定し、強制的に守らせようとしたのです。
- 四世紀ころ、当時のローマ人やゲルマン人の間には冬至の日を太陽の誕生日として祝う祭りが盛んでした。夜12時を過ぎると、神殿の灯という灯をいっせいにつけて、太陽が帰ってきたと叫び、生贄をささげて祝いました。これはゲルマン人のユール祭、ローマ人のミトラス祭として知られています。特にローマでは、12月25日は、「不滅の太陽の誕生日」と呼んでいました。そこでローマ教会は人々に真の神の存在を知らせ、偶像礼拝から離れさせるために、この12月25日を「義の太陽キリストの日」として、それを「クリスマス」と定めたのです。残念なことですが、クリスマスは教会が異教のお祭りの日を選んでそれをキリスト教化しようとした日なのです。そこには多分に政治的な戦略が絡んでいたことを忘れてはなりません。
- やがて、中世(6~16世紀)のクリスマスは俗化し、歓楽の温床とされました。豪華な飾り付けの中で、贅沢なご馳走、賭け事、仮装舞踏会などが催され、クリスマスは日本でいう祭りの「ハレ」の日と同様に、乱痴気騒ぎの祭りとなっていきました。
- このようなクリスマスの俗化と腐敗は、イギリス、ヨーロッパ全体に、宗教改革を経ても続いていたのです。そのような中で、改革者カルヴィンはクリスマスを異教から来た祝日として反対しました。特にスコットランドでは、ピューリタン革命派が「異教徒はこれを見て、イエスを大酒飲み、悪魔の友人と思うだろう」と反対し、1583年にクリスマスの完全禁止を決めました。イングランドでは1647年に議会がクリスマスの禁止法案を可決しようとしたとき、反対の暴動が各地で起こったために、家庭のクリスマスだけは認めるようにしたと言われています。
- このような流れの中で、クリスマスを豊かに飾るものとしてキリスト教音楽が人々に深い感動を与えるようになりました。クリスマス・キャロル(フランスではノエル、ドイツではリート)が数多く作られ、教会の賛美歌集の中に採用されるようになりました。
- 19世紀中頃になると、クリスマスに隣人愛や慈善の意味が加えられ、特に家庭でのクリスマスが盛んになります。日本でも正月には多くの人々が自分の故郷に帰省して家族や親類と共に過ごすように、クリスマスは家族が共に過ごす日として盛んになっていきました。さらにクリスマス・ツリーやサンタクロース、ケーキやクリスマスカードなどが取り入れられるようになり、今日のクリスマスのスタイルが定まってきたようです。※脚注2
2. イェシュアの受胎はバプテスマのヨハネの受胎から「六か月目」
- そのようなわけで、12月25日という西洋の「クリスマス」の伝統をイェシュアの誕生日として私は考えることができなくなりました。教父たちや、ローマカトリックの教皇、そしてローマの皇帝たちが異教の冬至、太陽神の祭りとクリスマスを結びつけたのだということはすでに常識的な事なのです。ではいったいイェシュアがお生まれになった日はいつなのでしょうか。
- 現代は太陽暦を使用しているために、人の誕生日は明確なのですが、聖書の暦、あるいはユダヤ暦は月の運行を基に定められた太陰暦であるために、一ヶ月が29日か30日しかありません。そのために、聖書の祭りがだいたい毎年同じ時期に設定できるように、数年ごとに閏(うるう)月が挿入されています。その頻度は19年に7回の頻度です。教会の三大祭りは「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」ですが、クリスマスを除く二つの祭りは年によって日が異なります。それは太陰暦で行われているからです。クリスマスだけは、太陽暦で毎年決まった12月25日なのです。このことからも「クリスマス」は西洋の太陽暦で設定した新しい祭りだということが言えます。
- 聖書で使用されている太陰暦で物事を考えなければならないので、イェシュアの誕生の日がいつかを知ることは、少々煩雑なのです。
- イェシュアの誕生が正確にこの日と聖書が記していないのだから、それをあえて詮索する必要などないと考える人もいます。しかしイェシュアの誕生から死と復活に至るすべての出来事には、神の救いの緻密なご計画が隠されているはずです。とすれば、イェシュアの誕生日はいつであってもいいとは思いません。たとえ太陽暦のように、〇月〇日というようには設定できなくても、なにかしら意味のある日だと考えられます。聖書にはそれを探るヒントとなる情報が記されていると考えます。
- その情報の一つは、ルカの福音書1章5節です。
「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」
- ルカの福音書はローマの高官テオピロに対して書かれたものですが、ルカはその序文で「すべてのことを初めから綿密に調べて・・・あなたのために、順序立てて」書いている旨を伝えています(ルカ1章3節)。そのルカが洗礼者ヨハネの両親についての情報を記しています。それによれば、ザカリヤとその妻エリサベツは二人とも祭司の家系であること、しかもザカリヤは「アビヤの組の者」であると記しています。
