****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イザヤのメシア預言(Ⅰ)

8. イザヤのメシア預言(Ⅰ)

【聖書箇所】イザヤ書9章1~7節

ベレーシート

●イザヤ書9章には、結論が最初に置かれるというヘブル的修辞法の特徴が見られます。またパラレリズムも見ることができます。先ずは「異邦人のガリラヤが栄誉を受ける」という結論があり、それが誰によって、そしていつ実現するのかということが預言されているのです。預言書の難しさは、神のご計画の全体像(御国の福音)を知らずに読むところにあります。神からの預言は確実に実現・成就するものであり、その預言の実現の射程は実に広範囲に及んでいます。預言者が預言してから数十年後に実現することもあれば、今から二千年前のイェシュアの初臨によって実現している事柄もあります。しかし同時に、イェシュアの再臨によらなければ実現しない事柄もあるのです。それらが一つの章や節の中に、重層的に記されているのです。それゆえ、御国の福音が何かを理解し、それがどのように展開するのかを知る必要があるのです。そのためには腰を落ち着けて、聖書をじっくりと学ぶ必要があります。信仰するのに知識(神学)は要らないと言う方がいますが、それはある意味で真実です。しかしある意味では短絡的です。

●たとえば、今回の9章7節の「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」という部分だけをキャッチ・フレーズとして取り出して、自分たちがしようとしている集会や働きは「万軍の主の熱心がこれを成功させてくださる」といった意味で用いたりします。それを聞く人々も、このことばの約束をそのような意味だと理解してしまいます。しかしこのみことばは、人間の理解を越えた神の壮大な救いのご計画が最終的に実現する神の深淵な動機なのです。教えの風やさまざまなムーブメントに流されずに、聖書のみことばの真意を正しく理解したいという方々が、昨今、いろいろなところから起こされ始めています。このことは、神が「終わりの時」に向けた準備をしておられるからだと信じます。みことばの正しい理解は、私たちの霊性を吟味すると同時に、霊的刷新と更新に導くと確信します。今回のテキストは、イェシュアが預言者として公生涯に入る時の預言であり、同時に王なるメシアとして再臨される時に成就する預言でもあります。

1. 異邦人のガリラヤが栄誉を受けるという預言

【新改訳2017】イザヤ書 9章1節 (Hebrew:8:23)
しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、
後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは
栄誉を受ける。

●新改訳の9章1節のヘブル語原文は、8章最後の23節となっています(聖書協会共同訳はそのように配列されています)。1節にあるヘブル語の「先」と「後」は、私たちが考える時間感覚とは異なります。「先」とは未来・将来のことではなく、その逆で「昔」を意味します。そして「後」とはやがて確実に起こる「将来」のことを意味します。具体的に言うなら、ここでの「先には」とは「ゼブルンの地とナフタリの地が辱めを受けた」ことです。「ゼブルンの地とナフタリの地」はいずれも北イスラエルの地で、その地が誰によって辱めを受けたのかといえば、残虐なことで有名なアッシリアの王ティグラト・ピレセルです。しかし、その彼を用いられたのは神ご自身です。その証拠に、原文は受動態ではなく、使役態となっています。つまり「辱めを受けた」ではなく、「辱めさせた」(カーラル:קָלַלの完了形使役態のヘーカル: הֵקַל) です。ところが「後」(終わり)には、主がその地に「栄誉を受けさせた」(カーヴァド:כָּבַדの使役態ヒフビード:הִכְבִּיד)と、原文では記されています。「栄誉」を聖書協会共同訳では「栄光」と訳しています。

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●「カーラル」(קָלַל)の初出箇所は「水が引く」(創世記8:8)の意味で使われていますが、多くは「軽んじられる、卑しめられる、辱めを受ける」という意味です。北イスラエルの民がアッシリア王によって受けた辱めは、極めて悲惨でした。ティグラト・ピレセルは北イスラエルを攻め、ナフタリの全土を占領し、また、ガリラヤからギルアデまで南下して、これらの地方の住民をアッシリアへ捕らえ移しました(Ⅱ列王記15:29)。ナフタリを占領したティグラト・ピレセルはさらにゼブルンをも攻め取り、占領された地域の住民は捕虜として連れ去られ、残った民はアッシリア直轄の三地域(ドル、メギド、ギルアデ)に編入されます。9章1節ではドルが「海沿いの道」、メギドが「異邦の民のガリラヤ」、ギルアデが「ヨルダンの川向こう」として表現されています。

