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イザヤが実名で預言した「キュロス」

15. イザヤが実名で預言した「キュロス」

【聖書箇所】イザヤ書44章28節/45章1~25節

ベレーシート

●今回は、イザヤが実名で預言した「キュロス」について焦点を当てたいと思います。「キュロス」(כּוֹרֶשׁ)の名は聖書全体で19回、イザヤ書ではそのうちの2箇所だけです。キュロスという人物の全体像を知るために残りの17箇所を概観してから、イザヤ書に目を向けてみたいと思います。

●Ⅱ歴代誌36章22~23節は、エズラ記1章1~2節と重複しています。

【新改訳2017】エズラ記1章1~2節
1 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。
2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。

【新改訳2017】エズラ記1章7~8節
7 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器を運び出させた。
8 ペルシアの王キュロスは財務官ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を確かめさせ、ユダの首長シェシュバツァル(=ゼルバベル)に渡した。


●この記録が一つの巻物として保存されていたことで、神殿再建を妨害する者たちを黙らせることができたのです。これを裏付ける箇所(エズラ3:7、4:3, 5、5:13~14、17、6:3,14)にキュロス王の名があります。キュロスは預言者ダニエルともかかわっています。

①【新改訳2017】ダニエル書1章21節
ダニエルはキュロス王の元年までそこにいた。
②【新改訳2017】ダニエル書6章28節
このダニエルは、ダレイオスの治世とペルシア人キュロスの治世に栄えた。

●1章21節の「そこにいた」の「そこ」とは「バビロン」のことです。バビロンの王ベルシャツァルが殺されて後も、メディアのダレイオスの治世とペルシア人キュロスの治世(=メディア・ペルシア台頭の時代)にもいたということです。バビロンを倒したのはキュロスですが、キュロスがバビロン周辺の反体勢力の鎮圧のために専念している間、王の務めを行っていたのがメディアのダレイオスでした。ダニエルはバビロンの王ネブカドネツァルの顧問でしたが、その後キュロスから委託を受けたメディアのダレイオス王の信任を受け、別格の厚遇を受けたために他の官僚たちの妬みを買って獅子の穴に投げ込まれた話は有名です。「ダニエルは・・・の治世に栄えた」(ダニ6:28)とはこのことです。

1. イザヤ書におけるキュロスの言及

●「キュロス」の名前がイザヤ書に登場する箇所は2回(44:28,45:1)です。イザヤはキュロスが歴史の中に登場する140~150年程前に、神からの啓示によって実名で預言しています。預言とは前もって書かれた歴史です。イザヤはその人物のことを全く知らずに語ったのです。

①【新改訳2017】イザヤ書 44章28節
キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。
エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」

●主はキュロスのことを「わたしの牧者」(ローイー:רֹעִי)と語っています。牧者とは神の民の指導者、神の民を神の代理者として支配する王のことを意味します。聖書で「牧者、羊飼い」は王、指導者の比喩で用いられます。その意味で、キュロスは神の民をバビロンの捕囚の境遇から救い出す解放者です。また「わたしの望むことをすべて成し遂げる」という特別な務めのために「油注がれた者」(マーシーアッハ:מָשִׁיחַ)、つまり王としての地位に就いたことを意味し、イザヤ書では以下の箇所だけですが、メシアの型となっています。

②【新改訳2017】イザヤ書 45章1~6節
1 主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、
彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。
2 わたしはあなたの前を進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
3 わたしは秘められている財宝と、ひそかなところに隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
4 わたしのしもべヤコブのため、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。
5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
6それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。

●「わたしの望むことをすべて成し遂げる」キュロスの務めの内容は以下の三つです。第一は「バビロンの国を終わらせること」、第二は「捕囚の民を解放して故国に帰還させること」、そして第三は「神殿を再建させること」です。これらの目的のために、神がキュロスをご自身のしもべとして名指しで呼び出されたのです。

●1節の「彼の前に諸国を下らせ」とは、以下の地図を参照。実に多くの国が征服されたことが分かります。地中海、エジプト、そしてはるかインド洋までの範囲です。

画像の説明

●また「王たちの腰の帯を解き」とは、王たちが抵抗できないように主が王たちを弱くされたことを意味し、「彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする」とは、キュロスの前では城壁の扉や門が何ら障害とはならず、自由に侵入できたことを意味しています。それは主がキュロスの右手を握っておられ、勝利の道を整えておられたからです。2節の「険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」は、「彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする」のパラレリズム(言い換え表現)です。3節の「秘められている財宝と、ひそかなところに隠された宝をあなたに与える」とは、文字通りの意味で、諸国の多くの財宝が彼にもたらされることを意味します。それゆえ、イザヤ書43章3~4節にある「わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする」と言えるのです。エジプト、クシュ、セバは諸国の「秘められている財宝」の代表と言えます。

