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イエス・キリストの謙遜についての教え(2) 「しもべとして仕える」

4. イエス・キリストの謙遜についての教え(2) 「しもべとして仕える」

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はじめに

  • 「謙遜への招き」の第四弾も、イエスが教えた謙遜、イエスが謙遜について何をどのように語られたかということをこれから学んでいきます。聖書のテキストはマルコの福音書10章43~45節です。

    「43あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。」

  • このイエスのことばを、自分は偉くなりたくないし、人の上や、人の先にも立ちたくないので、みなに「仕える者」になるとか、「みなのしもべになる」とかは当てはまりませんなどと思って聞いてはなりません。イエスが語られたことばは、この世の価値観、考え方とは全く反対だということを心に留めなければなりません。自分が偉くなりたいと思わなくても、生きていれば、なんらかの責任を任せられる立場に立つようになるかもしれません。あるいは、自分から積極的に人のために何かの役に立ちたい、世のために何か責任あることをしたいと思うようになることはあるのです。それはとても自然なことであり、そして、そういう立場に立たせられたなら、みなに仕える者、みなのしもべとなりなさい、とイエスは語られたのです。これは「謙遜について」の教えであり、その教えはイエス自らがその模範となっているのです。
  • マルコ10:43~45のみことばを中心に、「仕える者」「しもべ」としての生き方について、共に考えてみたいと思います。
  • アメリカにある小さな大学でこんな話があります。

    この大学は経営難に陥り、資金が必要でした。建物は古くなり、先生たちの給料も払えなくなってしまいました。ある日、見知らぬ人がこの大学にやってきました。たまたま作業服を着て、壁を洗っている人を見かけたので、その人に訪ねました。「学長にお目にかかりたいのですが。」すると、作業服を着た人は「12時に学長室にいらしたら、お会いになれると思います」と答えました。訪問客が言われたとおりの時間に学長室に行きました。すると、なんと先ほど出会った人がきちんとした洋服に着替えて、学長室にいるではありませんか。作業服の人が実は学長だったのです。
    数日後、一通の手紙が学長宛に届きました。その中に5万ドル(今では約400万円)の小切手が寄付金としてささげられていました。学長の謙遜な心がこの見知らぬ人の心を打ったからでした。

  • しかしこの程度の謙遜で、感動してもらえて、献金もしてもらえるならラッキーな話です。しかしこれからお話しようとする謙遜はもっとレヴェルの高い話なのです。

1. 「仕える者」、「しもべ」となれ

  • イエスとその弟子たちとはエルサレムに向かう途中でした。イエスは今までとは異なり、決然と先頭に立って歩いて行かれたので、弟子たちはその姿になにかしら驚きを感じ、恐れさえ感じたと聖書は記しています。
  • イエスはこれから自分がエルサレムにおいて起ころうとしていることを、12弟子たちを呼んで話されました。それは、自分がエルサレムにおいて引き渡され、苦しめられ、殺され、よみがえるということを話されたのです。ところが、弟子たちはそのことを全く理解しませんでした。弟子のヤコブとヨハネ(マタイでは彼らの母親となっていますが)がイエスのところにやって来て、「先生、頼みごとがあります。」、「わたしに何をしてほしいのか」、「あなたの栄光の座で、ひとりは先生の右に、ひとりは先生の左にすわらせてください。」と。―この願いは聞き入れられませんでした。なぜなら、イエスの右と左に座ることは、わたしが決定することではない、父がそれをお決めになることだからとして斥けたからです。12人の弟子たちの他の10人はこのことを聞いてひどく腹を立てたとあります。なぜでしょうか。おそらく自分たちにも同じ思いがあったからだと思います。
  • このやりとりの後に、イエスは人の上に立ちたいと思っている弟子たち全員を呼び寄せて、次のような教えをされたのです。もう一度、マルコ10:43~45を読んでみましょう。 
    「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。(その根拠として)45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える ためなのです。」

