****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストの体なる教会

第13日目 キリストのからだなる教会

  • 〔聖書箇所〕1章22~23節 【新改訳改訂第3版】

    1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

    καὶ πάντα ὑπέταξεν ὑπὸ τοὺς πόδας αὐτοῦ, καὶ αὐτὸν ἔδωκεν κεφαλὴν ὑπὲρ πάντα τῇ ἐκκλησίᾳ,

    1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

    ἥτις ἐστὶν τὸ σῶμα αὐτοῦ, τὸ πλήρωμα τοῦ τὰ πάντα ἐν πᾶσιν πληρουμένου.


はじめに

  • 神、あるいはキリストと私たちの関係を表す類比はいろいろとあります。例えば、「羊飼いと羊」「陶器師と器」「ぶどうの木とその枝」「花婿と花嫁 (夫と妻)」「土台と建物」など、いずれも双方なしにはあり得ない関係です。特に今回は、キリストと教会の関係が「かしらとからだ」の関係でたとえられていることに注目したいと思います。教会を「からだ」に例えたのは使徒パウロですが、これは実にすばらしいたとえなのです。「教会って何ですか」と聞かれたなら、それは「キリストをかしらとしたキリストのからだです。」と答えれば良いのです。
  • 驚くべきことに、使徒パウロはこのエペソの手紙の中に「からだ」について9回もの箇所でそのことに言及し、いろいろな側面からこのことばが意味する事柄を教えています。

(1) 2章15節~16節
「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」

(2) 3章6節
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」

(3) 4章4節
「からだは一つ、・・・です。」

(4) 4章11~12節
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」

(5) 4章16節
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

(6) 4章25節
「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」

(7) 5章22~23節
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」

(8) 5章28節
「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。」

(9) 5章29~30節
「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。」


1. 「教会」のもともとの言葉 ―「エクレシア」の意味と使命―

  • 聖書で「教会」と訳されていることばの元々の単語はギリシア語で「エクレシア」です。エクレシアとは、「ある目的を持って召し出された者たち」、「呼び出された会衆」という意味です。つまり、神によってこの世からある使命をもって召し出された者たちの集合体を意味します。したがって、教会とはいわゆる教会堂などの建物ではありません。それは教会堂であって、教会そのものではありません。この「召し出された者たち」という概念は「対この世」的な意味合いを持っています。ですから、内向きになって互いに分裂や対立しているあり方は正常な教会の姿ではありません。
  • 「キリストのからだなる教会を建て上げること」これこそ、私たちが、神によって召し出された者たちの使命です。そしてキリストのからだなる教会「エクレシア」は、からだが一つであるように、本来「一つ」なのです。聖書の教会にはカソリックもプロテスタントもありません。教団、教派も存在しません。ユダヤ人も異邦人もともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となったように、教会は一つしか存在しないのです。
  • 今回、特に心に留めたいことは、私たちが神によって呼び集められたのは「キリストのからだを建て上げるためである」ということです。

2. 人間のからだについて

(1) 骨と筋肉の話

  • 骨と筋肉、骨は硬くて曲げたり伸ばしたりはできません。逆に、筋肉は柔らかく、伸びたり縮んだり融通がききます。全く相異なる性質をもった骨と筋肉がひとつになって働くことによって、私たちは体を動かしたり、運動したり、自由に歩いて移動したりすることができるのです。また、ピアノを弾いたりドラムを叩いたりすることができるのも骨と筋肉が一つとなって働いてくれているからです。

(2) 人間の体を支える骨の数と特徴

  • 人間の体は骨によって支えられていますが、その骨の数はどのくらいあると思いますか。その数206本だと言われています。新生児は350本あるのだそうですが、成長するにしたがって、骨どうしがつながり、成人で206本になるのだそうです。

(3) どうして体を動かすことができるのか

  • それは大脳が指令を出して筋肉を収縮させて、関節が曲がり、それによって手や足が動きます。つまり、筋肉が骨を動かしているのです。骨と骨をまたぐように筋肉がついていて、それが伸びたり縮んだりして骨を動かす。その骨と筋肉をつないでいるものを腱(けん)と言いますが、骨と骨のつなぎ目には関節があります。この関節の働きも重要です。教会にも骨と骨をつなぐ関節のような働き人が必要です。教会の骨とは使徒、預言者、伝道者、牧師、教師たちのことです。しかしこうした骨の働きをうまくつなぐ関節の役割を担うような存在が必要です。キリストのからだを建て上げることが私たちの任務であるならば、骨だけではからだとして機能しません。多くの関節となる存在が必要です。
  • 話がキリストのからだの方に行ってしまいましたが、パウロが教会をキリストのからだとたとえたことはとても深い意味をもっていると言えます。

