****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イスラエルを背負われる神

16. イスラエルを背負われる神

【聖書箇所】イザヤ書46章1~13節

ベレーシート

●イザヤ書46章は、44~45章で語られたテーマが総合されています。
44章では、神がイスラエルを「エシュルン」という愛称で呼び、特別な存在であることを強調します。エシュルンとは「真っ直ぐな者」を意味し、決してそうではない者がやがてはそうなるという、神の約束に基づく預言的な呼称なのです。そのエシュルンに神が水と霊を注ぐことで、その祝福は「イスラエルの残りの者」が受けることが示されました。神の霊が注がれることで、イスラエルの民は新たに生まれ変わることができるのです。それゆえ偶像を造ることは無意味であり、偶像に頼ることは空しいと警告されています。

45章では、神が「ご自分を隠す神」(15節)として描かれ、神の計画がどのように実現するかが隠されているということが示されています。神はイスラエルの民に対して、彼らの理解を超えた方法で働くことがあると強調されています。歴史の中に実際に登場するキュロスの実名を、何と140~150年程前に、神からの啓示によってイザヤが預言しています。それは神がキュロスをご自身のしもべとして名指しで呼び出されたのです。キュロスの務めの内容は以下の三つです。第一は「バビロンを終わらせること」、第二は「捕囚の民を解放して故国に帰還させること」、そして第三は「神殿を再建させること」です。これらは同時に「終わりの時」になされることの型です。キュロスは神の計画を実行するために選ばれた異邦の王ですが、その存在は神の主権がいかなるものかを啓示するものとなっているのです。

●44章、45章で語られたことを通して、心の頑ななイスラエルの民に対して、再度、訴えがなされているのが46章です。ここでは神が、昔も今も、そしてこれからもイスラエルを背負われるお方であることを見たいと思います。

1.背負われる神と背負う神

【新改訳2017】イザヤ書46章1~7節
1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。
2 彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。
3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
6 袋から金を惜しげなく出し、銀を天秤で量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む。
7 彼らはこれを肩に担いで運び、それがあったところに安置すると、それはそこに立ったままである。これはその場所から動かない。これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない。

(1)「ベル」と「ネボ」

●1節の「ベル」(בֵּל)と「ネボ」(נְבוֹ)は、バビロンの偶像の神で、親と息子の関係です。「ベル」はバビロンの主神マルドゥクのヘブル名です。マルドゥクはバビロンの崩壊と運命を共にした神であり、ダニエルたちが礼拝するのを拒んだ神です。「ベル」(בֵּל)はヘブル語の「バアル」(בַּעַל)に対応する語彙です。バビロンは強大な帝国を築き、自分たちの神々こそ他の国の神々に勝っているという自負を持っていました。ところがそのバビロンがペルシアの王キュロスによって滅ぼされます。そのときそれまで拝んできた神々を家畜の背に載せて他の所に逃げるのですが、「ベル」と「ネボ」は彼らの足手まといとなってしまいます。2節には、偶像が彼らの重荷となってしまうことが描かれています。

1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって(アーマス:עָמַסの受動分詞)運ばれる。
2 彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。

●そもそも偶像は金属、木、石で造られているため、かなりの重さがあったはずです。ましてや「ベル」や「ネボ」はバビロンの最高神ですから、かなり重い像であったと推察します。バビロンの敗北は偶像の敗北を意味します。にもかかわらず、それらを荷車で運び去らなければならないとしたら、それは大変な重荷となったはずです。国家が隆盛であった時には、人々はその偶像に平伏していました。しかし、もはやそれが何の助けにもならなくなったのです。このように偶像に頼ることは「恥を見る」(=源泉が涸れる/בּוֹשׁ)ことになるのです。そこで、神が語られます。続く3~4節は預言です。

(2) 「担がれ」と「背負う」と「運ぶ」

3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ(כָל־שְׁאֵרִית בֵּית יִשְׂרָאֵל)。胎内にいたときから担がれ(アーマス:עָמַס)、生まれる前から運ばれた(ナーサー:נָשָׂא)者よ。
4 あなたがたが年をとっても、わたし(אֲנִי)は同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたし(אֲנִי)は背負う(サーヴァル:סָבַל)。わたし(אֲנִי)はそうしてきたのだ。わたし(אֲנִי)は運ぶ(ナーサー:נָשָׂא)。わたし(אֲנִי)は背負って(サーヴァル:סָבַל)救い出す。

