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イザヤ書2~4章に見る「その日」

6. イザヤ書2~4章に啓示された「その日」

【聖書箇所】イザヤ書2~4章

ベレーシート

●以下の箇所に、「主のことば」(ネウム・アドナイ:נְאֻם יהוה)として語られたことばが記されています。それはつまり終わりの日に必ず起こる出来事であるということです。その出来事について「全地はこうなる」とあります。聖書で「地」(アーレツ:אָרֶץ)は神の永遠の関心の的です。なぜなら、地には神の選びの民イスラエルがいるからです。しかし、その民が二つに分かたれるのです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章8~9節
8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」

●二つに分かたれるとは、一つはユダヤ人の三分の二は断たれ、死に絶えること。もう一つはユダヤ人の三分の一がそこに残り、生かされることになるということです。後者は「イスラエルの残りの者」です。これがメシア王国の主軸となる存在(御国の民の長兄的存在)です。それは以下のイザヤ書でも預言されています。

【新改訳2017】イザヤ書10章20~22節
20 その日になると、イスラエルの残りの者(シェアール:שְׁאָר)、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。

●ここには、「たとえ、・・イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る」「・・残りの者は、力ある神に立ち返る」とあります。後に使徒パウロがLXX訳から引用して「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる」としています。彼らは「自分を打つ者」である「反キリスト」に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る者たちです。そうでない者たちの「壊滅は(反キリストとともに)定められ」ているのです。「壊滅」と訳されたヘブル語「キッラーヨーン」(כִּלָיוֹן)の語源「カーラー」(כָּלָה)は、滅びと救いの両義性を有する動詞です。現在、ユダヤ人はイェシュアをメシアとは信じていません。しかしそのユダヤ人が、やがて「イスラエルの残りの者」として義(=救い)があたかも洪水のように「あふれようとしている」(シャータフ:שָׁטַףの分詞)ことを、イザヤは2~4章で「その日」として預言しているのです。

●今回はイザヤ書2~4章の中に、ゼカリヤ書13章8節の「全地はこうなる」、すなわち「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」ことの根拠が示されているということに目を留めてみたいと思います。内容としては、イザヤ書2~3章における「終わりの日における主の家の山の幻」と「万軍の主の日」について、次いで4章における「その日における地の果実」についてです。

1. 「終わりの日における主の山の幻」と「万軍の主の日」

【新改訳2017】イザヤ書2章2~5節
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。

●2~4節には、「終わりの日における主の家の山の幻」が啓示されています。地の中心は主の家の山であるシオン(=エルサレム)であり、そこにすべての国々(ハッゴーイム:הַגּוֹיִם)、多くの民族(アンミーム:עַמִּים)が流れて来ます。なぜなら、そこから主の教えが出るからです。王なるメシアのすばらしい統治形態が啓示されています。そこでイスラエルの残りの者はすべての国々と多くの民族に対して、長兄的立場に位置づけられるのです。ですから、そのイスラエルの残りの者に対して、5節「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光(オール:אוֹר)のうちを歩もう」と呼びかけているのです。これが「終わりの日における主の家の山の幻」の結論です。それとは対照的に、主から断たれ、死に絶えることになる三分の二のユダヤ人へのさばきが、イザヤ書2~3章の中で、「万軍の主の日」になされることとして「その日(には)、・・」と記され、さらにそのさばきの理由についても預言されています。神のさばきの対象は「人間の高ぶりの目」と「人々の思い上がり」です。

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【新改訳2017】イザヤ書2章11~12節
11 その日には、人間の高ぶりの目は低くされ、人々の思い上がりはかがめられ、主おひとりだけが高く上げられる。(17節にも同じフレーズがあります)
12 まことに、万軍の主の日は、すべてのおごり高ぶる者、すべての誇る者の上にあり、これを低くする。