(4) 他の骨の働き

  • 人間のからだの骨の働きについて話を戻しましょう。骨の働きはまだ他にもあります。骨は体を支えている大切なものですが、支えるだけでなく、守るという働きもあります。たとえば、頭蓋骨は人間の大切な脳を守っていますし、肋骨などは内臓を守っています。-背骨の内部、つまり背骨の中心部では、血液の細胞を作っている骨髄があります。そこは旨みの成分が詰まっているところで、ラーメンのスープでは豚骨を長時間煮ることでうまみを抽出しています。また、骨はカルシウムの貯蔵庫にもなっています。カルシウムが少なくなるとどういうことになるか、骨粗鬆症になって骨が折れやすくなるばかりか、怒りやすくなるようです。年をとると黙っていてもカルシウムが少なくなるので要注意ですね。

(5) 筋肉の種類

  • さて、骨の話をしましたから、今度は肉、つまり、筋肉についてお話ししたいと思います。筋肉には大きく分けて二種類あります。ひとつは横紋筋といって、自分の意思で動かす事のできる筋肉で、手や足の筋肉がそうです。強い力を出すことができますが、疲れやすいという特徴があります。もうひとつは、平滑筋といって、自分の意思とは関係なく動く筋肉で不随意筋とも言います。内臓の筋肉はみなそうです。横紋筋とは違って強い力を出すことはできませんが、持久力があり疲れません。ここで質問です。心臓の筋肉はどちらの筋肉でしょうか。・・・・A: それはどんなからだの運動にも応じる強い力を出さなければならない横紋筋であると同時に、私たちの自分の意思で動かしたり止めたりできない不随意筋という不思議な筋肉なのです。

(6) 筋肉の他の働き

  • その筋肉の働きですが、骨と連動して手や足を動かすだけでなく、その働きは他にもあります。そのひとつは体温の調節(体温を上げる働き)です。寒い時、外でおしっこをしたりしたとき、あるいは風邪をひいたときにブルブルからだが震えることがあります。これは筋肉を振動させて体温を上げているわけです。
  • もうひとつの働きは、筋肉を動かすことによって体内の脂肪を燃焼させて、エネルギーを引き出すことです。ウォーキングなどは適度に筋肉を動かすことによって脂肪を燃焼させて、体に脂肪がたまらないようにする良い方法です。脂肪が体内にたまると、メタボリック症候群といってさまざまな病気をひきおこすと言われます。また、筋肉を動かすことによって、実は骨も刺激を受けて強くなるのです。ですから長くベッドなどに臥していると筋肉を使わなくなるために、骨が弱ってしまうのです。筋肉は鍛えることで強くなると言われます。そして骨もそれにつられて強くなるというわけです。
  • 相反する性質をもった骨と筋肉、それは実に、有機的なかかわりをもっているわけです。