(1) 「仕える者」

  • テキストには「仕える者」ということばと、「しもべ」ということばが出てきます。「仕える者」、英語ではサーヴァントservant,―ギリシャ語では「ディアコノス」διάκοvοςということばで、「執事」(教会に仕える者)とか、「奉仕者」とも訳されていることばです。
  • 人々が信仰にはいるために用いられた神のしもべたちーパウロもアポロー、福音に仕える者たち、キリストのしもべたちはみな「仕える者」διάκοvοςです。
  • ディアコノスの動詞「仕える」serve ―「ディアコネオー」διακοvέωが「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」というところで2回使われています。

(2) 「しもべ」

  • もうひとつ、このテキストには「しもべ」servant, slaveということばが使われています。ギリシャ語では「ドゥーロス」δουλοςといいます。「ドゥーロス」δουλοςは、「縛る」という意味の「デオー」δέωから生まれた名詞で、「奴隷」のことです
  • 今は、奴隷制度というものはありませんが、歴史の中では奴隷たちが社会を支えていた時代があります。戦争に破れた人々はみな奴隷とされ、勝利国の社会と経済を支えていく基盤となるべく当然の財産であり動力だったのです。聖書が書かれた時代であるローマ帝国も奴隷制度がその社会を支えていたのです。
  • 新約聖書ではこの奴隷制度について、廃止すべきだと命じているところはありません。当時の社会の当然の制度としてそのまま受け入れられています。使徒パウロはしばしばキリストを信じた奴隷たちに対して、自分の主人に対して忠実に従うべきこと、それ以上に、本当の主人であるキリストに仕えるようにして、目に見える主人に仕えるようにと勧めています。
  • 「奴隷」は、第一、自分の意志で主人や働き場を選んだり変えたりできません。また、どんなに能力があっても、主人の「財産である」という点で家畜と家財道具と同列でした。主に召された者はすべてキリストに属する奴隷です。なぜなら、代価を払って買い取られたからです。「キリストのしもべ」です。使徒パウロはしばしば自分のことを「キリストのしもべ」と自己紹介しています。自分のことを忘れて、キリストに専心して、一生を捧げて仕える者のことです。
  • 御使いのガブリエルから受胎告知された処女マリヤは御使に対して、「ほんとうに、私は主のはしためー女奴隷―です。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いましたが、これが「奴隷」(しもべ)の真の姿なのです。
  • 「私は主のはしため、しもべです」という告白は、私の持っているものはすべて主のものですという意味です。私のもっているものーなにがあるでしょうか。お金(貯金も含めて)、車、PC、家、家族・・・あなたの能力、あなたの身体、・・あなたのいのちもーです。主人が必要とあらば、そのときすぐに差し出さなければなりません。なぜならすべて主人のものだからです。自分に与えられているものは、主人から与えられてその管理が許されているだけにすぎません。主人が必要とあらばすぐに差し出すーこれが「しもべ」という存在です。
  • 「畑の中に隠された宝、真珠を買った人のたとえ話」を知っていますね。それを買った人は自分の全財産を売り払ってそれを買ったという話です。どんな宝なのか分かりません、どんな真珠なのかよく分かりませんが、それに見合う代価として自分の全財産を払って買ったのです。そのたとえの意味するところは、買った人物は御父であり、払われた代価は御父の全財産である御子ご自身です。そして買われた宝なり真珠は「私(たち)」です。そんな「私」は、神の全財産を売り払っても惜しくないほどの価値ある存在なのです。買われた「私、あなた」は、買ってくれた主人のものです。そしてその主人は私を買ってくれたのですが、奴隷というよりも、神の養子として自由に生きることを許しておられます。立場としては、私を買い取ってくれた主人の所有のものであるということを決って忘れてはならなのです。
  • マルコ10章の「仕える者」と「しもべ」とは、語彙としては異なっていたとしても、意味するところは同じであると言えます。神の世界においては、最高の称号は「神のしもべ」という称号です。旧約のモーセは「神のしもべ」といわれましたし、使徒パウロも自分のことを機会があればいつでも「キリスト・イエスのしもべ」と自己紹介しています。常に、彼がそういう意識で生きていたことを物語っています。
  • この世では、自分を紹介するときに、なんと多くの肩書きを並べ立てることでしょう。音楽家の演奏会のチラシをみるとうんざりするほどです。だれだれに師事し、どこどこの大学に入り、これこれの成績を治め、あれこれのコンクールで入賞し、今どんな活動をしているか等・・小さな字でこれでもかといっばい書かれています。
  • その点、キリスト者の肩書きはきわめて簡単です。重要なことは自分が「キリストのしもべ」であるといえるどうかですから。クリスチャンというのは、「キリストの奴隷、キリストのしもべ」という意味です。どこでも、また誰に対してでも、「私はクリスチャンです」と言えなければ、「しもべ」とはいえないのです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」ということばを私たちの主の言葉として、今朝、心に刻みたいと思います。

