****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストの奥義

第21日目 キリストの奥義

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はじめに

  • 「キリストの使徒」「キリストの囚人」「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と自己紹介したパウロが、いわば専売特許のように使っていることばがあります。そのことばは新約聖書に26回(原語は28回)出てきますが、そのうちの22回がパウロの書いた、あるいはパウロが語った言葉の中に出てきます。パウロは自分自身を「神の奥義の管理人」とさえ言っています。他の4回のうちの3回は共観福音書にそれぞれ「天の御国(神の国)の奥義」で3回、残りの1回は黙示録(10:7)にあります。エペソ人への手紙だけでも8回使われています(1:9、3:3, 4, 5, 6, 9、5:22、6:19)。まずは、今回のテキストを読んでみましょう。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙3章1~11節
1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。
10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
11 私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。


  • このテキストで各節に出てくる「奥義」ということば、これが今日のテーマです。聖書にはきちんとふりがながふってあるので「おくぎ」と読めますが、普通、辞書で引くと「おくぎ」では見つかりません。「おうぎ」となっています。他の聖書、新共同訳聖書では、「秘密」「神秘」「秘められた計画」というふうに訳されています。口語訳と新改訳聖書が「奥義」と訳していますが、ギリシア語は「ミュステーリオン」(μυστήριον)で、これから英語の「mystery (ミステリー)」が生まれました。エペソ書で訳語の「奥義」が使われているのは8回ですが、原語の「ミュステーリオン」(μυστήριον)は6回 (1:9、3:3, 4, 9、5:32、6:19)です。ヘブル語に戻すと「ソード」(סוֹד)という語彙になります。
  • 「ミドゥラーシュ」(מִדְרָשׁ)とは、主を「尋ね求める」ことを意味するヘブル語動詞「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)の名詞で「解釈、注釈」を意味します。そこから神の「ソード」(סוֹד)の世界が開かれます。それは「顔と顔とを合わせる」愛の世界であり、不完全なものはすたれて、完全なものが姿を現わす世界です。御国の到来が近づけば近づくほど、その世界を垣間見ることが許されていると信じます。そのためには、私たちは乳ばかり飲んでいる幼子であってはなりません。堅い食物を食べることのできる成熟した大人にならなければなりません。つまり、神のことばの初歩的な教えにとどまることなく、義の教えに通じるようにならなければならないのです。

1. 明らかにされた奥義

  • ミステリーというと、なにか不可思議な世界、謎めいた世界のようなイメージがあります。しかし、聖書の「奥義」にはそういう意味はありません。むしろ、聖書の奥義とは「はっきりと示されたもの」「神があきらかにされた秘密」という意味です。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙1章9~11節
9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。

  • この箇所では、「奥義」とは「みこころの奥義」であり、「御子にあって神があらかじめお立てになったみむね」です。つまり「奥義」とは「神のみこころ、神のみむね、神のご計画、神の目的」のことを意味し、神の御子イェシュアによって実現することになる神の「定め」のことです。神のご計画の定めは「時が満ちる」までは隠されていましたが、「時がついに満ちた」ことでそれが実行に移されたのです。その計画の目的とは、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものがキリストにあって、一つに集められること」なのです。実に壮大な計画です。
  • ここで大切なことは、キリストがこの世に遣わされたことで、神のご計画、つまり奥義がはっきりと示されたということです。3章5節を見てみましょう。
    「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」というこのことばから、「奥義」を定義づけるとすれば、「かつては隠されていたが、今や明らかにされたキリストによる神の永遠のご計画」となります。
  • パウロがどのようにしてこの奥義を示されたかと言えば、3節にあるように、それは「啓示によって」だと記しています。「啓示によって私に示された」ということはどういうことでしょう。この「啓示」ということばも、実はパウロの専売特許です。新約聖書で16回使われていますが、そのうちの14回はパウロが使ったことばです。「啓示」とは、神から(キリストから)直接に示されたことを言います。つまり、だれにも伝えられていないし、だれからも教えられていないということです。直接、神から示されたという意味です。
  • 普通、そのようなすばらしい経験をしたらどうでしょう。鼻高々になってしまうのではないでしょうか。パウロ自身、Ⅱコリント書12章でこう述べています。「その啓示があまりにもすばらしいために、私は高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」・・「一つのとげ」が何を意味するのかここではなにも書かれてはいませんが、人間的にみるならば、それが無い方が良いと思われるようなことではなかったかと思います。ある人は目の病気だと言っています。パウロは三度、そのとげがなくなるようにと祈りましたが、神は聞き入れませんでした。むしろ「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と主から語られたようです。
  • パウロはキリストの奥義を啓示によって知らされたと述べていますが、パウロはキリストの奥義をどのように理解したのでしょうか。キリストの奥義は他の弟子たちにも知らされましたが、それを本当に正しく理解したのは、実はパウロだけであったようです。
  • 神から直接に示されたキリストの奥義について、その内容についてもっと突っ込んでみましょう。1章9節に先ほどの「みこころの奥義」とは、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること」だとパウロは記してきましたが、その具体的な内容は、

