イザヤのメシア預言(Ⅱ)
9. イザヤのメシア預言(Ⅱ)
【聖書箇所】イザヤ書11章1~16節
ベレーシート
●前回のイザヤ書9章6~7節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。・・その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」という箇所は良く知られているところです。しかし今回の11章1節「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」というメシア預言は、比較的取り上げられることが少ないように思います。そこで今回は、イザヤのメシア預言(Ⅱ)として、イザヤ書11章1~16節に注目したいと思います。そこには、御霊によって導かれるメシアの統治(1~5節)と、それによって実現される普遍的な平和(6~16節)が預言されています。その内容は、以下の通りです。
1.聖霊に導かれるメシアとその統治(1~5節)
(1) メシアの資質(1~2節)
(2) メシアの統治(3~5節)
2. 普遍的な平和(6~16節)
(1) 人間と自然界における平和 (6~9節)
(2) イスラエルと諸国民との平和 (10節)
(3) エフライムとユダとの平和―全イスラエルの帰還と回復―(11~16節)
1.聖霊に導かれるメシアとその統治(1~5節)
(1) メシアの資質(1~2節)
【新改訳2017】イザヤ書11章1~2節
1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。
● 1節の「エッサイの根株(切り株)」とは、エッサイから出る子孫を意味します。この預言はエッサイの息子であるダビデのことを指しているのではありません。なぜならイザヤの預言は、ダビデの時代よりずっと後に語られたものだからです。「エッサイ」は「ベツレヘム」の人であり、ボアズとルツの子孫です。エッサイの子孫をここでは「若枝」(ネーツェル:נֵצֶר)と言い、これが後の「ナザレ」を意味する語源となっています。したがって「ダビデの若枝」とは「ナザレ人」とも言うことができ、イェシュアを意味します。
● 「新芽」(ホーテル:חֹטֶר)も「若枝」(ネーツェル:נֵצֶר)もいずれも単数名詞であり、同義です。これらの語彙の背景として、ユダ王国は一旦滅びますが、アッシリアやバビロンに預言されているような滅びではなく、根が残されており、そこからメシアの象徴である「新芽」、あるいは「若枝」が生え出て来ることを預言しています。そして、メシアの上には「主の霊がとどまる」と預言されています。「とどまる」と訳された動詞は「ヌーアッハ」(נוּחַ)で、その初出箇所は創世記2章15節の「人をエデンの園に置き」で使われています。事実、イェシュアが受肉した時に、主の霊が与えられた(置かれた、とどまった)のです。「とどまる」というのは、途切れることのない永続的なかかわりを意味しています。その片鱗をうかがわせてくれるのが、12歳のイェシュアです。
●聖書は【新改訳2017】からの引用ですが、ギリシア語原文はビザンチン写本です。その写本では「霊が継続的に強められていた」とあります。イェシュアが受胎された時に、すでに彼のうちにはこの「七つの霊」があったのです。それは異なる七つの霊があったということではなく、七という数に「完全な」という意味を含んでいることから、「七」で「一つの霊」とも言えるのです。
●12歳のイェシュアが「知恵(ソフィア:σοφία/ホフマー:חָכְמָה)に満ちて」とあるように、「知恵」は霊の特性の中でも代表的な位置にあります。箴言8章12節に「わたしは知恵/知恵であるわたし」(アニー・ホフマー:אֲנִי חָכְמָה)とあります。使徒パウロはこの「わたし」を「キリスト」と解釈して、「キリストは、私たちにとって神からの知恵・・になられた」と言っています(Ⅰコリ1:30)。神の知恵であるキリストは「この世の知恵」とは全く異なり、「知恵者中の知恵者」(箴言30:24)なのです。

●箴言ではこの知恵について、上図のように、12の異なることばで表しています。「神の知恵」は「光」の概念と同様に、目に見えない、知り得ない神の永遠のご計画、神のみこころ、神のみむね、神の目的を含んでいます。使徒パウロはそれを「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者たちに神が備えてくださったもの」(Ⅰコリント2:9)だと表現しています。これらを理解でき、共有できるのは、イェシュアと同じ霊が与えられることによってです。
●ギリシア語「ソフィア」(σοφία)も、その周辺に四つのことばを有しています。
①「主の霊」・・メシアの人性において多岐におよぶ霊的影響力。
②「知恵の霊」・・物事の本質と目的を見抜き、神のみこころを達成する正しい方法を見出す霊的能力。
③「悟りの霊」・・さまざまな状況や関係を洞察する霊的能力。
④「はかりごとの霊、思慮の霊」・・正しい決定を下す霊的能力。