2. 仕える者、しもべとなられたキリスト

  • テキストの後半の部分を見てみましょう。単に、「みなに仕える者となれ。みなのしもべとなれ。」と命じているだけでなく、キリスト自らそうなられたことが後半の部分45節に記されています。この事実が前の命令を支えている根拠です。

    10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

  • 「人の子」とはイエス・キリストのご自身のことです。45節の前半は三つの事柄からなっています。その第一は、主が来られた目的についてです。それは「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」とあります。しもべという立場を取って積極的に「仕える」という意味です。誰に対して仕えるのかといえば、それは御父(ここには明確に記されていませんが、そのことを含んでいます)と、多くの人々―すなわち「私たちひとりひり」に対してです。そして、最後には、「仕える」ということがどういうことか、具体的に「仕える」とはどういうことか、その内容が記されています。その内容とは、「贖いの代価として、ご自分のいのちを与える」ということです。一つ一つ、見ていきましょう。

(1) 仕えるために、人となられたイエス

  • 人の子、すなわちイエス・キリストは神の御子として、本来、仕えられる立場におられました。なぜなら、神という立場におられるからです。ピリピ2:6, 7も援用することにしましょう。パウロが書いた手紙の中で、謙遜というテーマが最も詳細に、しかも整然と述べられている箇所です。

    2:6キリストは神の御姿μορφήである方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
    2:7 ご自分を無にして、仕える者δουλοςの姿μορφήをとり、人間と同じようになられました。

  • 「キリストは神の『御姿』モルフェーμορφή」ということばに注目しましょう。
    (新共同訳) 「身分」、(フランシスコ会訳)「身」、(口語訳)  「かたち」、(岩波訳)「形」・・・これらは英語では、The form.(柳生訳)「本性において神と等しい存在」・・これは英語では、The natureと訳されています。
  • その意味するところは、「神であるという本質には少しの変化もなく、地位と状態が変化したこと。つまり、神の権威ある地位から、仕える者の状態に、その働きを変えられたということです。
  • 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで・・」とのみことばは、キリストがこの地上に来られる以前の栄光の御姿を指し示しています。栄光の姿とは、神であられたということです。そのことを裏づけるのが、「神の御姿」ということばです。イエスの生涯においてただ1度だけでしたが、その栄光の姿になった出来事がありました。それは山上の変貌です。

    マタイ17章。ペテロとヤコブとヨハネを伴って高い山に登り、彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなったのです。そこで、モーセとエリヤとイエスがエルサレムの最後の出来事のことで話し合わっていたようです。そうしている間に、光り輝く雲がそこにいる人々を包み。雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という御父の声がしたのです。

  • 「御姿」μορφήとは、より本質的な性質、根本の性質そのものが、なんら変わることなく、永続しているという形がこのことばの意味です。つまり、キリストが「神の似姿である」は、本質的に神と一つであるということです。キリストは、神の本質、性質と全く同じであるということです。過去も、現在も、そしてこれからも。キリストが完全に神であられ、形をもって表れたという事実をあらわす言葉が「神の似姿、あるいは、神の御姿」(モルフェー)ということばの意味です。
  • その神の御姿であられる方が、「神のあり方」を捨てられたのです。「神のあリ方」とは、キリストが神の能力・栄光・権威をもっておられるという意味です。キリストの地位・立場が、神のそれと全く同等であるということです。しかし、その「あり方」を捨てて、つまり、自分の立場や地位や考えに固執しないで、私たちを救うために天より地に降りて来られ、人間のフォーム(形)をとられたのです。ここに御子の謙遜をみることができます。
  • イエスは決して神性を捨てられたのではありません。神の本質の変化ではありません。神であるという本質には少しの変化もありません。ただ、地位と状態が変化したのです。神の権威ある地位から、仕える者の状態に、その働きを変えられたというのが、ピリピ2:6, 7で云おうとしていることです。しかもその変化は、自覚的・主体的です。強制や義務から変えたというのではありません。むしろ積極的に「仕える者」となられたのです。