(7) ホルモンの働き

  • 今回は、教会がキリストのからだであるというたとえを学ぼうとしていますので、もう少し、からだの中のいろいろな働きを見てみたいと思います。特に、骨とか肉とかとは違った目に見えない存在の働きです。そのひとつにホルモンがあります。
  • ひとりの人間の体はおよそ60兆の細胞からなると言われます。これらの細胞がバラバラに機能していては、生命が維持できないため、体のそれぞれの細胞に何らかの情報を送って、その機能を発揮するように指示し、環境の変化に対応しています。そのような生体の調節機構を担っているものの1つがホルモンです。
  • 私たちの体には、外界の環境が変化しても、体の中の状態を一定に保つしくみがあります。健康とは、一定の状態が保たれている状態のことであり、病気とは、その一定の状態が保てなくなった状態と考えられます。ホルモンの作用不足でおこる病気の代表的なものに生活習慣病の1つである糖尿病があります。
  • 糖尿病は、膵臓から分泌されるインシュリンというホルモンが十分に作用しなくなる病気です。人間は食物から摂取した血液中の糖分(血糖)をエネルギー源として使っています。余分な血糖は、インシュリンの働きでグリコ-ゲンに変えて肝臓などに貯蔵します。しかしインシュリンが分泌されなくなるか、分泌されても作用できなくなると血糖値が上がってきます。それが長く続くと恐ろしい網膜症や腎臓障害、神経障害などの合併症が併発され発症してきます。健常人では血糖値が上がると、上がり方に応じてインシュリンが分泌され、血糖値を下げて正常になります。糖尿病ではなんらかの理由でそのような血糖値の正常化ができなくなります。
  • インシュリンが多すぎると血糖が下がり過ぎます。低血糖になると意識障害が起こります。私たちの体は、血糖値を下げるのは、インシュリン1種類にまかせていますが(いわば抑え専門の投手というところでしょう。このような投手は多くはいません)、逆に、血糖値を上げるのは5種類のホルモンに担わせています。成長ホルモン、甲状腺ホルモン、グルカゴン、糖質ステロイド、カテコ-ルアミンで、1種類のホルモンが過不足をきたしても危険を回避できる仕組みになっているのです。 そうして常に体中にエネルギーが送り込まれて、正常な状態が保たれているわけです。
  • このように、からだを一定の状態に保ち健康を維持するのにホルモンは重要な働きをしていますが、このホルモンはストレスが加わることによってそのバランスを崩してしまいます。そして病気になってしまうのですが、健康維持のためには、できるだけストレスをもたない、ストレスのかからないような心の在り方が必要となってくるわけです。
  • キリストのからだでホルモンのような働きを担う人たちの存在が必要です。それはどういう人でしょうか。私が思うにそれは、そうした働きを担うのは、感情的に起伏の少ない、常に平常心をもって、平和をつくる(保つ、築く)者たちです。いわゆるピースメーカー(トラブルメーカーではなく)と呼ばれる存在です。常に、愛と忍耐をもってかかわってくれる人たちの存在によって、からだなる教会はバランスを保ち、外側にむかって行動できるよう体制を創り出します。たとえ、強い骨と筋肉をもった体でも、ホルモンのバランスがひとたび崩れてしまえば、その力を発揮することができなくなるのは自明の理です。
  • ホルモンの存在は一定の状態が保たれているときにはその存在とその働きは注目されることはありませんが、からだのバランスを崩したときにはじめて、ホルモンの働きの重要性がわかるのです。ホルモンは体全体を健康にしていくとても大切な存在なのです。
  • ひとたび教会の中に隔ての壁が作られて仲違いが起こるならば、立ち直るのには多くの時間を必要とするのです。
  • 私たち一人一人はキリストのからだを建て上げるために、キリストによって呼び出された者たちです。キリストのからだを建て上げるために必要な力はすでに(気づいても気づかなくても)ひとりひとりに与えられているのです。それをそれぞれが発見して用いられていくことが、キリスト者としての生きがいとなっていくのです。からだですから、自分だけでは何もできません。骨だけあってもなにもできないのと同じです。他の者たちと連携することによって、自分も生かされていく世界なのです。そのことを今回、みなさんひとりひとりがしっかりと心にとめていただきたいのです。それぞれの有機的なかかわりが必要な「からだ」、それが教会のたとえなのです。

3. からだにおける有機的な働きに見る神の栄光

  • 最後に、聖書の中のひとつの話をしたいと思います。マルコの福音書2章に出てくる話です。中風となった男がイエスによって癒された奇蹟の出来事です。この出来事は、キリストのからだが一致して働かなければならないこと、そしてそのときに現わされる神の栄光のすばらしさを私たちに教えてくれます。その記事を読んでみましょう。
  • マルコの福音書2章1~5節、さらに、11~12節。

    2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
    ―さらに、中風の人に、
    2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

  • ここでおもしろいと思うことは、中風の者をイエスのもとに連れて来た4人の者たちに対するイエスの反応です。5節「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。中風の者は自分をイエスのもとに連れて行ったその信仰によって彼は罪を赦されて神とのかかわりに招かれ、いやしを受けることができたのです。彼をイエスのもとに連れて行った4人の者たちの存在は、教会のからだを担う人々といっても良いと思います。
  • 中風の者が癒されるためには、少なくとも四つの賜物が発揮されています。