●11節と12節は同義的パラレリズムとなっており、「その日には」
(בַּיּוֹם הַהוּא)が「万軍の主の日は」(יוֹם לַיהוָה צְבָאוֹת)と言い換えられています。いずれも終わりの日に起こることを啓示しています。

(1)「人間の高ぶりの目」
(エーネー・ガヴフート・アーダーム: עֵינֵי גַּבְהוּת אָדָם)

●「高ぶりの目」とは「高慢なまなざし」で「ルーム・エーナイム:רוּם־עֵינַיִם」、あるいは「ゲヴァハ・エーナイム:גּבַהּ־עֵינַיִם」と表現されます。これは主に最も忌み嫌われる罪です。「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げるとき、アッシリアの王の思い上がった心の果実、その高ぶる目の輝き(ティフエレット・ルーム・エーナーヴ:
תִּפְאֶרֶת רוּם עֵנָיו)を罰せられる」とあります(イザヤ10:12)。しかし、イザヤ書2章の「高ぶり」には「ルーム: רוּם」ではなく、「ガーヴァハ: גָּבַהּ」が使われています。この語彙は誰かと比べて「高い」ことを意味しますが、その誰かが神であるなら、「高ぶり」となります。それは自分を神のように見なすからです。「私に言わせれば・・・」も同じで、常に自分を基準とします。その代表的な例が「ツロの王」であり、後の「反キリスト」の型となる人物です。

【新改訳2017】エゼキエル書28章2~6節、12, 17節
2 「人の子よ、ツロの君主に言え。神である主はこう言われる。
あなたの心は高ぶり(גָּבַהּ)、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のように見なしたが、あなたは人であって、神ではない。
3 あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。
4 あなたは自分の知恵と英知によって富を築き、金や銀を宝物倉に蓄えた。
5 商いに多くの知恵を使って富を増し、あなたの心は富のゆえに高ぶった(גָּבַהּ)。
6 それゆえ、神である主はこう言う。あなたは自分の心を神の心のように見なした。
12 「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう言われる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり(גָּבַהּ)、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に放り出し、王たちの前で見せ物とした。

●箴言6章16節では「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある」としながら、その筆頭に来るのが「高ぶる目」なのです。

(2)「人々の思い上がり」
(ルーム・アナーシーム:רוּם אֲנָשִׁים)

●ここでの「人々」(アナーシーム:אֲנָשִׁים)は「不治の病となっている者たち」を意味し(Ⅱサム12:15では「病気」)、それが「ルーム:רוּם」と結びつくことで、治しようのない高慢さを表します。この高慢さの基であるサタンは、自分の座を天に置き、そこに座ろうとする存在です。そのサタンが人間の心の中に足場を組んでいるのです。再度、11節と12節を見比べてみましょう。

【新改訳2017】イザヤ書2章11~12節
11 その日には、人間の高ぶりの目は低くされ、人々の思い上がりはかがめられ、主おひとりだけが高く上げられる。(17節にも同じフレーズがあります)
12 まことに、万軍の主の日は、すべてのおごり高ぶる者、すべての誇る者の上にあり、これを低くする。

●11節の「高ぶり」(ガーヴァハ: גָּבַהּ)と「思い上がり」(ルーム: רוּם)が、12節では「おごる者」(ゲーエ:גֵּאֶה)と「高ぶる者」(ルーム:רוּם)と「誇る者」(ナーサー:נָשָׂה)に言い換えられています。また、11節の「低くされ」(シャーハハ:שָׁחַח)と「かがめられる」(シャーフェール:שָׁפֵל)が、12節では「低くされる」(シャーフェール:שָׁפֵל)の一語に言い換えられています。つまり「その日には」、神に対して高慢な者はすべて、例外なく「低くされる」のです。12節に「まことに、万軍の主の日は、すべてのおごり高ぶる者、すべての誇る者の上にあり、これを低くする」とありますが、聖書はそれらをどのようにたとえているでしょうか。