⑤「能力の霊、力の霊」・・自分に与えられた使命を
恐れることなく果たす霊的能力。
⑥「主を知る知識の霊」・・御父との愛と信頼関係から生じる知識。
⑦「主を恐れる霊」・・神を愛し、神を喜び、神を楽しむ霊的資質。

●これらはイェシュアの内にある霊です。イェシュアのたましい(=心の知・情・意)のすべてが霊によって導かれています。それゆえに、豊かな知恵を持ち、「知恵者中の知恵者」なのです。メシア王国に入る者たちも、イェシュアと同じ霊で満たされる必要があるのです。
●30歳になったイェシュアがバプテスマを受けられた時に、天が開けて鳩のように降って来た神の御霊は、イェシュアが公生涯において御国の福音を宣べ伝えるために与えられた特別な霊です。イェシュアは悪魔の試みを受けるために、その御霊に導かれて荒野に上って行かれました。そしてこの御霊の助けにより、イェシュアは御国の福音を自由自在に語られたのです。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊(τὸ πνεῦμα)を限りなくお与えになるからである」(ヨハネ3:34)とある通りです。イェシュアの公生涯でのすべての働きは、内にある霊と外から(上から)の霊の特別な働きによるものです。これは、イェシュアの弟子たちが「息を吹きかけられ」「聖霊を受けた」ことでイェシュアのことばを理解することができ整えられたこと、そしてさらに、彼らがキリストの証人として証しするためには、外からの(上からの)特別な聖霊の賦与が必要であったことの予型です。この上からの聖霊の注ぎを、聖書は「聖霊によるバプテスマ」と呼んでいます(使徒1:5, 11:16)。
●イェシュアも「わたしが・・・話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)と言われました。それはイェシュアの内にある七つの霊(完全な霊)と公生涯の務めのために特別に上から与えられた神の御霊によって、まさに「すべてを含む霊」の中で、その霊とともに、その霊にあって歩んだことを意味しています。このことはイェシュアの初臨に見られただけでなく、再臨においては、さらに増し加えられた完全な霊をもつ王として統治されるのです。
●使徒パウロは「神を知るための知恵」が「聖霊によって啓示されること」を祈っています。換言するなら、霊によって「心の目がはっきり見えるようになること」です。つまりこれまで見えなかったものが、見えるようになることです。
【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、
聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
●霊によって見るべき内容について、パウロは三つの言い方で表しています。これら三つは、三つで一つです。
① 神の召しにより与えられる望みがどのようなものか。
② 聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか。
③ 信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか。
これら三つを知ることができるように、まだ見たことのない、これからのことを知ることができるようにと祈っているのです。私たちの祈りが、果たしてそのような祈りになっているでしょうか。再度、吟味したいところです。
(2) メシアの統治(3~5節)
【新改訳2017】イザヤ書11章3~5節
3 この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。
●聖霊に導かれた王なるイェシュアが、再臨においてどのような統治をなさるのかということが、この箇所には預言されています。メシアなる王は何よりも「主を恐れることを喜びとされ」ます。「喜びとされる」は「ラーヴァハ」(רָוַח)の使役形で「満足する、受け入れる」ことを意味します。ここでの主は「御父」を意味します。初臨と同様に、イェシュアは常に御父と一つです。それゆえ御父は御子にさばきの権威を与えられます(ヨハネ5:27)。それは御子が御父から「聞いたとおりに」さばくからです(同5:30)。
●さらに、王なるメシアは「正義」(ツェデク:צֶדֶק)と「公正」(原語は「公平」ミーショール:מִישׁוֹר)をもってさばきます(シャーファト:שָׁפַט)。だれをさばくのかと言えば、それは「弱い者」(ダル:דַּל)たち、「貧しい者」(アーナーヴ:עָנָו)たちです。これは社会的・経済的に弱い者、貧しい者ではなく、霊において弱い者、貧しい者、極貧の者であることを自覚した者たちのことです。なぜなら、朽ちるからだをもったまま御国に入る者たちとその子孫たちが存在するからです。しかし王なるメシアは「口のむち」と「唇の息」で罪ある者たちを処罰します。「口のむち」と「唇の息」は同義です。いずれも口から出るものであり、教え、命令、威嚇、判決、決定、宣告などによってメシアは統治されるからです。
2. 普遍的な平和
