エフライムは主の激しい怒りを引き起こした(改)
12. エフライムは主の激しい怒りを引き起こした(改)
【聖書箇所】ホセア書 12章1~14節
ベレーシート
- 以下のように、12章1節と最後の節を結び合わせると流れが明確です。なぜ「エフライムは主の激しい怒りを引き起こした」のか(14節)。その理由が1節に記されています。
【新改訳改訂第3版】ホセア書12章1節、14節
1 エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている。14 エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。主は、その血の報いを彼に下し、彼のそしりに仕返しをする。
- ところが、その間にある2~4節と12節にはヤコブ(=イスラエル)について言及されています。つまり、北イスラエルがヤコブと重ね合わせられているのです。ヤコブのどの部分が重ね合わせられているのでしょうか。
1. ヤコブの神への立ち返り
【新改訳改訂第3版】ホセア書12章3~4節
3 彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。
4 彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた。
- ヤコブの立ち返りの出来事についてはかなり省略されています。「彼は御使いと格闘して勝った」とありますが、実は負けたのです。そもそも、なぜ御使い(創世記では「ある人」となっています)がやってきたのかと言えば、兄エサウと会うことで「恐れ」の中にあったヤコブを助けるためでした。かつてヤコブが兄エサウを騙して長子の権利を得たゆえに、エサウがそのことで自分に復讐するのではないかという「恐れ」です。その「恐れ」からヤコブを助けようとして御使いが現われ、夜明けまで格闘しました。ところがヤコブの自我が余りにも強く、勝てないのを見てとった御使いは、ヤコブのもものつがいを打ちました。すると今度は、もものつがいを打たれたヤコブが、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と「泣いて」懇願したのです。御使いに打たれたヤコブははじめて自分の弱さを認め、神に助けを求めたのです。これがヤコブの神への「立ち返り」でした。神に立ち返ることで、ヤコブを支配していた「恐れ」から解放されたのです(完全ではありませんでしたが)。「恐れ」に勝利するためには、自分の弱さを正直に認めて神に拠り頼むことが必要です。ヤコブがイスラエルと呼ばれるようになったのはこの出来事が起点となっています。
- アッシリヤの脅威は、エフライムに「恐れ」を抱かせました。その恐れから、神に頼らず、偶像に頼ることを通して、また「風を食べて生き、東風を追」(12:1)うという空しい外交政策をなそうとしました。それによって「恐れ」から逃れようとしたのです。ところが、風を制御できないように、人間の願いどおりにはいかないものです。そんな愚かさに気づかない点が、ヤコブと重ね合わせられています。それゆえ万軍の主は、エフライムに対してヤコブがしたように、「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」(6節)と呼びかけているのです。
2. 世俗化してしまった神の民(経済的繁栄は真実を見えなくさせる)
- 主の呼びかけに対して、エフライムの応答は以下の通りです。
【新改訳改訂第3版】ホセア書12章8節
「しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た。
私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない。」
- 7節に「商人は手に欺きのはかりを持ち、しいたげることを好む」とあります。「商人」と訳された原語は「ケナアン」(כְּעַנַן)で、「カナン人」のことです。カナンの地に定住したイスラエル人は異教の民と同化してしまい、カナン人との区別がつかないほどになっていました。それゆえ、主は痛烈な口調で彼らを「カナン」(=商人)という一語で非難しています。ここでの「商人」とは、非難の意を含んだ蔑称なのです。商人はどんな手段を用いてでも金儲けすることが目的であり、人からだまし取ることはむしろ当たり前と考えています。そうした彼らの手の中にある不正な秤を主は見抜いておられました。
- 物質的な所有物だけが重要であるかのように、エフライムは富を得て豊かになったことを誇りとし、罪と呼ばれるほどの深刻な不義は何一つ犯していないし、そのようなことは些細なことだと内心考えていたのです。それが8節のことばです。これは神の民の世俗化です。世俗化した民を、再び、神を頼るようにさせるためには、もう一度、彼らを裸にさせる必要がありました。つまり、自分たちのやり方がいかに空しく、いかに間違ったものであるかを彼らに教える必要があったのです。エフライムが神の怒りを引き起こして神の処罰を受けたのは、そのような視点から考えなければなりません。決して神の心情的な問題ではなく、神が聖であることをエフライムに教えるためなのです。
2015.4.
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