●キュロスが選ばれた理由が、ヘブル語の前置詞「~のために/レマアン(לְמַעַן)」を用いて45章3、4、6節に表されています。それによれば、

①3節「わたしが主であり、イスラエルの神であることをあなた(キュロス)が知るため」
②4節「わたしが選んだイスラエルのため
③6節「日の昇る方からも西からも(すなわち世界全体が)、わたしのほかに神がいないことを知るため

●イザヤ書でキュロスのことが語られているのは、その名前が出てくる箇所だけではありません。名前がなくても彼のことが語られていたのです。以下の箇所がそれです。41章では捕囚となったイスラエルの民を神はどのように解放されるのか。果たしてその能力が神にあるのか。それを主ご自身が語ろうとしている箇所にキュロスがいます。

①【新改訳2017】イザヤ書41章1~3節
1 「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ、新しく力を得よ。近寄れ。そして語れ。われわれは、ともに、さばきに近づこう。
2 だれが一人の者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせるのか。だれがの前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。
※原文=東から人を呼び起こし、その足元に(彼の前に)勝利(ツェデク:צֶדֶק)を得させ、諸民族(ゴーイム:גּוֹיִם)を渡して、王たちを征服させるのは誰か。
はその剣で彼らをちりのようにし、その弓で藁のように追い散らす。
3 は彼らを追い、難なく進んで行く。まだ自分の足で行ったことのない道を。

●2節にある「一人の者」がペルシアの王キュロスのことです。2~3節にある「」も同様です。彼はバビロンの東から来て、バビロンを含む中近東の国々の王たちを追い散らします。その彼を起こしたのは誰かといえば、「主」なのです。

②【新改訳2017】イザヤ書41章25節
わたしが北から人を起こすと、(=キュロス)は来て、日の昇るところ(=東)から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たち(=支配者、サーガーン:סָגָן)を漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。

●41章2節の原文「東から呼び起こされる人」とは、45章13節「このわたしが義をもってを奮い立たせ、彼の道をことごとく平らにする。がわたしの都を建て直し、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、賄賂によってでもない。──万軍の主は言われる。」に対応しています。つまり41章25節では、キュロスは軍事力によって捕囚のイスラエルの民の「解放者」として描かれていますが(41:25~26)、実際、そのようになったのです。彼(キュロス)はバビロンで捕囚となっていたイスラエルを解放して、エルサレム神殿を再建させるのです。その背景には万軍の主がおられるのですが、そのことが神の民に正しく受けとめられ、信じられなければならないのです

●イザヤ書45章に戻りますが、4、5節に不思議な(不穏な)表現があります。これはキュロスに対するものです。
4節「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。」
5節「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。」

●4~5節の二度の「あなたはわたしを知らないが」は強調表現です。「肩書きを与える」とは「わたしの牧者」と「油注がれた者」という栄誉ある称号のことです。「力を帯びさせる」も「力を与え、勇気を与え、勝利をもたらす」ことを意味します。キュロスが神のご計画を全く知らなくとも、神は「肩書を与え、力を帯びさせる」のです。神がご自分の民を捕囚から救い出すために、主を知らない異国の王を用いるということがあって良いのでしょうか。これは本来ならばあり得ない、これまでのイスラエルの歴史にもなかったことで、イスラエルの民にとっては到底受け入れることができないのです。そのことを前提として、45章9節以降が語られています。

【新改訳2017】イザヤ書45章9~13節
9 ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。
10 わざわいだ。自分の父に「なぜ子を生むのか」と言い、母に「なぜ産みの苦しみをするのか」と言う者。
11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう言われる。
「これから起こることを、わたしに尋ねよ。わたしの子たちについて、またわたしの手のわざについて、あなたはわたしに命じるのか。
12 このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。
13 このわたしが義をもってを奮い立たせ、の道をことごとく平らにする。がわたしの都を建て直し、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、賄賂によってでもない。──万軍の主は言われる。」

●ここで強調されているのは、「このわたしが・・する」という自己宣言です。このことが信じられるかということです。9節の「ああ」と10節の「わざわいだ」はいずれも「ホーイ:חוֹי」で、主の悲しみを表すことばです。ダビデの子孫ではなく、異邦の王を選んだことを不快に思って、神に抗議する者を想定して語られています。神に抗議する者が言う「何を作るのか。あなたが作った物には手がついていない」とは、到底安心などできないという不平を意味しますが、それは、自分の父に「なぜ子を生むのか」と言い、母に「なぜ産みの苦しみをするのか」と言うことと同じです。「造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』」と言えるでしょうか。陶器や粘土が、陶器師に抗議するのはとてつもなく不敬虔です。このような「物を逆さに考えている」陶器と陶器師のたとえは、聖書に多く見られます(イザヤ29:16/エレミヤ18:1~6/ローマ9:20~24)。11節で「イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう言われる」とあり、「これから起こることを、わたしに尋ねよ」とあります。このことばは、主がこれから起こることを最も正しく、しかも十分に考慮して計画したのだから、いたずらに文句を言わずに信仰をもって受け入れよということです。