(2) 仕えるために、実に、十字架にまで従われたー「贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるため」

  • ピリピ書の謙遜の教えの後半を見てみましょう。

    2:8
    キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

  • キリストが「十字架の死にまでも従われた」ことです。キリストの謙遜は、ご自身、仕える者として表された全き従順です。主ご自身、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)とあるように、「自分のいのちを与える」とは、ピリピ書のパウロの言葉でいうならば、「自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死にまでも従わたれた」ことを指しています。謙遜は従順によって表されました。
  • その従順の第一段階は、「自分を卑しく」されたことです。従順は、義務感からなされるものではありません。キリストは自発的に、自由意志によって、進んで従われました。「卑しくする」とは、「低くする」ということです。キリストが「自分を卑しく」されたことは、家畜小屋での降誕、罪人と同じ立場に自分を置かれた洗礼、腰をかがめて弟子たちの足を洗われた洗足に現されました。
  • そして、ついにキリストは「死にまで従われた」のです。これは、キリストの従順の第二段階を表しています。つまり、キリストの従順は、「自分を卑しく」されるにとどまらず、自分の死がかかわるほどにご自分を低くされたのです。降誕から死にいたるまでの徹底した従順です。死が従順の極限に終止符を打ったことになります。もし、死が臨まなければ、さらに従い続けられたことを意味しています。これこそ謙遜の極限です。
  • そしてさらに驚くべきことは、この死までの従順が、実に「十字架の死にまでも従われた」というものであったということです。これが第三の段階です。「十字架の死」とは、十字架による処刑のことですが、この処刑法は最も過酷な方法として採用された刑でした。極悪の犯罪人に、十字架を背負わせて刑場まで歩かせ、十字架につけて処刑するというものです。犯罪人は手足を縛られるか、あるいは手足を釘付けにされるかして、死ぬまで放置されました。
  • 十字架刑は、肉体的にも、精神的にも激しい苦しみを伴った刑罰だったのみならず、恥辱に満ちた刑罰でもありました。驚くべきことに、キリストの従順がこの苦しみに耐えさせたのです。「イエスは、・・はずかしめをものともせずに十字架を忍び」(ヘブル12:2)、従順を全うされたのです。
  • また「十字架の死」は、恥辱だけでなく、のろいの十字架でもありました。「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」(申命記21:23)と聖書にあるように、キリストは私たちの罪だけでなく、そののろいを一身に受けて死なれたのです。

おわりに

  • キリストは、「苦痛」、「恥辱」、「のろい」の十字架の死にまでも従われて、最大の謙遜を表わされました。これは驚くべき事実です。私たちは、キリストの謙遜が御父への従順に根ざしたことを知ります。これこそまさにキリストの心です。
  • 「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。」(ピリピ2:5)とパウロは勧めています。これは文語訳でいう「キリスト・イエスの心を心とせよ」(同節)ということにほかなりません。当のイエスは、弟子たちに「みなに仕える者となりなさい」、「みなのしもべとなりなさい」と語られましたが、これこそがクリスチャンとなることの本当の意味であり、クリスチャンであることのしるし、内実なのです。
  • 今朝、私たちはひとりひとり、主のことばに照らされて歩んでいるかを吟味しなければなりません。クリスチャンであることは、肩書きでもなく、飾りでもなく、The form, The natureでなければなりません。つまり、キリストのしもべという実質をもった存在でなければならないのです。そのような存在になるようにと言われた主に従うことができるように、私たちに寄り添っていてくださる神の賜物、助け主である御霊の援助を仰ぎたいと思います。
    「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」(詩篇81篇10節)

2011.1.23


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