【新改訳2017】イザヤ書2章13~18節
13 またそれは、高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、
14 すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、
15 すべてのそそり立つやぐらと、すべての堅固な城壁、
16 タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船の上にある。
17 その日には、人間の高ぶりはかがめられ、人々の思い上がりは低くされ、主おひとりだけが高く上げられる。
18 偽りの神々はことごとく消え失せる。

①「高くそびえるレバノンの杉の木と、バシャンの樫の木」は、「高慢な人々」のメタファーです。聖書の「木」は「人」、および「神のことば」のメタファー。
②「高い山々と、そびえる峰々」は、「国々や諸国民」のメタファー。
③「そそり立つやぐらと、堅固な城壁」は、「軍事的防衛・安全保障」のメタファー。
④「タルシシュの船、慕わしい船の上にある」は、「高価な品、贅沢品」のメタファー。
⑤「偽りの神々」は、諸国民の「偶像」のメタファーです。

●これらすべてが神のさばきの対象となります。18節には「ことごとく消え失せる(=完全に消え失せる)」とあります。そのさばきの目的はひとえに「主おひとりだけが高く上げられる」ためです。11節にも、17節にも同じく「その日には、人間の高ぶりはかがめられ、人々の思い上がりは低くされ、主おひとりだけが高く上げられる」と宣言されています。

●「高く上げられる」は、「高くなる」を意味する「サーガヴ」(שָׂגַב)の受動態「ニスガヴ」(נִשְׂגַּב)で、「高められる、あがめられる」の意味となります。それと同じ例が、詩篇91篇にもあります。]

【新改訳2017】詩篇91篇14節
彼がわたしを愛しているから わたしは彼を助け出す。
彼がわたしの名を知っているから わたしは彼を高く上げる(שָׂגַב)。

●ここでの「わたし」は御父のことであり、「彼」は御子イェシュアのことです。ここでの「サーガヴ」(שָׂגַב)はピエル態で「強大にする」という意味です。決して私たち自身のことではありません。御子イェシュアは、常に「いと高き方の隠れ場に住む者」であり、「全能者の陰に宿る」者であるがゆえに、高く上げられるのです。事実、イェシュアは人としての務めを完了して、十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、このイェシュアを高く上げて(גָּבַהּの使役態)、すべてに勝る名を与えられました。それゆえ、「主おひとりだけが高く上げられる(נִשְׂגַּב)」ことがすでに成就してはいるのですが、メシアが王として地上再臨するまではいまだ先延ばしにされているのです。

●イザヤ書3章7節と18節にも「その日」があります。7節は省略して、18節のみを取り上げます。この箇所には「シオンの娘たち(=ユダヤ人)の高ぶり」と「その日」が重なっています。

【新改訳2017】イザヤ書3章16~24節
16 主は言われた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小股で歩く。」
17 それで、主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶたでおおい、主は彼女たちの額をむき出しにされる。
18 その日、主はもろもろの飾りを除かれる。足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、
19 耳輪、腕輪、ベール、
20 頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、
21 指輪、鼻輪、
22 礼服、外套、羽織物、金入れ、
23 手鏡、亜麻布の衣服、ターバン、かぶり物を。
24 こうして、芳香は悪臭となり、帯は荒縄、結い上げた髪ははげた頭、豪華な衣装は粗布の腰巻き、その美しさは焼き印となる。

●「その日」が訪れる前に、ユダヤ人に一時的な偽りの平和が訪れます。そして彼らの多くが獣と呼ばれる反キリストをメシアと信じることで膨大な富を得、贅沢極まりない物で身を飾ることが預言されています。この世の神サタンがこの世のすべての王国とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」との誘惑によってもたらされた虚飾の姿です。しかし、その虚しい華やかさは大患難が訪れることで、すべてが剝ぎ取られ、殺されることになるのが2/3の悲しきユダヤ人なのです。「全地はこうなる(ここだけにしかない表現です)。―主のことば―。その三分の二は断たれ、死に絶え・・る。」(ゼカ13:8)。