●イェシュアの弟子たちが「生まれたときから目の見えない人」について、盲目で生まれた理由を尋ねた時、イェシュアの答えは「神のわざが現れるためです」でした。たとえ人の目に不条理に見えたとしても、神の目には結果として「神のわざが現れるため」なのです。神の歴史支配もすべては「神のわざが現れるため」になされていくのですが、人の目にはそうは見えないのです。イスラエルの民の神殿が再建しますが、再建したところで、神と人がいのちをもったかかわりが生まれる保証はありません。事実、そうなっていきますが、神の歴史支配は人の思いを越えて、確実に「神のわざが現れる」方向に、神の栄光が現される方向へと計画され、それに向かっているのです。

2.「あなたは、ご自分を隠す神」

●イザヤ書45章から学ぶもうひとつのことは、「まことに、あなたはご自分を隠す神」(15節)であるということです。いろいろな訳を見てみると、以下のようになっています。

【新改訳2017】・・まことに、あなたはご自分を隠す神
【口語訳】・・・・まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である
【新共同訳】・・・まことにあなたは御自分を隠される神
【岩波訳】・・・・まことに、あなたはご自身を隠し通す神
【中沢洽樹訳】・・まことにあなたは隠れたもう神 

●原文は「みずからを隠す神」(アーヘーン・アッター・エール・ミスタッテールאָכֵן אַתָּה אֵל מִסְתַּתֵּר)です。「ミスタッテール」は「サータル」(סָתַר)のヒットパエル態で「みずからを隠す」となります。何を隠しておられるのでしょうか。14~25節には、神がなされるすばらしいことが預言されていますが、それがどのようにしてなされるかを隠しておられるのです。「わたしは主。ほかにはいない」「わたしのほかに神はいない」「わたしをおいて、ほかにはいない」「わたしが神だ。ほかにはいない。」「イスラエルの子孫はみな主によって義とされ、主を誇りとする」と畳みかけていますが、そのために神が何をされるのかを隠しておられるのです。隠しておられたとしても、神は常に「良い方」として信じる信仰が必要なのです。「良い方はおひとり」なのですから(マタイ19:17)。

【新改訳2017】イザヤ書45章14~25節
14 主はこう言われる。「エジプトの産物とクシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らはあなたの後に従い、鎖につながれてやって来る。そして、あなたにひれ伏して、あなたに祈る。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』と。」
15 イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神
16 偶像を細工する者どもはみな恥を見、辱めを受ける。彼らはともに、辱めのうちに去る。
17 イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入れられる
あなたがたは恥を見ることも辱めを受けることもない。永遠に至るまで。
18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない
19 わたしは隠れたところ、闇の地の場所で、語らなかった。茫漠としたところで、ヤコブの子孫に『わたしを尋ね求めよ』とは言わなかった。わたしは主。正義を語り、公正を告げる者。
20 諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、ともに近づけ。彼らは自分たちの木の偶像を担ぐ者、救えもしない神に祈る者たちで、知識がない。
21 告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない
22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない
23 わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、
24 わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う。
主に向かっていきり立つ者はみな、主のもとに来て恥を見る(=いのちの源泉が枯渇することを意味します)。
25 イスラエルの子孫はみな主によって義とされ、主を誇りとする。」
※25節の「イスラエルの子孫はみな」とありますが、それは「イスラエルの残りの者」のことです。

●これらのことばは、預言的奥義的です。預言的とはイェシュアが来て初めて分かるということです。奥義的とはたましいではなく、霊によってでなければ分からないということです。イェシュアが口で語ったことば(レーマ:ῥῆμα)はすべて「霊であり、いのち」です。ですから時が来るまで神は隠しているとも言えますが、人の方が罪のゆえに、神と神のことばを正しく見、正しく聞き、正しく理解することができなくなってしまい、隠されているように見えるのです。聖書を見るならその齟齬は決定的ですが、それは人間的努力では埋められません。神は御子イェシュアを通してその齟齬を埋めようと長い間、隠して来られたのです。しかし時至ってイェシュアの受難と死と復活によって、つまりイェシュアが「いのちを与える霊」となり人の霊の中に内住してくださることによって、神は初めてその齟齬を埋めてくださったのです。そのことのからくりを簡単にお話ししたいと思います。