- かつてダビデは、礼拝のためにレビ族の中の祭司職の務めを整理しました。一年を24組に分け、一つの組が月の半分ずつ、それぞれの組がその務めを果たすようにしたのです。祭司ザカリヤが属した「アビヤの組」は歴代誌第一24章10節によれば、第八番目であることが分かります。ザカリヤは祭司職の当番に従い、過越の祭りから数えて八番目の時期に神殿に入って香をたいたのです。「香をたくこと」は祭司の一生で一度しか許されず、くじ運によっては一生に一度も当選しない祭司もいたようです。幸いにも、ザカリヤはくじに当たって、主の神殿で香をたくことになりました。そして、そこで主の使いが彼に現われ、不妊であった妻エリサベツが男の子を産むことを知らされます。さらに御使いはその子の名をヨハネとつけるよう命じました。
- ルカは、ザカリヤがこの務めを果たし終えた後に、エリサベツが身ごもったと記しています(ルカ1章24節)。その六ヶ月後に、御使いガブリエルが、ガリラヤのナザレにいるマリヤを訪ねて受胎告知をしています(ルカ1:26)。したがって、イェシュアの受胎は洗礼者ヨハネの受胎から約六ヶ月後なのです。
- 古代のユダヤ暦の最初の月(アビブ、捕囚後の月名はニサン)※脚注3は、今日の3月から4月にかけての月です。「アビヤの組」は第八番目ですから、数えていくと、エリサベツは少なくとも第四月の「タンムズ(あるいはタムーズ)の月」の後半、太陽暦で言うならば、6月から7月にかけてのどこかでヨハネを身ごもったことになります。それから「六ヶ月目」に、御使いが処女マリヤに受胎告知したことをルカは記しています(ルカ1:26)。
- ここの「六ヶ月目」ということばの意味ですが、今日の数え方ですと、ちょうど半年後という意味ですが、ザカリヤの受胎告知の時を「一ヶ月目」と考えるならば、その「六ヶ月目」は第九月の「キスレーヴの月」にイェシュアがマリヤのうちに身ごもったことになります。今日の太陽暦でいうなら12月の中旬から下旬の間です。ユダヤの暦ではちょうどその頃は「ハヌカの祭り」の時期です。別名「宮きよめの祭り」とも「光の祭り」とも言われます。この祭りの起源は旧約と新約の中間時代に起こった出来事に基づいているために、聖書にはこれについての記述がありませんが、イェシュアはこの祭りを祝うためにエルサレムへ上られたという聖書の記述がヨハネの福音書10章22~23節にあります。
「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」
- イェシュアが宮きよめの祭りに行かれる途上で、生まれつき目の見えない者の目を見えるようにする「シロアム」の奇蹟があります(ヨハネ9章)。この奇蹟の意味することは、イェシュア自身が「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(同、9章5節)と述べられたように、ご自分が「世の光」として来られたことを宣言しています。その意味するところは、世に対する神の永遠のご計画を知らせることです。「光」とは神がなそうとしておられる永遠のご計画のことなのです。
- ギリシャのアレクサンダー大王の死後、シリヤにはセレウコス王朝が誕生します。特にアンティオコス4世・エピファネスはエルサレム神殿にゼウス像を建て、祭壇には忌まわしい豚の血を注ぎ、神のトーラーをすべて奪い、神殿を汚しました。「エピファネス」とは「現神王」の意ですが、人々は彼の残忍な行為から「エピマネス」、すなわち「狂人」と呼んだほどです。ところが、「マカベア」という祭司の家系がそれに対抗して神殿を奪回して、神殿を再奉献したのです。これが「宮きよめの祭り」、ないしは「光の祭り」と呼ばれるようになった経緯です。この時期にイェシュアが受胎したとするなら、これはきわめて重要な神の啓示です。ハヌカの祭りについて記しているのはヨハネの福音書だけですが、その福音書がイェシュアについて「すべてのまことの光として世に来ようとしていた」と宣言しています(1章9節)。しかも、その光についてあかしするために先に遣わされたのが「洗礼者のヨハネ」でした。ヨハネの福音書の「光」のテーマは、「宮きよめの祭り」と実に深く関係しているのです。この時期にイェシュアが「世を照らすまことの光」として受胎したことは、神の深い摂理であったと私は確信しています。
3. イェシュアの誕生は「仮庵の祭り」の終わり頃
- イェシュアのこの世での出来事は、旧約で神が啓示されたことを満たすものです。決して偶然的なものはありません。すべてが綿密につながっているのです。
- ところで、ルカ2章6節で「マリヤは月が満ちて」とありますから、イェシュアの出産は正常であった(つまり、早産ではなかった)ということが分かります。計算するとイェシュアが生まれたのは10月の中旬頃となります。その時期は、ちょうどユダヤの「仮庵の祭り」が終わった頃に当たります。イェシュアがユダヤの仮庵の祭りが終わった頃に生まれたということの中に、神の救いのご計画における深い意味が隠されているのです。ヨハネの福音書7章37~38節にイェシュアが大声で叫んだことばがあります。
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