●メシアの「正義」(ツェデク:צֶדֶק)と「真実」(エムーナー:אֱמוּנָה)は、メシアの戦いの武器となります。それゆえ、普遍的な平和がもたらされ(創造され)るのです。この平和(シャーローム:שָׁלוֹם)は、神と人との敵意のない神聖な調和、すべての被造物における完全なかかわりの回復を意味します。
(1) 人間と自然界における平和 (6~9節)
【新改訳2017】イザヤ書11章6~9節
6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。
8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
●メシアの統治の結果もたらされる普遍的な平和が詩的な表現で描かれています。聖書では最も貪欲で残忍な動物として描かれている「狼」が、ここでは「子羊とともに宿り」とあります。「宿る」と訳された動詞は「グール」(גּוּר)で「ともにえさを食べる」という意味です。「豹」と「子やぎ」が「ともに伏し」とあります。千年王国時代はすべて草食ということでしょうか。今の時代ではあり得ない、考えられない光景です。子牛、獅子(ライオン)、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。肥えた家畜は野獣の格好の餌食ですが、食われることがありません。子どもが野獣を従えている光景です。メシアがこの地上を支配すると、すべての敵意は止み、野獣はその凶暴性を失い、弱い動物は安全に生きられるようになるのです。人間と動物(獣と家畜)が共存するのです。「追う」と訳された原語は「導く」とも訳されます。つまり、これは人間が動物との関係において優位性を保っていることを啓示しています(創世記1:26の回復)。
●7節の「雌牛と熊は草をはみ、獅子も牛のように藁を食う」という表現も、平和的な共存を表しています。ここを文字通りに解釈するなら、肉食動物が草食動物に変わることになります。つまりエデンの園の状態に回復すると、こうなるということです。
(2) イスラエルと諸国民との平和 (10節)
【新改訳2017】イザヤ書11章10節
その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、
国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。
●普遍的な平和は、人間と自然界との関係だけではありません。「その日になると、エッサイの根(=イェシュア)は、もろもろの民(アンミーム: עַמִּים)の旗(ネース:נֵס)として立ち、国々(ゴーイム: גּוֹיִמ)は彼を求め、彼の「とどまるところ」(憩う所=メヌーハー:מְמוּחָה)は栄光に輝く」のです。メシア王国(千年王国)において、エルサレムは地における中心的位置を回復します。つまり諸国民はメシアの「とどまるところ」を慕い求めることになるのです。今日的状況にあってはあり得ない状況ですが、預言されているように現実となります。それがメシアの「エムーナー:אֱמוּנָה」(真実)なのです。
(3) エフライムとユダとの平和―全イスラエルの帰還と回復―(11~16節)
【新改訳2017】イザヤ書11章11~16節
11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られる。彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである。
12 主は国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
13 エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。
エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。
14 彼らは西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、ともに東の子らからかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アンモン人も彼らに従う。
15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中で御手をその川に向かって振り動かし、それを打って七つの水無し川とし、履き物のままで歩けるようにする。
16 残されている御民の残りの者のためにアッシリアから大路が備えられる。イスラエルがエジプトの地から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。