●1節には、「同義的パラレリズム」と「反意的パラレリズム」が見られます。同義的パラレリズムは「苦しみのあったところ」が「ゼブルンの地とナフタリの地」と言い変えられ、さらに「異邦の民のガリラヤ」とも言い換えられています。また「闇」と「辱め」も同義です。反意的パラレリズムは「先には・・辱めを受けたが、後には・・栄誉を受ける」という部分です。「辱めを受けた」のは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルによる侵入を指しています。イザヤがなぜ「異邦の民のガリラヤ」という表現をしたのかといえば、その地に住んでいたイスラエルの民と移住してきた異邦人とが雑婚(混血)させられ、イスラエル民族としての純粋さ・アイデンティティが失われたからです。その結果、後の時代のユダヤ人(ユダの人々)たちが、ガリラヤ地方に住むイスラエル人を、異邦人のごとく軽蔑するようになったのです。ところが、イェシュアが宣教を開始された場所はこのガリラヤでした。しかも弟子たちを(イスカリオテのユダ以外はみな)この地域から選んでいます。イェシュアは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」と言って、彼らに対し「異邦の民のガリラヤ」という扱いをされなかったのです。

●北イスラエル王国の最後の王ホセアは、その在位中にアッシリアの王シャルマネセル(BC.727~722)によって隷属させられ、貢ぎ物を納めるようになります。ところがホセアはエジプトを頼みとし、アッシリアに対する謀反を起こして、貢ぎ物を納めることをやめたのです。そのことでホセアは捕らえられ、牢獄につながれました(Ⅱ列王17:4)。ホセアの在位9年目に、首都サマリアはアッシリアによって包囲され、陥落します。アッシリア王はイスラエル人をアッシリアに捕らえ移し(強制移住)、占拠したサマリアの町には「バビロン」「クテ」「アワ」「ハマテ」「セファルワイム」から人々を強制移動させて、住まわせました。こうして雑婚により、イスラエルの民族性と子孫とを完全に失わせたのです。下記のレリーフはアッシリアのものです。敗者の尊厳を踏みにじるこのレリーフの存在は、疑いようのない勝者の証しです。

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●北イスラエルの町サマリアが陥落した原因を、聖書は「こうなったのは・・・」で説明しています。それによれば、「イスラエルの子らが・・・主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、異邦の民の風習・・にしたがって歩んだからである」としています(同17:7~8)。しかし、そのような偶像礼拝の罪に陥った「異邦人のガリラヤ」が「栄誉を受ける」のです。前述の通り、ここでの「栄誉を受けさせる」は動詞の「カーヴァド:כָּבַד」の使役態「ヒフビード:הִכְבִּיד」です。しかも預言的完了形で書かれていることから、この栄誉はメシア王国で実現するのです。

●イェシュアの宣教の開始をルカはナザレとし、そこでの出来事を記しています(ルカ4:14~30)。ところが、マタイはそれをすべて省略し、ガリラヤの町カペナウムから宣教を開始したとしています。なぜマタイがナザレでのことを記していないのかといえば、イェシュアがガリラヤから宣教を開始されたのは、預言者イザヤが預言していたことだとすることが、マタイにとっては重要だったのです。

【新改訳2017】イザヤ書 9章2節
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

●2節もパラレリズムで、「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る」と「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」とは同義です。この「光」(オール:אוֹר)は創世記1章3節にある「光」であり、「神のご計画とみこころ、みむねと目的」を意味し、それらを啓示するメシア・イェシュアによって実現します。そしてその「大きな光」を「見る」ことも、その「光」が「輝く」ことも預言的完了形です。終わりの日において、それが確実に起こることが強調されているのです。

●2節の「輝く」と訳された「ナーガハ」(נָגַהּ)は、「神のご計画とみこころ、みむねと目的」が、より鮮明に彼らの上に「輝き、照らす」のです。異邦人同然のガリラヤ、そのような地に住む者たちが栄誉(栄光)を受けるようになるとはどういうことでしょうか。ひとたび民族の純潔を喪失するなら、決して元に戻ることができず、民族としてのアイデンティティを回復することはできません。

●繰り返しになりますが、B.C.721年、アッシリアによって北イスラエルが滅亡する10年ほど前に、アッシリアの王ティグラト・ピレセル率いる大軍が怒涛のように攻め寄せ、多くの町が完璧なまでに蹂躙されました。その悲惨な舞台となったのがガリラヤ(=ナフタリの地とゼブルンの地)だったのです。多くの町や村が破壊されただけでなく、労働力になりそうな者たちはみな捕虜として連れ去られ、軽蔑の対象を受ける者になってしまいました。しかしながら神は、やがてその者たちを回復し、「増やし」て「その喜びを増し加えられる」のです。

【新改訳2017】イザヤ書9章3~5節
3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。
彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、
ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。