●蛇の言われることを信じて善悪の木の実を食べてしまった女が、一体である夫にも与えたことで、人と神との間に大きな溝が造られました。その溝とは、神からのことば(ないしは、サイン)を人が悟ることができなくなったことです。罪を犯した人の回復のために、神がはじめにしたことは「風を吹かせた」ことでした。しかし人はその風の音を聞き、恐くなって身を隠してしまいました。彼らはその風の音を、福音の音として聞くことができなかったのです。「風」とは「霊」のことです。つまり人は神の霊を正しく受け止めることができなくなってしまったのです。この点を原文から説明しようと思います。

【新改訳2017】創世記3章8節
そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

●この箇所を原文で読むなら、8節冒頭の「そよ風の吹くころ」とは実に不可思議な訳です。
「レルーアッハ・ハッヨーム」(לְרוּחַ הַיּוֹם)というフレーズはこの箇所にしか出てきません。8節の主語と述語は「彼ら(=人とその妻)は聞いた」です。彼らが何を聞いたのかと言えば、「神である主の音」(コール・アドナイ・エローヒーム:קֹול יְהוָה אֱלֹהִים )です。多くの訳では「神である主が園を歩き回られる音」を彼らは聞いたのだとしています。「歩き回られる」とは「歩く」(הָלַךְ)のヒットパエル態の分詞で、その分詞の主体が神だと解釈しています。しかし、この分詞の主体が「風」だとしたらどうなるでしょうか。神が「風として歩き回っている(吹き巡っている)」ということです。風は霊であり、福音の風を吹かせているのに(ヨハネ3:8)、人はそれに気づきません。人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠してしまいます。そのあと、神は彼らに呼びかけますが、神の一つ一つのことばと彼らのことばがかみ合わなくなりました。神は霊で語っているのに、彼らがそれをたましいで聞くため齟齬が生じてしまっているのです。神の語りかけることばはすべて福音なのですが、そのようには受け取っていません。すべてさばきのことばと受け止めています。それゆえ、彼らが再び神のことばを霊で聞けるように、神は彼らをエデンの園から追い出します。この「追い出す」ということもさばきではなく、神のことばを霊で聞くようになるために彼らは「追い出された」すなわち「遣わされた」(シャーラハ:שָׁלַח)のです。つまり、いのちを見出すための彼らのミッションなのですが、それが長きに亘って神が隠しておられた事柄なのです。

●神の御子イェシュアが来られて御国の福音を語られましたが、弟子たちも含めて多くの者は理解することができませんでした。なぜなら、それを理解できる「霊」がまだなかったからです。しかし、イェシュアが受難と死をもって最初の人を終わらせ、三日目に死からよみがえり、「いのちを与える霊」「いのちを創造する霊」となって人の霊の内に吹き込まれ内住することで、人は神のことばを悟ることができるようになったのです。このことは、イェシュアの弟子たちに実現し、エックレーシアの中で成就しています。しかし民族的なイスラエルにはまだ与えられていません。やがて「霊」による開眼と悟りを受け取る時、「イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入れられる」(イザヤ45:17)のです。これこそ「イスラエルの残りの者」なのです。彼らはまだ立ち上がって来ていませんが、「終わりの日」に必ず立ち上がって来ます。その結果、数えきれない大勢の異邦人が「イスラエルの残りの者」と結び付き、イェシュアが語られた御国の福音を聞いて救われるのです。そのことを、イザヤ書45章では「エジプトの産物とクシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らはあなたの後に従い、鎖につながれてやって来る。そして、あなたにひれ伏して、あなたに祈る。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』と」と表現しています。エジプト、クシュ、セバは異邦人を代表しています。「彼らはあなたの後に従い、鎖につながれてやって来る」とは、霊的なつながりを象徴しています。ここで預言されていることは、キュロスによる解放の時には起こらなかったことで、終わりの日の出来事なのです。

ベアハリート

●今回キュロスをメシアの型として取り上げました。また、キュロスは主を知らずに主に用いられました。彼が主を知るのはいつのことでしょうか。キュロスが選ばれた理由が「わたしが主であり、・・・イスラエルの神であることをあなたが知るため」(45:3)と語られていました。キュロスは異邦人の型もあります。聖書には明言されていませんが、可能性として以下のことが考えられます。主が彼を見出してくださらなければ、主を知り得ないのです。

【新改訳2017】マタイの福音書25章31~37、40節
31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように
彼らをより分け、 33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を
貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。』
  ・・・・・・・・
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』


三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.11.23
a:105 t:2 y:2

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