●11節も「その日」(原文は「その日になると」(ハーヤー・バッヨーム・ハフー:הָיָה בַּיּוֹם הַהוּא)で10節と同じフレーズが使われています)、「終わりの日」のことが預言されています。イザヤは自分の息子の名前である「シェアル・ヤシュヴ」(שְׁאָר יָשוּב)の預言が成就すると預言しました。「シェアル・ヤシュヴ」という名前は、「残された者は帰ってくる」という意味で、イザヤ書における重要な思想の一つです。イザヤは過去における神のみわざの中に根を下ろしながら、将来、終わりの日になされる神のみわざを預言しています。神のみわざを示す「旗」(ネース:נֵס)は「エッサイの根」であり、それはイェシュアのことです。神は絶望的な状況からさえも、新しい芽を生えさせるのです。
●不思議なことですが、エフライムとユダのイスラエルの全部族を主は覚えておられるということです。特に、エフライム(10部族)は長い間に他民族との雑婚によって分からなくなっています。そのような状況にあってさえも主は覚えておられ、しかも均等に、正確に「ご自分の民の残りの者」(シェアール・アンミー:שְׁאָר עַמִּי)を買い取られるのです。つまり「イスラエルの散らされた者を取り集め(アーサフ:אָסַף)、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる(カーヴァツ:קָבַץの受動態)」のです。全世界に散らされていたイスラエルの民はエルサレムを目指して集まって来るのです。これが「イスラエルの残りの者」です(黙示7:1~8)。
【新改訳2017】マルコの福音書 13章27節
そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
●そればかりか、「エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない」とあるように、ソロモン王治世後のユダとエフライムの分裂が消滅し、ここではじめて完全に一つとされるのです。
14節 彼らは西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、ともに東の子らからかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アンモン人も彼らに従う。
●「彼ら」とは一つにされた「イスラエルの残りの者」のことです。再臨のイェシュアが反キリストの軍勢を滅ぼした後、彼らは奮起して「西の方」「東の子ら(モアブ、アンモン)」「エドム(南の方)」を征服します。
15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中で御手をその川に向かって振り動かし、それを打って七つの水無し川とし、履き物のままで歩けるようにする。
16 残されている御民の残りの者のためにアッシリアから大路が備えられる。 イスラエルがエジプトの地から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。
●イスラエルの残りの者は、南のエジプト方面と北のアッシリア方面からエルサレムに帰ってきます。神はエジプトの海の入り江を干上がらせ、履き物のままで歩けるようにします。また、北のアッシリア方面から返って来る民のためには大路が備えられます。これはまさに「イスラエルがエジプトの地から上って来た日に、イスラエルのために備えられた」ことが、再度、繰り返されるのです。
ベアハリート
●こうして見てくると、過去に起こったすべての出来事が、終わりの日に起こる予型だったということが分かります。それゆえ、以下のみことばが重みをもちます。
【新改訳2017】イザヤ書 46章10節
わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。
●神のことばは預言(=幻)です。ですから、決して預言をないがしろにしてはなりません。
①【新改訳2017】箴言 29章18節
幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。●神の幻とは、「神の住まいが人とともにあること」です。これは神の知恵によってもたらされます。この幻から外れた人間的な幻は、必ず多くの逸脱を生み出すことになります。この逸脱は、個人の領域からイスラエルの民全体、あるいはキリスト教の中にも広がっています。そうした逸脱から、本来の神のご計画にある「幻」に立ち返らなければなりません。キリストはそのための導き手です。
②【新改訳2017】箴言 6章6節
怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。●「蟻」のところに行って、蟻をよく観察して、その蟻から「知恵を得よ」と命じています。なぜなら、「蟻」とは「知恵者中の知恵者」であり、キリストご自身だからです。キリストの霊のことばに耳を傾け、それを悟るために、私たちに与えられた霊をますます活用しなければなりません。シェーム・イェシュアです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2025.8.17
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