●3節の「あなた」とは「神」のことです。闇の中を歩んでいた「彼ら」に神の完全な救いが訪れるのを見て、彼らに喜びがあふれるというのです。なにゆえにそのような喜びにあふれるのでしょうか。それが4節に記されています。神が「彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ」とあります。「彼を追い立てる(ナーガス:נָגַשׂ)者(単数)」とは、終わりの日に現れる「獣と呼ばれる反キリスト」と言えます。それを、神が「ミディアンの日になされたように打ち砕かれる」のです。「ミディアンの日になされたように」とは、ギデオンがわずか三百人でミディアン人に勝ったことを指しており、神による勝利の代表的なものとして語られています(士師記7章)。「打ち砕かれる」(ハータット:חָתַת)も預言的完了形で記されています。

●「喜び」を表す名詞の「スィムハー」(שִׂמְחָה)、および動詞の「サーマハ」(שָׂמַח)、そして「楽しむ」の「ギール」(גִיל)が使われています。これらはメシア詩篇に多く用いられており、いずれもメシア王国の爆発的な喜びを表す語彙です。ですから、3~4節はイェシュアの再臨によって実現する預言ということになり、具体的には「イスラエルの残りの者」に実現される預言なのです

●5節の「戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる」とはどういう意味でしょうか。ここでの「履き物」と「衣服」とは、戦いのために使われるものです。しかしそれらが「焼かれる」とは、平和が訪れることを意味しています。とすれば、その平和は誰によってもたらされるのか、そのことを記しているのが6~7節に記される「ひとりのみどりご」なのです。それは「ひとりの男の子」であり、言うまでもなく「御子イェシュア」です。

2. 「ひとりのみどりご」によって

【新改訳2017】イザヤ書9章6~7節
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばき(ミシュパート:מִשְׁפָּט)と正義(ツェダーカー:צֶדָקָה)によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

●6節の前半「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる」の「ひとりのみどりご」および「ひとりの男の子」とは神の御子イェシュアのことですが、それはイェシュアの初臨によってすでに実現しています。しかし6節後半の「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」という部分は、イェシュアの初臨によって幾分か成就しますが、完全にそのように呼ばれるのは再臨によってです。7節も然りです。遠くの山々を見るとき遠景と近影が一つの画像として見えるように、旧約の預言者たちは「メシアの初臨と再臨」を同時に見ていることが多いのです。

●文脈を考えるなら、「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける」ために、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」のです。6節原文の冒頭には「なぜなら」を表す「キー」(כִּי)という語彙があり、2~5節の祝福を受ける理由を説明しようとしています。「生まれる」という動詞も預言的完了形が使われています。つまり必ず「生まれる」ことが強調されています。ちなみに「みどりご」(=乳飲み子)と訳された語は「イェレド」(יֶלֶד)で、「男の子」と訳された「ベーン」(בֵּן)はいずれもイザヤ書7章14節で預言された「インマヌエル」、すなわちメシアを指しています。「主権がその肩にある」とは、メシアであるひとりのみどりごに統治権が与えられることを意味します。6,7節の「主権」(権威・王権)は冠詞付の「ハンミスラー」(הַמִּשְׂרָה)で、この箇所にしか使われていません。続く「みどりご」の称号が、6節後半に四つの名前で記されています。しかもそれぞれが二つの名詞で組み合わされています

(1) 「不思議な助言者」(ペレ・ヨーエーツ:פֶּלֶא יוֹעֵץ)

●並はずれた、驚くべき、人間の考えをはるかに越えたみわざをなす助言者を意味します。「不思議」と訳された「ペレ」が「ヨーエーツ」(ヤーアツ: יָעַץの分詞)にかかる連語形であることから、正規には「助言者の不思議」「助言者の驚異」とも訳されるべきであり、「聖霊」を意味しています。新約では、聖霊のことを「助け主」(ヨハネ14:16, 26)と言ったりします。パウロは「主は御霊です」(Ⅱコリント3:17)と言っています。イェシュアの初臨の目的は、この「不思議な助言者」を人の霊の中に内住させることでした。

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章16~17節、26節
16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです
26 ・・・助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます

●助け主は「いつまでも、あなたがたとともにいる」「あなたがたのうちにおられるようになる」方であり、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とも言っています。この聖霊は、イェシュアとともに、イェシュアのうちにもおられました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章34節
神が遣わした方(=イェシュア)は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。

●「不思議な助言者」の「不思議な」のヘブル語は「ペレ」(פֶּלֶא)で、これが複数形になると「二フラオート」(נִפְלַאוֹת)となり、奥義であるキリストに霊の目が開かれることを意味します。

(2)「力ある神」(エール・ギボール: אֵל גִּבּוֹר)

●「エール」(אֵל)は人間とは明確に区別される「神」であり、神性を表します。しかも「ギッボール」(גִּבּוֹר)とは「勇士」とも訳され、働きの実行力が暗示されています。イェシュアはこうたとえました。