- 37節に「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。」とあります。ここでの「祭り」というのは、ユダヤ人たちにとって大切な「仮庵の祭り」でした。この祭りは一週間にも及ぶ祭りで、その祭りの最後の日(八日目)は、祭りの最高潮、クライマックスを迎える時です。その日に、イェシュアは「立って、大声で言われた」のです。なぜ、イェシュアは祭りの最後の日、最も大いなる日に「立って、大声で(叫ぶようにして)言われた」のでしょうか。淡々と語られる説教とは違った、何か異様な、緊張感に満ちた特別な事柄がこれから語り出されようとしているといった感じを受けます。
- 仮庵の祭りというのは、かつてイスラエルの民が荒野をさまよった時の40年間、荒野で天幕を張って過ごしたことを記念して行なわれるもので、その40年間、神がいつも生きるに必要なものを備えて、また守ってくださったことを感謝するお祭りでした。神はその民が飢えることがないようにと、マナと呼ばれる天からの不思議なパンで毎日彼らを養われました。不思議にも安息日だけは降りませんでした。そのために、安息日の前の日にいつもの倍のマナが降りました。ある者は必要以上にそれを取って蓄えようとしたために、マナは腐って食べられないものになりました。当時、冷蔵庫もないわけですから保存が利きません。そこで神は民たちが必要とする分のマナを毎日降らせたのです。このことは何を意味しているでしょうか。今日のパンは今日与えられ、明日のパンは明日与えてくださる神を信頼することを民が学ぶためでした。
- パンのみならず、渇いたときにも神が岩を裂いて水を注いでくださいました。まさに、神の民にとって必要な水とパンは神が日々与えてくださったのです。大切なことは、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きることを学ぶことでした。神を信頼することを学ばせるために、何もない荒野へと神は民を導かれたのです。荒野は神を信頼し、神の約束を信じる訓練の場であったのです。神との信頼の絆を深めるために、神はあえて彼らが神により頼まなければならない状況に置かれたと言えます。
- 仮庵の祭りは、そうした生き生きとした神と神の恵みを感謝するときであったのです。しかしながら、人間というのは現金なもので、かつての神の恵みへの感謝は希薄なものとなり、形骸化し、単なる儀式として行なうようになるものです。仮庵の祭りに集まった多くの参拝者たちが、祭りの最後の日を終えて、まさにそのような思いで帰途に着こうとしていたとき、イェシュアは人々の心の渇きをご覧になって、宮の入口の近いところに「立って」「大声で言われた」のが37、38節の招きのことばだったのです。
- 私たちも信仰生活を送っていくとき、いつの間にか礼拝や交わりや奉仕が単なる義務のように感じたり、形式的なお勤めになってしまったり・・・ということが往々にしてあることを思うとき、当時の人々が祭りに来ながらも(それは礼拝に来ることと同義)、何ら満たされることなく帰途に着こうとしていた、その心の渇きをご覧になったイェシュアが、声を張り上げて語ったとしても決しておかしくありません。形としては、神を信じ、礼拝をし、ささげものをしていたとしても、神を信じるということはこんな程度のことなのだろうか、という何か心の物足りなさ、虚しさ・・・これが「渇き」(=死)です。その「渇き」に対して、イェシュアは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書がいっているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる」と声を上げられたのです。このことが成就するのがイェシュアの復活の夕べですが、そのためにはイェシュアによる贖いのわざが必要でした。その贖いのためには、どうしても神の御子が人となって生まれなければならなかったのです。
- もし、仮庵の祭りの終わりの日にイェシュアが誕生されたとするならば、そこには神の必然的な、しかもきわめて重要かつ深遠な意味が隠されているはずです。なぜなら、イェシュアの出来事はすべて神の緻密なご計画の中にあらかじめ組み込まれているからです。
脚注1
竿を水底に突いて舟を進める意から、時流にうまく乗り、目的に向かって順調に進むという意味がありますが、ここでは、逆に、時流や大勢に逆らって舟を進めるという意味で用いています。
脚注2
「クリスマスをあなたに」(チャペルタイム、2005年、101~103頁)参照。
脚注3
聖書に記載されている年の初めは第一月、ニサンの月ですが、バビロン捕囚の時、その地域で採用されていた農耕年の年の初めである第七月(ティシュㇾ―の月)が年の初めとなりました。現在でも、イスラエルの新年は第七月のティシュレーの月と共に幕開けます。その時期は仮庵の祭りです。ちなみに、今日の暦ではイスラエルの新年は9月の中旬~下旬頃です。太陰暦ではひと月が29日ですから、太陽暦のように一定していません。ユダヤ暦については、⇒こちらのサイトを参照。
2012.12.01
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