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エゼキエルの召命 (1)

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3. エゼキエルの召命 (1)

【聖書箇所】 2章1節~3章3節

ベレーシート

  • 1章でエゼキエルは圧倒的な主の栄光の幻を見ました。サファィヤの王座の栄光の中で主の御声を聞いたのです。それがイスラエルの民から神の栄光が去ることについてです(1:28, 3:12, 23,  8:4 9:3, 10:4, 18, 19, 11:22~23)。
  • 以下は、エゼキエルへの召命の言葉です。

【新改訳2017】エゼキエル書2章3~7節
3 その方は私に言われた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。
4 彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『【神】である主はこう言われる』と言え。
5 反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知らなければならない。
6 人の子よ。あなたは彼らや彼らのことばを恐れるな。あざみと茨があなたと一緒にあり、サソリの間に住んでも、恐れるな。そのことばを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。
7 彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。

反逆の家神に反抗するイスラエルの民を、「あざみ」「サソリ」にたとえています。
※エゼキエルは「ユダの家」よりも「イスラエルの家」が圧倒的に多く使われています。その比は15対169です。


画像の説明

1. エゼキエルの召命の特異性

  • エゼキエルの召命は、反逆の民に主の言葉を語る前に、自分の前に置かれた「巻き物」を食べること。そしてそれで腹を満たしてから、「反逆の民」のところに行って告げるというものです。特に、エゼキエルの場合の特異性は「巻物を食べ、それで腹を満たせ」ということです。これは他の預言者の召命にはない特異な点です。
  • 同じ預言者でも、イザヤやエレミヤの場合は、主が彼らの口に触れて語るべきことばを与えましたが、エゼキエルの場合には、彼の口に巻物を食べさせることでした。どのように違うのでしょうか。「巻物」とはトーラーのことです。昔は羊皮紙に神のことばを書き記しました。ですから、それは巻物として保存されたのです。エゼキエルはすでに捕囚となった人々―「反逆の家」-に対して、神のことばを語り、そして神の民を再度、神のトーラーによって神の民として回復させるために立たせられた預言者でした。捕囚は神に反逆した罪の結果ですが、神はその捕囚を神の民として回復させるための新しい整えの時とされたのです。ですから、エレミヤはすでに第一回の捕囚(B.C.597)でバビロンに連行された人々に宛てた手紙の中で次のように語っています。

【新改訳2017】エレミヤ書29章4~7節
4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』

※新改訳改定第三版では、「平安」を「繁栄」と訳していました。

  • なぜ、イスラエルの民がバビロンの平和のために祈るのか。それは彼らが神の民としてリセットされるための十分な時間が必要だったからです。国の安定がなければ、落ち着いて、静まって、神のトーラーを学ぶことができないためです。ここには神のすばらしい計らい(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)があります。
  • 預言者として立てられたエゼキエルが神のトーラーを「食べる」こと、すなわち、それは神のトーラーを自分のものとして吸収し、十分に理解し、それを生活化することです。それはこれからバビロンにおいて、神の民が二世代・三世代をかけて回復していくためにどうしても必要なプロセスでした。その意味ではエゼキエルは象徴的存在であったと言えます。その後で、神の栄光がイスラエルに戻るのです(43章4, 5節、44章4節)。

2. 蜜のように甘い神のトーラー

【新改訳2017】エゼキエル書3章2~3節
2 私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、
3 そして言われた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。」私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。

  • 神のトーラーが「蜜のように甘い」という表現はどういうことでしょう。エゼキエルは今日の言葉でいうならば、「みことばのグルメ」的存在と言えるかもしれません。「グルメ」とは食通であり、人並みはずれて美食をどこまでも追求する人のことを言いますが、詩篇の作者の場合も、どこまでもみことばのすばらしさを追求する人と言えます。誰でも「グルメ」にはなれないように、神のトーラーを「甘い」「美味しい」と感じるにはそれなりの特別な能力と訓練が必要です。
  • 今はグルメ流行です。彼らの存在によってどこにどんな美味しい店があるか、どんな料理があるかが、いろいろな情報誌を通して知ることができます。彼らは単に味わう舌が肥えているだけでなく、食に関するありとあらゆる知識を持っています。そしてグルメ道を究めるために、彼らは毎日そのことについて学び、実際に食しながら多くの経験を積んでいるとも言われます。
  • グルメたちの情報によって多くの人たちが美味しい料理を味わうことができるように、「みことばのグルメ」たちによって多くの人たちがみことばのすばらしいさを味わうことができるはずです。そのような「みことばのグルメ」たちの存在は、神のみことばを通して、私たちを楽しませるスイートな世界があることを指し示してくれる水先案内人です。私もそんなひとりになりたいと願いながら、日々、みことばを学び、瞑想を続けていますが、それは働き以上に難しいものです。静まって神のことばを味わうことよりも、神のために何らかの働きをする方がむしろ容易で、しかも楽しいのです。しかしそれは人々を神のみことばに根づかせることにはならないのです。

2013.4.27


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