【新改訳2017】マタイの福音書12章29節
まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。

●ここでの「強い者」とは悪魔のことです。悪魔は地(=この世)を支配している霊的存在です。その「強い者」(ギッボール:גִּבּוֹר)を縛り上げることで、奪い取られた家を略奪(=奪回)する者こそ「力ある神」であるイェシュアなのです。事実、エマオの途上にあった二人の弟子が、復活したイェシュアとは知らずに、イェシュアのことを「この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある(גִּבּוֹר)預言者でした」(ルカ24:19)と語っています。

(3)「永遠の父」(アヴィーアド: אַבִיעַד)

●「みどりご」は永遠に御父を啓示する方、証言する方という意味で「永遠の父」と呼ばれます。イェシュアの語ることばと力あるわざは、すべて父からのものでした。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです」(ヨハネ7:16)と言われたイェシュアの極めつきは、「わたしと父とは一つ」(ヨハネ10:30)です。これらは、御父と御子のかかわりが同時同存相互内在であることを意味しています。

①「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(12:44~45)
②「わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。・・・ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」(12:49~50)
③「わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(14:10)

(4)「平和の君」(サル・シャーローム:שַׂר־שָׁלוֹם)

●7節に「その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える」とあります。これは、再臨のイェシュアが地上におけるメシア王国(千年王国)を治める王として、しかも御国で実現する祝福の総称としての平和(シャーローム:שָׁלוֹם)をもたらす方であることを意味しています。「平和」とは、単に「紛争や争いが無い」ことではありません。今日でも「ロシアとウクライナ」との戦争、中国によるチベット人の強制教育など、民族の歴史問題に端を発する争いの根は深いものです。それを解決することは容易ではありません。しかし神の民の未来の栄光は「平和」なのです。

【新改訳2017】イザヤ書2章4節
主は国々(ゴーイム:גּוֹיִם)の間をさばき(シャーファト:שָׁפַט)、多くの民族(アンミーム:עַמִּים)に判決を下す(ヤーハハ:יָכַח)。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。(ゴーイ:גּוֹי)は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

※ここでの「国」は「ゴーイ」(גּוֹי)で「民族」を意味します。※「民族で読み解く世界史」シリーズに注目。

●一つの家庭に起こる争い、民族と民族の争い、国と国との争い、さらに、人的および自然による災害など、これらを避けることはできないのです。歴史の中でそれは起こって来たし、これからも起こり続けます。なぜなら、憎しみや復讐の連鎖が繰り返されるからです。その連鎖は「終わりの日」に向かって、より肥大化していくことが定まっているのです。ですから、イェシュアはこう言われました。

【新改訳2017】マタイの福音書24章7~8節
7 民族(ゴーイ:גּוֹי)は民族に(マムラーハー:מַמְלָכָה)は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

●「平和」を意味する「シャーローム」の語源が「シャーレーム」(שָׁלֵם)であることから、「平和」とは神が約束したことが完全に成就し、完成することを意味します。「」と訳された「サル」(שַׂר)はそれを完成させる「先駆者・創始者」を意味します。イェシュアは「平和の君」として来られるのです。

3. 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる

【新改訳2017】イザヤ書9章7節
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばき(ミシュパート:מִשְׁפָּט)と正義(ツェダーカー:צֶדָקָה)によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

●7節の最後にある「今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」というフレーズは、特別に取り上げる必要があります。これこそ、神のご計画と目的を実現する動機だからです。「今よりとこしえまで」の「今より」とは「闇の中、死の陰の地、異邦の民のガリラヤの地にメシアが現れた時から」という意味であり、「とこしえまで」とは「メシア王国(千年)の終わりまで」です。そして「主の熱心」と訳されたヘブル語は「キヌアット・アドナイ」(קִנְאַת יהוה)で「ねたむ神」とも訳せます。これは強烈な愛の裏返しです。

●神とイスラエルの民との間に結ばれた深い絆である契約において、イスラエルの民が神を離れて偶像にひれ伏すならば、もはや真実の意味での神の民ではなくなってしまいます。そのときイスラエルは契約の民としての特権を失い、単なる地上の一国民にすぎない存在となります。しかし、イスラエルの使命は、神を証しする民、諸国の光、また王なる祭司の民となることです。ですから、その使命を喪失することを神は赦すことができないのです。神はご自分の民の運命に対して決して無関心ではおられない。その迷いを放り出すことができない。そのような熱烈な愛こそが「万軍の主の熱心」です。その熱心が「恵みと嘆願の霊」を注ぐことで、「イスラエルの残りの者」を生み出すのです。そしてその者たちがアブラハムに約束された多くの子孫を産むことで、彼らの栄誉が現されるのです。「異邦の民のガリラヤ」は彼らを表す型となっています。メシア王国が実現する前に、「イスラエルの残りの者」が世界のあらゆるところから神ご自身の民として集められます。これはきわめて驚くべき主なる神の熱心によるものです。こうして「異邦の民のガリラヤが栄誉を受ける」(確実に受ける)のです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.8.03
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