    (1) 最初の賜物は、「憐みの賜物」と言えます。中風になった者に同情してイエスさまの所に連れて行こうと言いだした発起的存在がいたはずです。人をかわいそうに思う心をもった存在です。人の苦しみや不幸をただ黙って見てはいられない、なんとかしてあげたいという心を人一倍多く与えられている人の存在がいたということです。教会はそのような人の発言を無視しないように、注意深く耳を傾けなくてはなりません。

    (2) 次に考えられる賜物は、「奉仕の賜物」と言えます。最初の憐みの心をもった人の言葉に心動かされて、実際にこの中風の者をイエスさまの所に連れて行こうと自発的に申し出た者がいたのです。憐みの心をもった人ひとりでは連れて行くことはできません。実際にその人を担架に乗せていく人が少なくとも他に3名必要でした。その必要に答えた者たちがいたのです。なんとすばらしいことではないでしょうか。憐みの心を実際の行動に移すことができる奉仕の賜物をもった人が必要でしたが、その人たちが与えられたことで、中風の者はイエスの所に連れて行ってもらうことができました。

    (3) ところが、彼らは思わぬ事態に直面しました。それは群衆のためにイエスに近づくことができなかったのです。「これではどうしようもない。諦めるしかない。」と、そこでさじを投げてしまってもおかしくありません。でも、病人を担いで来た者の中にとても大胆な発言をする者がおりました。大胆で積極的な「信仰の賜物」をもった人の存在です。その賜物を与えられた人はこう言いました。「屋根に上ろう。そして屋根をはがして、穴をあけて寝かせたままつりおろそうじゃないか。」まさに大胆な発想です。このような発想をする信仰の賜物を与えられている者が教会の中にはいるものなのです。このような発想の転換をする人の発言を私たちは無視してはいけないと思います。ある意味ではこの賜物は「リーダーシップの賜物」とも言えます。この賜物がなければ、この中風の人はイエスに出会うことも、またいやされることもなかったからです。

    (4) この出来事にはもうひとつの賜物が働いています。それはなんだか分かりますか。屋根をはがすということは、屋根を壊すことです。「リーダーシップの賜物」をもった者が大胆にも「屋根をはがして」と言ったとき、「大胆な発想はいいが、その弁償はいったいだれが支払うんだ」と思うことがあってもおかしくありません。しかしそのとき、暗黙のうちに、「私が弁償するためのお金を出しましょう」という人がいてはじめて屋根をはがすことができたと思います。そうした後ろ盾がないところに、いくら信仰の賜物をもった大胆な人がそうしようと言ってみたところでできるはずがありません。一人の中風が救われるために喜んで犠牲を払います。その壊した屋根を弁償する心をもった者の存在が必要です。「ささげる賜物」と言っても良いでしょう。人のため、神のために喜んでささげる賜物をもった者がいなければ教会は前進できません。

  • このように、ひとりの人が救われるためには四つの賜物が有機的に組み合わされることで実現したのではないでしょうか。「イエスが彼らを見て」という表現は、ひとりの人のために四つの賜物(能力)が互いに結び合わされた姿を見て言ったことばではないでしょうか。
  • この様子を一部始終見ていた群衆は、「みなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。」とあります。もちろん、一人でも神のみわざを経験することができます。しかし、神のさらに勝ったみこころは、キリストのからだなる教会において、みなが一致して、有機的に働くことによってすばらしい力を表していくことではないかと思います。そんな教会を建て上げていかなければなりません。

おわりに

  • 私たちひとりひとりはキリストのからだを建て上げるために、特別に呼ばれた者であることを信じたいと思うのです。そのためには、自分がお客さんであってはなりません。からだの一部分を担う大切な存在であり、他の部分と組み合わされることで自分の存在が輝くような位置に神によって置かれているのだということを信じなければなりません。
  • 教会がキリストのからだにたとえられていることは実にすばらしいことです。このたとえはこれからのエペソ人への手紙の中で繰り返されるテーマです。今回は、自分がキリストのからだの大切なひとつの部分を担うために神によって選ばれ、召されたのだということをしっかりと信じていきましょう。

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