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エリフの弁論(1)

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24. エリフの弁論 (1)

【聖書箇所】32章1節~33章33節

ベレーシート

  • 32章~37章にはエリフという人物が登場します。多くの学者がこのエリフの語った部分は本来のヨブ記にはなかったもので、後から挿入されたものとして扱っています。しかし聖書は、正典としてまとめられたありのままで読む必要があります。とすれば、エリフの登場はヨブ記全体にどういう意味をもたらしているのかということになります。その視点を持ちつつ瞑想していきたいと思います。

1. エリフが登場した理由(介入理由)

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  • 32章1~5節は詩文体ではなく、散文で書かれています。そこになぜエリフが介入したのかその理由が述べられています。その理由とは、エリフがヨブとヨブの三人の友人に対して「怒りを燃やした」(33:2, 2, 3, 5)からです。エリフは「私の神は彼」という意味です。エリフはいつからか分かりませんが、ずっとヨブとその三人の友人たちとの対論に黙って「耳を傾けていた」のです。ところがそのエリフが「怒りを燃やした」(=義憤を感じた)のです。その理由は以下のとおりです。

    (1)ヨブが神よりも自分自身を義(正しい、潔白である)と主張したこと。
    (2) 三人の友人たちがヨブを罪ある者としながらも言い返せなかったこと。

  • エリフは、自分は年も若く、年の多い者が知恵を教えると思い、自分の意見を述べることをずっと遠慮していました。しかし、エリフは年長者だから知恵を語れるというわけではないことを知り、むしろ、神の霊(「ルーアッハ」רוּחַ)、全能者の息(「ネシャーマー」נְשָׁמָה)が人に悟りを与える(32:8)のだと確信し、神の霊に導かれて自分の意見をあえて語ってみたいと思ったのです。

    32:18
    私にはことばがあふれており、
    一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。
    32:19
    今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。
    新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。


    ちなみに、新共同訳は以下のように訳しています。
    「言いたいことはたくさんある。腹の内で霊がわたしを駆り立てている。」

  • 自分の語ることは真心からのものであり、真の知識だと自負して語られた内容が33章~37章の内容です。これはかなり長い弁論ですが、今回はこのエリフの弁論を一括りにして取り扱いたいと思います。


2. 33章におけるエリフの主張

(1) エリフの主張は「霊」と「息」によるもので、他意がない

  • さて、口を開いて語るエリフのことばに耳を傾けてみたいと思います。32章21~22節でエリフは「私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから。」と述べながら、彼の発言の拠り所を「私の言うことは真心からだ。私のくちびるは、きよく知識を語る。(なぜなら、)神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える(からだ)。」(33:3~4)としています。32章8節で語ったことをここで再び繰り返して語っていますが、預言者、ないしは、一人の知恵者としてヨブを説得しようとします。

(2) 神はいろいろな方法とある目的をもって語られている

  • 33章12節でエリフはヨブに対して「このことであなたは正しくない」と明言します。実はここからがエリフの言わんとする本論です。「このことで」とは、ヨブが「自分はきよく背きの罪を犯さなかったこと。自分は純潔でよこしまなことがないこと。それなのに、神は・・」と言っていることです。つまり、神が沈黙して答えて下さらないと文句を言っているヨブに対して、人が答えるように神が答えることを期待しているところに間違いがあるとしています。
  • エリフに言わせるなら、神はいろいろな方法で何度も語っているのに、人間がそのことに気づかない(認めない)だけだとしています。「神は人よりも偉大である」という命題から出発するエリフは、神はそのあわれみのゆえに人に幻や夢の中で警告的なことを語るが、その目的は人を悪(高ぶり)から離れさせて(悔い改めさせて)、よみの穴に近づかないようにするためだとしています。もし人が神のメッセージに気づかずに聞き逃してしまう場合には、神は何度も人に苦しみ(痛み)を与えて気づかせようとされると語っています(15~24, 29~30節)。

(3) 神の愛による苦難の教育的意義の強調

  • 苦難を通して人が砕かれ、低くされて、神との正しいかかわりを回復することは、三人の友人たちの中のひとりエリファズも「全能者の懲らしめ」として語っていました(5:17~18参照)。しかしエリフの主張の新しさは、苦難は人がよみに近づくことなく、むしろ人にいのちの光を照らすためのもので、神のあわれみによって、それは何度でも(ヨブ記では「二度も三度も」と表現されている)繰り返されるというところにあります。つまり、人が苦難の教育的意義を悟るまで、神は何度も試練をお与えになるということです。



【付記】33章23~24節の注解

【新改訳改訂第3版】
23 もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、
24 神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」


●ここに出て来る「ひとりの御使い」とは、ヨブに苦難の教育的意義を知らせる神の霊的存在で、人間の歩むべき「正しさを告げてくれる」存在です。その「正しさ」とは、27節にあるように、「私は罪を犯し、正しい事を曲げた」という悔い改めを意味しています。その悔い改めという善行が、24節「わたし(神)は身代金(保釈金)を得た」の「身代金」と解することができます。ただし、「ひとりの御使い」によって苦難の意義を悟り、苦難にどう対処すべきかを教えられる経験ができるのは、千人にひとりの割合だとエリフは語っています。

●苦難とは、滅びから救い出されるために、死の運命から救い出されるために支払われる身代金(代価)であるという解釈ですが、ヨブが自分の苦難を救いに至らせるための身代金として納得するためには、自分が滅びに価する罪人であるという自覚が必要です。つまり、人間の領域を越えた神の統治に対してさからう高ぶりの罪を、ヨブ自身が認める必要があるのです。そのために、「ひとりの御使い」の導きが必要なのだとエリフは述べています。


2014.7.4


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