****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イスラエルに対する「神のラブ・コール」

13. イスラエルに対する「神のラブ・コール」

【聖書箇所】イザヤ書43章1~21節

ベレーシート

●今回の聖書箇所(43:4)は、主ご自身が「わたしはあなたを愛している」とイスラエルの民に語った有名な箇所です。英語で言うなら、I love you で、このように明白に語っている聖書箇所は他にはありません。この聖句だけが独り歩きして、イザヤ書を読んだことのない人にも知られています。しかしこのフレーズは「主の道に歩もうとせず、そのおしえに聞き従わなかった」(42:24)主の民イスラエルに対して、主が語っている一方的なラブ・コールです。いわば片思いの愛です。ひとたび選んだ民を、神は決して捨てません。イスラエルの方は神を忘れ、神から離れていくのですが、神は決して彼らを捨てることなく、やがてはその民を悔い改めに導き、神のもとに立ち返らせて、本来、彼らに与えていた「王なる祭司という務め」を果たさせるのです。そのようにして、神の民イスラエル(=イスラエルの残りの者)は「神のしもべとしての証人」となるのです。

●4節の「わたしはあなたを愛している」や19節の「見よ、わたしは新しいことを行う」といったことばを、私たちはいろいろなイベントやリバイバルを求める集会のキャッチフレーズとして用いたりしています。あるいは信仰生活における個人的な主の約束(預言)として用いたりします。しかしそのような解釈によって、聖書に記されている神のご計画に対する正しい理解が妨げられてしまっていることに気づいていません。かつて私もその一人でした。こうした聖書の解釈の背景には、置換神学と個人的信仰の強調があります。その中にいる時には、それらの弊害には気づきません。最も大きな弊害は、神のことばと言いつつも、自分たちのある目的を実現するための理想やスローガンへと変質させてしまったり、神の約束を文脈から切り離して、「自分(自分たち)のために」用いてしまったりすることです。それらは、神のご計画から目をそらし、神のことばを自分本位に(勝手に)利用してしまう、いわば偶像礼拝の罪に等しいのです。この罪はさまざまなキリスト教の集会やさまざまなムーブメント、教会行政、個人の神との歩みの中に浸透していますが、その誤りになかなか気づかずにいるのが現状です。このことは、旧約でしばしば記されているように「高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた」罪に等しいのです。私たちは悔い改めて、みことばを回復することを求めなければならないのです。

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1. 主の慰めと希望のことば(43章1節)

【新改訳2017】イザヤ書43章1節
だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

●「だが今」とは、前章とつながっていることを示しています。それは42章18~21節にあるイスラエルの姿です。主のしもべとして選ばれたにもかかわらず、その召しに応えていない主の悲しみが表されています。

【新改訳2017】イザヤ書42章18~21節
18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。
19 わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか。わたしと和解した者のような目の見えない者、主のしもべのような目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。
20 あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。」
21 主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。

●21節にあるように「主はご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた」にもかかわらず、イスラエルの民は「多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない」のです。イスラエルの歴史において、彼らは驚くべき神のみわざを見て来たにもかかわらず、目の見えない者や耳の聞こえない者と同様、それらに心を留めず、聞こうとしない。それゆえ、証人となることはできない者となってしまった。それゆえ、彼らは「かすめ奪われ略奪された民、彼らはみな穴の中に陥れられ、獄屋に閉じ込められた」のです。「閉じ込められた」と訳された「ファーハハ」(פָחַח)の受動強意形は、罪と無知のゆえに、自ら這い出ることの出来ない暗闇の中に閉じ込められたことを意味します。これはバビロン捕囚の比喩的表現です。さらに「だれがヤコブを、奪い取る者に渡したのか。イスラエルを、かすめ奪う者に。それは主ではないか。」(24節)とあります。この事実をイスラエルの民は信じようとはしなかったと思われます。それゆえ「主が彼らを閉じ込められた」という事実に注目させたのです。神以外にそこから解放する者はいないことを悟らせるためです。このことを念頭に入れながら、43章を読む必要があるのです。なぜなら、終わりの日の大患難にも同じことが起こるからです。

(1) 主の自己宣言

(1節) ・・主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだわたしはあなたの名を呼んだあなたは、わたしのもの

●43章の預言は、神の特選の民であるイスラエルに対して語られているのです。神である主はイスラエルを不信の罪のゆえに捕囚とされたにもかかわらず、そこからの解放を預言しています。「恐れるな」とは慰めにあふれたことばです。それは神がイスラエルを「創造した方」であり、「形造った方」であるからです。「創造した」(バーラー:בָּרָא)も「形造った」(ヤーツァル:יָצַר)も創世記1章と2章に登場する語彙です。「創造する」も「形造る」も、いずれも神による再創造、再形成を意味します。ですから、決して滅亡する民とはならないのです。

