エリファズに対するヨブの反論(2)
12. エリファズに対するヨブの反論(2)
【聖書箇所】16章1節~17章16節
ベレーシート
- 北森嘉蔵師は、16章、あるいは16~19章をヨブ記のクライマックス、つまり結論であると解釈しています。特に「クライマックス」の部分を16章19~21節としています。その部分は以下の通りです。
【新改訳改訂第3版】16章19~21節
19 今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。
20 私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
21 その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。
19節のフレーズ
- なにゆえにこの部分がヨブ記のクライマックスであるのか、北森嘉蔵師の富士山型ヨブ記構造論を、私も検証してみたいと思います。
1. 孤立無援と絶望の状態の中で
(1) 友人たちの煩わしい慰め
- 2節でヨブはエリファズのことばを聞いて、「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」と言っています。なぜなら、ヨブの言うことに耳を傾けることなく、また、ヨブの苦しみの思いに寄り添うことなく、興奮してヨブの苦しみの原因について答えようとしているからです。それは「むなしいことば」(原語は「風の言葉」)だと言っています。しかし、立場が替われば、おそらく自分も友人たちがしているようなことをしてしまうだろうとも言っています。
(2) 自分に対する神の敵対行為
- 16章7節に「まことに神は今、私を疲れさせ(消耗させ)た」と述べて、神が友人たちと共謀して自分に対してなされた行為を並べ立てています。動詞を見るとそれが一目瞭然です。
①「私の仲間の者(おそらく親類縁者)をことごとく荒らされた」(7節)、②「つかみ」(8節)、③「引き裂き」「攻めたて」「歯ぎしりする」(9節)、④「(奸計に)陥れ」「(悪者の手に)渡した」(11節、中澤訳)、⑤「打ち砕き」「粉々にし」(12節)「的とし」(12節)、⑥「射抜き」(13節)、⑦「打ち破る」「破れに破れを加える」「馳せかかる」(14節)・・etc.
(3) ヨブの一縷の望み
- 16章20節で「私の友は私をあざけります」とあるように、ヨブが孤立無援であることが描かれています。本来、支えられなければ生きていくことのできない存在として神に造られた者が、全くつかまるところのない無援状態です。それは暗やみの世界です。さらに神も自分に対してまるで敵であるかのような存在としてかかわっていると、ヨブは感じています。これはまさにもっとも暗い闇と言えます。ところが、そのように追い詰められたヨブが、「しかし、私の目は神に向かって涙を流します」と言って、神に 一縷の望みを抱いているのです。
2. 16~17章にある「法廷用語」
- 16章、および17章には四つの「法廷用語」が登場します。それは以下の通りです。
(1) 16章19節の「私の証人」と「私を保証してくださる方」と訳されている語彙。「証人」は「エード」(עֵד)、「保証」は「サーへ―ド」(שָׂחֵד)です。後者はこの箇所にしか使われていない語彙です。
(2) 16章21節の「とりなし」と訳されている語彙は「ヤーハハ」(יָכַח)の分詞形です。口語訳では「弁論する」、新共同訳では「裁く」と訳されています。つまり、自分の証人、あるいは、自分を保証してくださる方に、自分と友人との間で神にとりなしてほしいという意味で使われています。
(3) 17章3節の「保証する」は「アーダヴ」(עָדַב)です。ここでは保証する者をあなた(神)のそばに置いてくださいと嘆願しています。
すでに、9章33節にも「仲裁者」と訳された語彙がありました。それは「イェ―シュ・ベーネーヌー」(יֵשׁ־בֵּינֵינוּ)で、「~と~との間にいる者」という意味です。
- これは、完全に追い詰められた者が最後の一縷の望みとして発したことばであり、きわめて不思議な発言なのです。四方が完全にふさがれていても、上は開いていると言われます。しかし、ヨブは17章12節において、「夜は昼に変えられ、やみから光が近づく」と言われるけれども、理不尽な悩み、不条理な悩みの叫びの中で、自分にはそのような望みはどこにもないとも言っているのです。この交錯した思いがヨブの中にうごめいているのです。
3. 17章3節の翻訳
- 17章3節のヨブの口から出たことばの訳を見てみると、とても難解な箇所であることが分かります。とくに3節の後半の部分がそうです。以下、諸訳を比較してみます。
【新改訳】
どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。
【新共同訳】
あなた自ら保証人となってください。他の誰が/わたしの味方をしてくれましょう。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。
【口語訳】
どうか、あなた自ら保証となられますように、ほかにだれがわたしのために、/ 保証となってくれる者があろうか。
【関根訳】
あなたの所にわたしの保証金をつんでください。誰がほかにわたしと握手してくれる者がありましょう。
【中澤訳】
わが保証金をあなたの所に積んでください。誰がわたしの手を打ってくれるだろうか。(「保証金」とは無罪釈放のための担保。「手を打つ」とは「和解のしるし」。)
【バルバロ訳】
だから私のためにあなたご自身保証したまえ。そうしないとだれが私の手を握って保証してくれようか。
●ちなみに、「保証」「保証金」と訳された「アーラヴ」(עָרַב)はヨブ記でこの箇所にのみ使われている語彙ですが、創世記43章でユダがベニヤミンの「保証人」となるという話でも同じ語彙が使われています(創世記43:9/44:32)。ひどい飢饉のために食糧をエジプトに買いに行かなければならないことになりましたが、その際、ヨセフのところにベニヤミンを連れて行かなければならないことを息子たちは父イスラエルに説得しますが、父はなかなか承服しません。それでは食糧を売ってもらうことができないため、ユダは自分がベニヤミンの保証人になると申し出ます。ここで保証人になるとは「いのちをかける」、つまり「身代わりになる」ことを意味しているのです。
2014.6.11
a:6321 t:1 y:1