●3節で、ヤコブの家とイスラエルの家の「すべての残りの者」(ホル・シェエーリート: כָל־שְׁאֵרִית)とあります。それはイスラエル12部族のすべてであり、「全イスラエル」である「イスラエルの残りの者」を預言しています。イザヤの時代は、すでに北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、南ユダもバビロンによって滅びて捕囚されることがすでに決まっていました。ところが、ここではイスラエル12部族からなる「イスラエルの残りの者」が預言されているのです。いまだ歴史上には立ち上がって来ていない「イスラエルの残りの者」が、その存在の初めから終わりまで、ずっと神によって「担がれ」「背負われ」「運ばれて」いるのです。

画像の説明

●3節の「ヴェテン」(בֶטֶן)と「ラーハム」(רָחַם)は同義語で子宮(胎)を表します。同義語を重ねて使うことで意味を強調する修辞法です。「イスラエルの残りの者」は神にあってはすでに存在しているのですが、いまだ目に見える形では現れていない存在です。しかし彼らが初めから神の保護の元にあることを啓示しています。

●46章の重要な鍵語は、神がイスラエルの残りの者を「担ぐ」(アーマス: עָמַס)、「背負う」(サーヴァル: סָבַל)、「運ぶ」(ナーサー:נָשָׂא)という、三つの語彙です。イスラエルの残りの者に限定すると、

①「担ぐ」の「アーマス」(עָמַס)は3節の1回
②「背負う」の「サーヴァル」(סָבַל)は4節に2回
③「運ぶ」の「ナーサー」(נָשָׂא)は、3節と4節の2回

これら①②③はみな同義語と言えます。神によって担がれ背負われ運ばれている存在、それが「イスラエルの残りの者」であり、「全イスラエル」(新共同訳:ローマ11:26)なのです。その「イスラエルの残りの者」に向かって、「わたしに聞け」(シムウー・エーライ:שִׁמְעוּ אֵלַי)と語っているのです。

●4節にも、神の圧倒的な熱愛が啓示されています。それは、「わたしは」を意味する「アニーאֲנִי」が何と5回も使われているからです。さらに、それと関連する5つの動詞にも、それぞれ神を表わす「わたし」の人称が含まれています。ですから、4節のことばには5回の「わたし」が二重となっているのです。日本初の女性首相となった高市早苗氏が語ったことばも、「働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります」でした。「働いて」が5回、これが、2025年の新語大賞に選ばれたようです。―(本人は知らないとは思いますが)―実はこれ、聖書の「わたし、わたし、わたし、わたし、わたしは」をパクったものとなっているのです。
以下の①~⑤は、すべてトーヴな神の恩寵動詞です。黄色の部分は動詞に含まれる「わたし」の人称です。これは「わたし」こそ無比無類の存在、唯一のまことの神であることを強調するために他なりません。

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●人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。しかし神は、イスラエルの民に対して「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う(סָבַל)。わたしはそうしてきたのだ(עָשָׂה)。わたしは運ぶ(נָשָׂא)。わたしは背負って(סָבַל)、わたしは救い出す。」(4節)と約束しています。ここで、説教題にある「背負う」と訳された「サーヴァル」(סָבַל)を取り上げ、その初出箇所を見ておきましょう。

【新改訳2017】創世記 49章14~15節
14 イッサカルは、たくましいろば、二つの鞍袋の間に身を伏せる。
15 彼は、休息の地が快く、その地が麗しいのを見る。しかし、肩は重荷を負って(סָבַלの不定詞)たわみ、苦役を強いられる奴隷となる。