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙2章11~13節
11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。


  • 「以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」また、「聖徒たちと同じ国民」「神の家族」「主にある聖なる宮」とされたのです。このことを、今回のテキストから表現し直すと、3章6節にそれが書かれています。「キリストの奥義」とは、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同相続人となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」。特に、「異邦人もまた」「ともに」ということを、パウロは使徒たちの中でそのことを最も正しく理解した人なのです。それゆえ彼は異邦人に伝道をし、その成果を上げたことによってユダヤ人から迫害を受けたのです。そしてキリストのために、実際的に「囚人」となったのです。
  • 「ともに」とは、ユダヤ人と異邦人のことです(神の世界では、ユダヤ人と異邦人の区別しかありません)。言うならば、すべての者が共同相続人とされ、一つのからだに連なり、神の約束にあずかる者となることができるのです。それを実現してくださったのが、イエス・キリストです。
  • ユダヤ人と異邦人というのは、この世界に存在するあらゆる分裂のルーツ(根)と考えて良いと思います。この問題を正しく理解するならば、はじめて「ともに」生きる道が開かれます。ユダヤ人と異邦人の間にある問題は、私と他者とのあらゆる問題のルーツ(根)でもあるのです。もし、私と他者との間にあるさまざまな隔ての壁、その隔ての壁を作り出してしまう自分の罪、その問題に神の恵みと神の知恵と神の愛の光が注がれるとき、はじめて「ともに」生きることが可能となるのです。

2. 伝えるべきキリストの奥義

  • キリスト教会は二千年という長い期間、パウロに啓示された正しい奥義をないがしろにしてきました。どういうことでしょうか。それは、ユダヤ人と異邦人が「共同相続人」として「ともに一つのからだに連なる者」として、「ともに神の約束にあずかる者」として見なしてこなかったということです。近年になって、ようやく、パウロが正しく理解したキリストの奥義を理解するようになってきたのです。しかし、キリスト教会においてはまだまだこのことが正しく理解されてはいないのです。聖書はこの視点から読み直さなければなりません。私自身もこの奥義に沿って具体的にどのように実行に移していくべきか、その務めにどのようにかかわっていくべきか、主が示して下さるようにと祈っているところです。
  • パウロに啓示されたキリストの奥義をますます深く知ることを追い求めなければなりません。何事でもそうだと思いますが、ある程度学んでしまうと、しかもそれで何も不便を感じないと、それ以上は求めなくなるものです。信仰の世界でもそうです。自分の悩みが解決されてその苦しみから解放されると、神を求めることもそこで止まってしまうことがあります。神をさらに深く知ろうという気持ちが薄れてきてしまうものです。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」です。
  • キリストの奥義は、自分と他者とのかかわりを豊かにしていく道でもあります。神の愛のいのちの豊かさを経験していく果てしない世界です。それは自分が変えられていくことと無関係ではありません。神からの悟りを与えられて、もっともっとキリストの奥義を深く尋ね求める者とされたいものです。
  • また、私たちはキリストの奥義を尋ね求めるだけでなく、キリストのからだなる教会を通していかにそれを人々にあかしし、伝えて行けるのか。使徒パウロはコロサイの教会のクリスチャンたちにこう書き送っています。

「私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(4:3)

  • キリストの奥義を語ったことで、パウロはユダヤ人から迫害を受けて囚人となりました。同様に、キリストの奥義を正しく理解してそれを語ることはある意味で光を放つ存在となりますが、そのために、自分の属する組織から追い出されることもあるのです。一つの組織、制度の中で安穏と生きる者たちには、気づかないうちに隔ての壁を築いていることが多いからです。そうした中でキリストの奥義を語る者は迫害を受けることもあるのです。
  • 「ともに」ということばのギリシア語は「スン」(συν)です。シンクロナイズド・スイミングという競技があります。二人、ないしは八人でする競技ですが、みな同じ体型を作ったり、足の高さがそろっていたり、つまり「スン」を競う競技です。私たちも見倣いましょう。呼吸を合わせるシンクロはとても訓練がいるそうです。共に生きることも訓練が要ります。その訓練を怠ることなく、主にあって、その訓練を受けながら、キリストの奥義のすばらしさをあかしし、伝えていく教会となりたいものです。

2016.2.16


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