2.「その日における地の果実」

●2~3章で「万軍の主の日」と呼ばれる「その日」は、イスラエルのさばきの日を意味していました。しかし、4章の「その日」はメシア王国の祝福が語られています。

【新改訳2017】イザヤ書4章1~4節
1 その日、七人の女が、一人の男にすがりついて言う。「私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。私たちがあなたの名で呼ばれるようにして、恥辱を取り去ってください。」
2 その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。
3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖なる者と呼ばれるようになる。みなエルサレムに生きる者として書き記されている。
4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い落とし、エルサレムの血をその町の中から洗い流すとき、

「イスラエルの逃れの者」「残された者」「残った者」「聖なる者」「シオンの娘たち」は、すべて「イスラエルの残りの者」と同義です。

(1) 「七人の女」の解釈

●イザヤ書4章では二つの「その日」が1節と2節にあります。ここでの「その日」は「終わりの日」における祝福を意味しています。ただ1節の「七人の女が、一人の男にすがりついて言う」の「七人の女」の理解が難しいのです。大方の解釈は、大患難時代の中で、反キリストとその軍勢によって多くのユダヤ人の男が殺され、数が少なくなってしまうため、七人の女が一人の男にすがりついて結婚を求めるようになるという解釈です。しかし、それとは異なる解釈を紹介すると、「七人の女」とは、イザヤ書11章にある「七つの霊」のことと解釈します。これは神学者オリゲネスの解釈です。つまり「七つの霊」は「主の霊、知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊」(新改訳2017)のことであり、七つで「一つの霊」とも言えます。その「一つの霊」がイェシュアを通して働くならば、ユダヤ人の1/3であるイスラエルの残りの者がイェシュアこそメシアであることを知って、「主は私の神」と言うことができるのです。「一人の男」とはメシア・イェシュアのことであり、受肉されたイェシュアとも言えます。

●もし「七人の女」である主の霊を「主の知恵」として考えるなら、それに対抗する「この世の知恵」によってイェシュアは殺されるわけですから、「女」である霊は「恥辱」を被ることになるわけです。この世の知恵(この世の支配者たちの知恵)がイェシュアの知恵を嘲けることになるなら、「七人の女(=七つの霊)」の恥辱を取り去ることのできるのは、死から復活された「一人の男」であるメシア・イェシュアしかいません。この方は「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」(ローマ1:3~4)です。ですから、「主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる」(イザヤ4:2)とも、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(同11:1)とも言えるのです。この「若枝」(ツェマハ: צֶמַח)がメシア・イェシュアですから、地の果実である「イスラエルの残りの者」が、イェシュアの「誇り(ガーオーン:גָּאוֹן)となり、輝き(栄光、美しさ、名誉、光栄/ティフエレット:תִּפְאֶרֶת)となる」のは当然のことです。輝きを意味する「ティフエレット」は大祭司アロンの装束の美しさを表します。とすれば、「イスラエルの残りの者」が主の霊によって、「王なる祭司」の務めをするにふさわしい名誉が与えられると解釈することができるのです。

(2) 「さばきの霊と焼き尽くす霊」

●ゼカリヤ書13章9節の「彼ら」である「イスラエルの残りの者」は、イザヤ書4章3節の「シオンに残された者(ハンニシュアール:הַנִּשְׁאָר)、エルサレムに残った者(ハンノータール:הַנּוֹתָר)」であり、「聖なる者(カードーシュ:קָדוֹשׁ)」と呼ばれるようになります。「聖なる者」とは、神によって区別された、特別な存在という意味です。また、彼らは「シオンの娘たち」とも呼ばれ、主の「さばきの霊と焼き尽くす霊によって」汚れを洗い落とされた者たちで(4節)、「銀を練るように練り、金を試すように試された」者たちなのです(ゼカ13:9)。ですから「さばきの霊と焼き尽くす霊」と「恵みと嘆願の霊」(同12:10)とは、霊の働きにおける両義性(さばきと救い)を啓示しています。