●ここはヤコブの息子たちに対する「終わりに起こる預言」として語られた箇所ですが、その中にイッサカルに対する預言があります。イッサカルが「イェシュアを証ししている」として解釈するならば、以下のことが見えてきます。イッサカル(メシアの型)の象徴は「たくましいろば」(ハモール:חֲמֹר)です。「たくましいろば」は重い荷物を運んだり、野を耕したり、力と労働力を象徴する動物ですが、ここで語られているのは、やがて与えられる休息と約束の地の麗しさを楽しみに待ちつつ、報いを得るために、自ら重荷を負うことを心に定めて、奴隷(しもべ)として従うメシア・イェシュアです。神はそのしもべによって「イスラエルの残りの者」をどのようにして「背負う」(סָבַל)のでしょうか。それは以下によってです。

①【新改訳2017】イザヤ書53章4節
まことに、は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

②【新改訳2017】イザヤ書53章11節
彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う

●4節の「負う」は「ナーサー」(נָשָׂא)で、「担った」は「サーヴァル」(סָבַל)です。いずれも預言的完了形です。この預言は「」と訳された「受難のしもべ」であるイェシュアによって、すでに初臨のときに成就されました。11節の咎を「負う」は「ナーサー」(נָשָׂא)ではなく、「サーヴァル」(סָבַל)です。しかしこちらは未完了形です。つまり彼らの「咎」(アーヴォーン:עָוֹן)は、メシアの地上再臨の直前まで、つまり彼ら「イスラエルの残りの者」が主に立ち返る時まで、イェシュアは彼らの不義や咎を「負い(=担い)続ける」ことを意味しています。「終わりの日」という未曾有の大患難の中で、彼らがイェシュア・メシアによって注がれる「恵みと嘆願の霊」によって真の「悔い改め」へと導かれ、彼らは本来の「王なる祭司」の務めを果たすことによって大勢の数えきれない異邦人を救いに導くようになるのです。そればかりか、主の豊かな霊を救いの泉から継続的に汲み上げることで、永遠の喜びと感謝がもたらされるようになるのです。これはひとえに神が彼らを「背負って」くださるからです。ですから、主はイスラエルの歴史に働かれた神を思い起こすように命じているのです。

2. 神のご計画は必ず成就するということ

【新改訳2017】イザヤ書46章5~9節
5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。
6 袋から金を惜しげなく出し、銀を天秤で量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む。
7 彼らはこれを肩に担いで運び、それがあったところに安置すると、それはそこに立ったままである。これはその場所から動かない。これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない。
8 このことを思い出し勇み立て。背く者たちよ、心に思い返せ
9 遠い大昔のことを思い出せわたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。

●5~9節で重要な語彙は「思い出せ」「思い返せ」ということばです。「思い出せ」は「ザーハル」(זָּכַר)の命令形、「思い返せ」は「シューヴ」(שׁוּב)の命令形です。「勇み立て」も「男らしさを示せ」を意味する「アーシャス」(אשַׁשׂ)の命令形です。その命令形が指し示していることは「わたしが神」であるということです。つまり「わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」という宣言なのです。この宣言を当然だと思わずに、霊で味わいたいと思います。

画像の説明

●偶像の空しさは「動かず、答えず、救わない」で表されています。このようなものに「・・金を惜しげなく出し、・・それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む」とあります。偶像とは目に見えるものだけでなく、人間の欲望を満たしてくれると信じるありとあらゆるものを指します。そのためにお金を「惜しげもなく出し」自分のために使うのです。人が何にお金を最も使っているかを見ればおのずと分かります。しかしそのお金を使っている本人自身が見えざる偶像であることに気づいてはいません。偶像とは無限に自己を肯定してくれる存在です。それは自分自身なのです。その偶像は危機が来ても「動かず、答えず、救わない」神です。それに比べて、イスラエルの残りの者を胎内にいたときから担ぎ(アーマス:עָמַס)、生まれる前から運んで(ナーサー:נָשָׂא)おられる神は、あふれるばかりの恵み(ヘーン:חֵן)を「惜しげなく」与えることが出来るお方なのです。使徒パウロはこう言っています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 8章32節
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されたが、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