(2)「あなたは恐れるな」

●なにゆえに「恐れるな」(アル・ティラアハー:אַל־תִּרַאֲךָ)と言われるのかといえば、三つの事実があるからです。それは、
①「わたしがあなたを贖った」から。
②「わたしはあなたの名を呼んだ」から。
③「あなたはわたしのもの(所有)」だから。

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●「贖った」も「呼んだ」も預言的完了形です。ヘブル語では時間を超越して、必ずそうなることを完了形で表します。「贖った」とは代価を払って買い戻すことを意味します。「名を呼んだ」とは神の働きと目的のために特別に選り抜かれ、召されたことを意味します。その結果、必ず「わたしのもの(所有)となる」ことが定められているのです。それゆえ、以下のことが保証されているのです。 

【新改訳2017】イザヤ書43章2,5a節
2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにいる。
川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
5a 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。

●イスラエルの民はどんな危機に陥ったとしても、決して滅びることはない民なのです。なぜなら、主の御手(ヤード・アドナイ=יָד־יהוה=40)によって、しっかりと守られているからです。「水」や「火」にたとえられるさまざまな危機(出エジプトで海を渡って救い出されたことや、バビロン捕囚のネブカドネツァル王によって大きな炉の中に投げ込まれた時も焼かれることなく救い出されたことなど)、また最後の反キリスト率いる大軍勢による未曾有の大患難によっても、決して「押し流される」こともありません。なぜなら、「わたしがあなたとともにいる」との臨在が約束されているからです。「イスラエルの残りの者」は神の印が押されることで、完全に守られるのです(黙示録7:3~4)。

●「恐れるな」との呼びかけは、以下の箇所にも語られていました。

【新改訳2017】イザヤ書41章9~16節
9 わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。
10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
11 見よ(הֵן)。あなたに向かっていきり立つ者はみな恥を見て辱められ、あなたと争う者たちは無いもののようになって滅びる。
12 あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。
13 わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、
恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
15 見よ(הִנֵּה)。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする。
16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主にあって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。

●特に15~16節の「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする」とは、終わりの日に数えきえない大収穫をすることが語られています。つまり、イスラエルの残りの者が数えきれない大勢の異邦人を刈り取ることを意味しているのです。ですから、ここでの「あなた」を自分のことだとして置換神学で読むなら、幻想に終わってしまうだけでなく、神のご計画があることを知らずに信仰生活を送ることになるのです。ここには、「見よ」(הִנֵּה)とあるように、終わりの日に起こされる「イスラエルの残りの者」に対しての約束が語られているのです。イスラエルの残りの者について正しく知るならば、エックレーシアは彼らに接ぎ木されることになるので、「恐れない」者となるばかりか、彼らの登場を待ち望むようになるのです。

(3)「わたしがあなたを贖った」

【新改訳2017】イザヤ書43章3~6節
3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
5bわたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。
6 北に向かっては『引き渡せ』と言い、南に向かっては『引き止めるな』と言う。わたしの息子たちを遠くから来させ、娘たちを地の果てから来させよ。

●「贖う」(ガーアル:גָּאַל)は、イスラエルの救いの歴史において重要な役割を果たす語彙です。親族の中の誰かが死んだとき、その人に主から割り当てられた土地や家族が人手に渡らないように、親族の中で最も近い身内の者がそれを買い取るという義務が律法によって定められていました。すでに人の手に渡った場合、「買い戻す」ことになります。この権利を有する者を「ゴーエール」(גֹּאֵל)と言います。神はバビロンの手に渡ったご自身の民を買い戻すために、異邦の国を代表するエジプト、クシュ(エチオピア)、セバ(エチオピアの北部)という国を、イスラエルを「買い戻す」ための代金(身代金)として、バビロンを倒すペルシアに対して支払うということだと思われます(事実、ペルシアはB.C.525年にエジプトを征服しています)。それほどまでに、イスラエルは神に愛されているということなのです。それが「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という表現になっているのです。

●イザヤ41章14節にも「あなたを贖う者」という表現があり、44章22節には「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ」と感動的に語っています。「消し去った」(マーハー:מָחָה)も「贖った」(ガーアル:גָּאַל)も、いずれも預言的完了形です。つまり、必ず「消し去る」(=抹消する)、必ず「贖う」ことになるという意味です。これは終わりの日にイスラエルの残りの者の「背きを消し去る」ことで、彼らが主に立ち返ることができ、獣と呼ばれる反キリストの支配から贖われる(=救い出される)ということも重層的に語られています。