●4章1節の「その日、七人の女が、一人の男にすがりついて言う。『私たちは自分のパンを食べ、自分の服を着ます。私たちがあなたの名で呼ばれるようにして、恥辱を取り去ってください。』」とは、2節にある「若枝」の存在が、地の果実である「イスラエルの逃れの者(ペレーター:פְּלֵיטָה)」にとって「誇りとなり、輝きとなる」ためです。

●「七人の女」はそれぞれ「自分のパンを食べ、自分の服を着」ていますが、それは何を意味しているのでしょうか。それは、それぞれの霊がそれぞれ独自の働きを持っていることを意味しています。しかしそれらを一つにして働かせてくれる「一人の男」であるメシアにすがりつこうとしているのです。なぜなら、それらの霊が神の民において十分な働きをなせていない恥辱を味わっているからなのです。そのために「私たちがあなたの名で呼ばれるようにして」、十分に神の民の上に働くようにしてくださいと願っているのです。きわめて擬人的表現ですが、その願いが主によって聞かれるとき、「さばきの霊と焼き尽くす霊」と「恵みと嘆願の霊」として「イスラエルの残りの者」に働くのです。しかも、それが起こるのは、「その日」(バッヨーム・ハフー:בַּיּוֹם הַהוּא)です。

3. メシア王国の栄光

●4章5~6節は、メシア王国の輝きを以下のように表しています。

【新改訳2017】イザヤ書4章5~6節
5 主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に覆いとなり、
6 その仮庵は昼に暑さを避ける陰となり、嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家となる。

●4節が「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い落とし、エルサレムの血をその町の中から洗い流す」のに対して、5節では「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝きを創造される」のです。まさに、その創造はさばきを通ってなされるのです。「主は・・・・創造される」の「創造される」は「バーラー」(בָּרָא)で、主体が「主」でなければ使われない動詞です(創1:1)。しかもその創造は再創造を意味します。また、「バーラー」(בָּרָא)のへブル文字は、三一の神の頭文字である、御子(ベーン: בֵּן)の「בּ」、御霊(ルーアッハ:רוּחַ)」の「ר」、御父(アーヴ:אָב)の「א」の三つで構成されています。

●主は、「シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝きを創造される」のですが、「昼には雲を、夜には煙と燃え立つ火の輝き」という表現には、出エジプトにおける「雲の柱、火の柱」(出13:21, 22, 14:19, 20等)を思い起こさせます。それは神の守りを表す表象ですが、それがメシア王国に至っては、「シオンの山のすべての場所とその会合の上」を覆う栄光の天蓋となります。つまり、「その日」、シオンは全地を代表する特別な場所となるのです。天蓋を意味する「覆い」は「フッパー」(חֻפָּה)で、ちなみにユダヤでは、「フッパー」という一枚の幕に四つの支柱をつけたものの下で結婚式がなされます。

●6節では「覆い」が「仮庵」(スッカー:סֻכָּה)に例えられます。「その仮庵は昼に暑さを避ける陰となり、嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家となる」とあります。仮庵は避け所(マフセ:מַחְסֶה)ですが、メシア王国では出エジプトの幕屋を想起させます。つまり、それはシオンが「隠れ家」となることです。すなわちメシア王国では主の栄光がシオン全体の上に天蓋となって覆い、シオンは神と人がともに住む全地の「隠れ家」(secret place)の拠点となるということです。イザヤはそんな幻を見せられたのです。私たちも、イザヤの見た幻を見続けることが重要です。なぜなら、「幻がなければ、民(=神の民である私たち)は好き勝手にふるまう」(箴言29:18)からです。

●「」(ハーゾーン:חָזוֹן)とは、神のご計画とみこころ、みむねと目的である「御国の福音」そのものであり、「」(オール:אוֹר)そのものなのです。神の選びによってそのことを信じられることこそが、幸いなのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.7.06
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