●これは反語です。「神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」とは、「神が恵んでくださらないということは断じてない、決してない」ということを強調しています。むしろ神は、惜しむことなく与えてくださいます。人が神になにかを願って求めることに対して、神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとするのです。この愛は「ヘーフェツの愛」です。そもそも天の父は、その子どもたちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。人が自分の欲望や私利私欲のために求めることに対してではなく、神のみこころにかなって願い、求めることに対しては、神は黙っておられない方なのです。与えることを何よりも喜びとされる神、この神の惜しみなく与えようとする愛が「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)です。このような愛が神から人に向けられるとき、その人の願いと関心と愛着のすべてが神に向けられることになります。それは詩篇1篇の「その人」のように、「幸いなのは、主のおしえを喜びとし(ヘーフェツ:חֵפֶץ)、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことの出来る人です。それは第一に御子イェシュアであり、やがて立ち上がるイスラエルの残りの者の姿です。また、彼らに接ぎ木される私たちエックレーシアの完成した姿でもあります。そのような人を造り出すことが、イザヤ書46章10節にある「わたしの望むこと」だと解釈します。

【新改訳2017】イザヤ書46章10節
わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、
『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。

画像の説明

●10節をよく見てください。この節は同義的パラレリズムです。ということは、「わたしの計画」と「わたしの望むこと」が同義だということです。つまり「神の望むこと」が、神の喜びを表す「へーフェツ(חֵפֶץ)の愛」だということです。主の望むことのすべては、人の願いと関心と愛着のすべてが神に向けられることなのです
わたしの望むこと」(ヘフツィー:חֶפְצִי)、それが「わたしの計画」(アツァーティー:עֲצָתִיעֵצָה)だと言えるのです。そのことは「まだなされていないこと」です。しかし、それを神は「初めから」(メーレーシート:מֵרֵאשִׁית)そうなることを告げているのです。そしてそれは必ず「後のこと(終わりのこと)」(アハリート:אַחֲרִית)として成就するとしています。

●この10節は、8節の「思い出せ」(ズィフルー: זִכְרוּ)、「思い返せ」(ハーシーヴー: הָשִׁיבוּ)の命令の根拠として示されています。前者の「ズィフルー」は9節でも繰り返され、「遠い大昔のことを思い出せ」と命じています。「遠い大昔のこと」とはイスラエルの歴史における初期の出来事で、創世記の人の創造、神の民の開始の出来事、ならびに出エジプトからの脱出、紅海徒渉、荒野での水やマナの供給、ヨルダン徒河、カナンへの侵入と占領等、イスラエルが経験した出来事です。そこに働かれた神のみわざを思い出して、そこに隠されている「終わりのこと」を見出すことを求めています。なぜなら過去の出来事の多くは預言だからです。とするなら、私たちは聖書をさらに詳しく調べ直さなければなりません。注意深く読み直さなければなりません。そうして神のご計画の全貌を悟らなければならないのです。この危機感が今日のキリスト教会に欠落しているように思われます。聖書の解釈は、まずは「聖書(旧約)は、わたしについて証ししている」(ヨハネ5:39)と言ったイェシュアのことばと、このイザヤ書46章10節の二つが、最も重要であり、そして基本です。

●使徒パウロはエペソの教会を手塩にかけて建て上げる三年半の中で、多くの人々に自分の身において起こった神の恵みの福音をいつも証ししていました。と同時に、神のご計画の全体を余すところなく教えていたのです(使徒20:27)。「余すところなく」とは「怯むことなく」という意味です。「怯むことなく語ります」と言っていた方がヘブル語を使って最初の言及から解釈していたところ、その教会の主任牧師から、コンテキストを無視してそんな解釈をしてもらったら困ると一言言われただけで、教会での働きを続けていきたいのでその牧師の言うことに聞き従い、ACの学びもやめたいと言って来られたケースがありました。何度も「怯むことなく語ります」と言っていただけに、本当に残念です。今回のイザヤ書46章8節で「このことを思い出し、勇み立て。背く者たちよ、心に思い返せ。」にある「勇み立て」のことば、つまり「男らしさを示せ」の意味が分かるような気がしました。わずかな反対でやめてしまう人が多いのです。今回の場合、その人は女性で、権威ある者の下で仕える立場からすると強く出られなかったのでしょうね。同情しますが、残念です。