●主が「贖う」ことによって、離散していた神の民たちは東から、西から、北から、南から、つまり全世界から集められることが預言されています。今日、世界各地に離散している神の民の帰還は、神のわざの神秘に属することなのです。すでに1948年に建国されたイスラエル共和国に、ユダヤ人が一千万人ほど帰還しています。そして今日も継続中であり、それはすでにキリストによる十字架の贖いがなされているからですが、彼らはいまだそれに気づいていない「盲目の民」なのです。しかし、彼らがいまだそれを信じていなくても、神は地のあらゆるところからご自身の民を集め、故国に帰還させているのです。こうしてやがて「イスラエルの残りの者」が立ち上がります。それほどに、神が彼らを選んだ真実は、私たちの思いや考えを超越した事柄だということなのです。

(4)「あなたがたは、わたしの証人」

【新改訳2017】イザヤ書43章7~11節
7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、
わたしがこれを創造した(בָּרָא)。これを形造り(יָצָר)、また、これを造った(עָשָׂה)。
8 目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。
9 すべての国々をともに集わせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、初めのことを聞かせることができるだろうか。彼らが自分たちの証人を出して証言し、人々がそれを聞いて、『本当だ(エメット:אֱמֶת)』と言うようにせよ。
10 あなたがたはわたしの証人、──主のことば──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。
11 わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。

●7節の「わたしの名で呼ばれるすべての者」とは、この箇所では表記されていませんが、やがて明らかにされる「イスラエルの残りの者」のことです。それは「わたしの栄光のために」、つまりだれの目にも見える形で現されるのです。彼らについて「わたしがこれを創造し(בָּרָא)、これを形造り(יָצָר)、これを造った(עָשָׂה)」と預言的完了形で語っています。この三つの動詞は、イスラエルの残りの者の贖いが全く新しい「再創造」であることを強調しているのです。

●8~9節では、しばしばイザヤ書に登場する「神の法廷」の場面が想定されています。そこにイスラエルの民を「連れ出せ」、諸国の民も「集わせ」「集めよ」と語っています。その目的は何かと言えば、預言されたことが果たして成就しているかどうかを証言させて、人々がそれを聞いて「本当だ」と言うようにせよ。おそらく何一つできないはずだ、という含みで語られています。ところがイスラエルの民は違う。彼らは神ご自身の栄光のために選び出された神の所有の民であり、彼らが選ばれた目的は主のすばらしさを証しする証人とするためです。すなわち「わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない」ことを証しするために、イスラエルの残りの者を「創造し(בָּרָא)、形造り(יָצָר)、造った(עָשָׂה)」と語っているのです。

●その後の14~15節は、バビロンの破壊とイスラエルの解放が簡潔に語られています。

【新改訳2017】イザヤ書43章14~15節
14 あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデア人を彼らの喜びの船で。
15 わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

●この箇所は13節の「これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか」というフレーズを具体的に、しかも簡潔に語っている箇所です。「あなたがたのために」とはイスラエルの民のことです。「バビロンに使いを送る」とはペルシアの王キュロスとその軍勢のことです。これから起こることですが、「送る(=わたしは遣わす)」と訳された「シャーラハ」(שָׁלַח)は預言的完了形です。それは必ず実現することを示唆しています。それによって、「彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデア人を彼らの喜びの船で」とは不思議な表現ですが、バビロンはユーフラテス川に位置しており、川を利用してペルシア湾を行き来していました。そのバビロンをペルシアが占領し、小舟で逃亡する者をその舟から突き落として滅亡させたことを意味しています。そのようにして、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民を解放することが預言されているのです。このバビロンの崩壊は「あなたがたのため」とあります。つまりイスラエルのために、神が歴史の中に介入されたということなのです。まさに神の歴史はイスラエルを基軸にして展開しているのです。これが「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(15節)と宣言する所以なのです。

●その神がイスラエルのために「新しいことを行う」(オーセ・ハダーシャー:עֹשֶׂה הַדָשָׁה)としています。結論として彼ら(イスラエルの残りの者)の出現は、全被造物に対しても大きな影響をもたらします。そのことが16~21節に預言されています。

2.「見よ、わたしは新しいことを行う」

【新改訳2017】イザヤ書43章16~21節
16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
17 戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。
18 先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。
19 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている
あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
21 わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。