●神の語られたご計画は必ず成就するという視点から、それがどんな内容なのかを私たちはありのままに知る必要があります。聖書から、自分のために、あるいは自分の興味や関心のあるみことばだけを拾うようにして読むのは自己中心的な読み方です。そうではなく、神ご自身が関心をもっておられることに、関心を持つべきです。そのためには神のご計画の全貌を把握できるような読み方が求められます。今日のキリスト教会において、これは早急の課題であると信じますが、この取り組みは決して容易ではありません。なぜなら、神ご自身のみこころを熱心に尋ね求める者にのみ、神はその全貌を示して下さるからです。イェシュアは「求めなさい(原語は「求め続けなさい」)。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と語り、「神の国とその義とをまず第一に求め続けなさい。」(同6:33)と命じています。この取り組みには多くの集中した時間と瞑想が求められます。的外れなことをしている暇がないほどに、緊急性のある今日的課題です。みことばを回復するこの課題にチャレンジすることがなければ、教会がどんなに多く活動していたとしても、確実にいのちを失い、衰退する運命にあると言えます。

3. 「エーツァー」(עֵצָה)の奥義

●最後に、「ご計画」と訳された語彙「エーツァー」(עֵצָה)を考えます。この語彙は90回使われています。訳は非常に多いです。「計画、はかりごと、助言、勧め、思慮、協議、計略、意見、提案、考え、進言、勧告、決定、陰謀、企み、企て、教え、摂理、経綸」などです。

①【新改訳2017】詩篇33篇11節
10 主は 国々のはかりごと(עֵצָה)を破り もろもろの民の計画(מַחֲשָׁבָה)をくじかれる。
11 主のはかられること(עֵצָה)は とこしえに立ち みこころ(מַחֲשָׁבָה)の計画(עֵצָה)は 代々に続く。

②【新改訳2017】箴言 19章21節
人の心には多くの思い(מַחֲשָׁבָה)がある。しかし、主の計画(עֵצָה)こそが実現する。

●ここで分かることは、「はかりごと、計画」(עֵצָה)と「みこころ」(マハシャーヴァー:מַחֲשָׁבָה)が同義であるということです。「マハシャーヴァー」(מַחֲשָׁבָה)は50回の使用頻度ですが、調べていくなら、「エーツァー」と同様の訳語を発見できます。大切なことは、みこころも計画も決して変わることがなく、それは「とこしえに立ち、代々に続く」ことが分かります。人のはかりごとや計画はくじかれる運命にあります。ですから、主は「頑なな者たち」に呼びかけます。

【新改訳2017】イザヤ書46章12~13節
12 わたしに聞け頑なな者たちよ。正義から遠く離れている者たちよ。
13 わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。」

●主のご計画(עֵצָה/ מַחֲשָׁבָה)を知ることは、良いことしかありません。それは、私たちが「王なる祭司」として生きる上で実に多くの助言や勧告が得られるということです。ですから、それを切に求めて行くべきです。神である主は、神のご計画を知る「王なる祭司」を「御国の学者」(マタイ13:52)としてくださると約束しています。

ベアハリート

【新改訳2017】マタイの福音書 13章52 節
そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

●旧約で「学者」と言えば、モーセの律法に精通している者のことを言います。しかしなぜイェシュアの弟子たちがみな「学者」と呼ばれるのでしょうか。それは「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のよう」だからです。それゆえ天の御国の弟子たちはみな御国についての学者なのです。「学者」というのは実に多くの知識の引き出しを持っていて、引き出しから知識を自由に引き出しては結び合わせ、適材適所で用いることができる人です。神のご計画の全貌と深くかかわる「御国の福音」は、まさにそのようにして語られるのです。その意味では、イェシュアは御国の最も偉大な学者と言えます。使徒パウロも、啓示によって「御国の福音」を人々に語り伝えました。しかもパウロは神のご計画の全体を余すところなく(=怯むことなく)語ることができたばかりか、それを書記のように文字にしてくれた人でした。彼はそのようにして花嫁なる教会を建て上げ、育てたのです。世の終わりの時代、主の花嫁なる教会は、「天の御国の弟子となった学者」として整えられていく必要があります。そのためには聖霊の導きによって、献身の思いを新たにし、いよいよ「霊の中に生きる」必要があるのではないでしょうか。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.12.07
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