●16~17節の「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を引き出した」とは、出エジプトでなされたことが述べられています。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる」とあるように、エジプトの軍勢は完全に紅海で滅亡しました。出エジプトは確かに大いなる神のみわざでした。また、バビロンからの解放も同様に大いなる神のみわざです。しかしイザヤはこれらを「先(=過去)のこと」として、また「昔のこと」として、「心を留めるな。目を留めるな。」と釘を刺しています。「今、それが芽生えている(ツァーマハ:צָמַח)」とは初臨のメシアを示唆していますが、「荒野に道を、荒れ地に川を設ける」ことは、王なるメシアの再臨を示唆しています。なぜなら、イェシュアの初臨では後者が実現されることはないからです。これが実現するのはメシアが王として再臨する時です。

●19節の「見よ」は「ヒンネー:הִנֵּה」ではなく、原文は「見よ、わたしは」(ヒンニー:הִנְנִי)となっています。「新しいことを行う」の「行う」が動詞ではなく、分詞であるため、主体を明確にするために「ヒン二―」となっています(用例としては、創世記6:13,17/9:9,41:17など)。神である方と、これから起こることに注目せよという意味になります。それは以前になされたことをはるかに凌駕する出来事です。「今、それが芽生えている」としています。すでに始まっているのですが、いまだ完成はしていないのです。

●19節の前半は「見よ。わたしは新しいことを行う者である」という自己宣言になっています。そして「新しいこと」とは、そのあとに記されている事柄で「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」ということです。「荒野」には道がないので荒野と言われます。「荒れ地」には川がないので砂漠と言われます。ところが「荒野に道を設け」、「荒れ地(砂漠)に川を流す」ということはまさに常識では考えられない「新しいこと」なのです。「荒野」(ミドゥバール:מִדבָּר)に設けられる「道」(デレフ:דֶּרֶךְ)は単数ですが、「荒れ地」(イェシーモール:יְשִׁימוֹר)に設けられる「川」(ナーハール:נָהָר)は複数です。

●20節には「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」とあります。このようなことはキュロスによるバビロン捕囚からの解放の時にはなかったことです。しかしメシアの再臨ではそれが現実となります。なぜなら自然が変容するからです。「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」その理由を、原文では接続詞の「キー」(כִּי)を用いて表現しています。その理由とは「わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ」とあります。その目的は「わたしの栄誉を宣べ伝える」ためです(21節)が、「わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませる」ことと、「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」こととはどうつながるのでしょうか。

●ローマ書8章19節には、「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」とあります。地は罪のゆえにのろわれています。世の終わりの時には、多くの被造物も破滅します。しかし、キリストが再臨することで神の子どもたち、特に「イスラエルの残りの者」が贖われると、被造物全体も贖われるのです。ですから、「荒野に道を、荒れ地に川を設ける」こと、「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」ことが起こるのは決して不自然なことではありません。神の「新しいこと」とは、神の民にいのちの水が与えられるなら、被造物もそのいのちの水に与るのです。神の贖いの働きによって、全世界に大変革が起こるのです。のろわれた地がいのちの地となるからです。

ベアハリート

●神が「わたしは新しいことを行う」で強調しているのは、まさに「水」(マイム:מַיִם)です。御国において、「水」は神の「いのち」「真理」「喜び」「神の霊」とも関係するきわめて重要な語彙です。しかも興味深いことに、創世記2章の「エデンの園」の「エーデン」(עֵדֶן)のヘブル語が「豊かな水のあるところ」を意味します。イザヤ書の中に記される明確なメシア王国にも決まって「水」が登場します。ちなみに「水」(マイム:מַיִם)の語は旧約では584回使われていますが、その中で最も多く使われているのがイザヤ書の58回なのです。次いで創世記の54回、そして詩篇の53回の順です。

●メシア王国、そこには決まって「水」に関する語彙が登場しています。「水」(マイム:מַיִם)、「川」(ネハーロート:נְהָרוֹת)、「泉」(マヤーノート:מַעְיָנוֹת)、「流れ」(イヴレー・マイム:יִבְלֵי־מַיִם)、それらはみな複数形で表される名詞であり、「水の豊かさ」を表しています。なぜなら、水こそすべての生き物を(人も動物も植物も)生かす「いのちの源」だからです。また「水」は神のことば、あるいは、いのちを与える霊の象徴です。やがて訪れるメシア王国(千年王国)では「渇き」がありません。なぜなら、生ける「水」と「その流れ」の豊かさに与るからです。さらに、次元を超えた新しい天と新しい地における「聖なる都」「新しいエルサレム」では、神と子羊との御座から流れ出る「水晶のように輝く、いのちの水の川」があるのです(黙示録22:1)。その「いのちの水の川」とは御霊ご自身とも言えます。すでに霊によって生きることが始まっていますが、メシア王国では全ての被造物がその水に与り、いのちを得るのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.10.26
a:96 t:3 y:1

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