****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ナザレからカペナウムへ

文字サイズ:

1. ナザレからカペナウムへ

【聖書箇所】マタイの福音書4章12~17節

ベレーシート 

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書4章12~17節
12 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

画像の説明

1. 旧約の完成者イェシュア

  • マタイは、神の御子イェシュアの生涯の全体(誕生~受難、教えと働き)が旧約の預言者たちを通して予告されていたこと、そのすべてが神のご計画に他ならないことを福音書によって証言しようとしています。特にマタイは、イェシュアが旧約の預言の成就者として、また律法の完成者であることを強調しています。それゆえ、マタイの福音書には、「このことが起こったのは、預言者を通して言われたことが成就するため」という定型的な表現が多く用いられています。

(1) 「ガリラヤ」へ立ちのかれたイェシュア

  • 「ヨハネが捕らえられたと聞いたイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」(4:12)とあります。ヨハネとはイェシュアの先駆者として神によって立てられた旧約最後の預言者です。その彼がユダヤの荒野においてすでにその働きを開始していました。ヨハネは自分の使命について、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のあるかたです。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。」(3:11)と公言しています。「はきものを脱がせる」という行為は当時においては奴隷のする仕事でした。ヨハネは歯に衣着せる厳しい悔い改めのメッセージをした預言者ですが、自分とイェシュアと比べるならば、自分は奴隷としての価値さえない者であると告白したのです。その彼(ヨハネ)が捕らえられたことは、イェシュアにとって大きな意味を持っていたようです。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道者の書3:1)とあるように、ヨハネの逮捕の出来事はイェシュアの宣教の本格的な働きを開始すべきことを意味していたようです。それゆえイェシュアはガリラヤへ立ちのかれたのです。イェシュアがベツレヘムで誕生されたのも、またそこからエジプトに下り、そこからユダヤに戻り、ナザレで育ったのにもすべて意味があります。そのすべてが旧約の預言者たちによって預言されていたのです。例えば、以下のように・・
    ① ベツレヘムでの誕生・・・ミカ5章2節
    ② イェシュアの誕生による最初の殉教・・エレミヤ31章15節
    ③ エジプトからイスラエルの地へ…イスラエルの歴史の踏み直し
    ④ ガリラヤのナザレへ・・イザヤ11章1節の「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)

(2) 「ナザレ」から「カペナウム」ヘ

  • イェシュアの宣教の開始をルカはナザレとし、そこでの出来事を記していますが(ルカ4:12~30)。ナザレでの出来事は、イェシュアの生涯の縮図と言えます。しかしマタイはそれをすべて省略し、ガリラヤの町カペナウムから宣教を開始したとしています。なぜ、マタイはナザレでのことを記していないのかといえば、宣教の開始場所がナザレであったとしても、カペナウムであったとしても、ガリラヤから宣教を開始するという神の計画と意図において何ら変わることがないからだと言えます。


2. なにゆえにイェシュアはガリラヤから宣教を開始されたのか

(1) 「異邦人のガリラヤ」とは

  • マタイはイェシュアがガリラヤから宣教を開始されたのは、預言者イザヤが預言していたことだとしています。

    15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
    16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

ナフタリ&ゼプルン.PNG
  • 「光が上った」の「上る」と訳された「ナーガハ」(נָגַהּ)は、「輝く、照る、照らす、(光が)放つ」の意味があります。「異邦人のガリラヤ」とありますが、イェシュアは異邦人に宣教しようとしたのではありません。ではなぜ、「異邦人のガリラヤ」と言われるのかといえば、本来、神がイスラエルの民に与えられた地に異邦の侵入者が占拠して、イスラエルの民以外の住民が植え付けられたからです。血統の純潔は喪失し、軽蔑の対象を受ける地になってしまったことを意味しています。
  • B.C.732年、アッシリヤによって北イスラエルが滅亡する10年ほど前に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルの率いる大軍が怒涛のように攻め寄せ、多くの町が完璧なまでに蹂躙されました。その悲惨な舞台となったのがガリラヤ(ナフタリの地、ゼブルンの地)だったのです。多くの町や村が破壊されただけでなく、労働力になりそうな者たちはみな捕虜とされ、連れ去られたのでした。
  • Ⅱ列王記15章27節には次のように記されています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱ列王記15章29節
    イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕らえ移した。

  • 「ガリラヤ」(ヘブル語の「ガーリール」גָּלִיל)は、戸のちょうつがいの旋回軸を意味します。それは地図を見ると分かるように、ナフタリとゼブルンの地域がガリラヤ湖を西から取り巻いているように見えます。ユダヤの中心地であるエルサレムに比べるとガリラヤはまさに軽蔑の地であったのです。

(2) カペナウムでの宣教の開始が意味すること 

  • イェシュアはナザレからガリラヤ湖畔の最大の町であるカペナウムに移り住み、そこを拠点にして宣教を開始されました。新改訳は「カベナウム」と表記しますが、新共同訳は「カファルナウム」で、ギリシア語の「カファルナウーム」(Καφαρναοuμ)に近い表記になっています。ヘブル語表記では「ケファル・ナフーム」(כְּפַר נַחוּם)となり、「ナホムの村」(「慰めの村」)という意味です。もし「ケファル」が「カーファル」(כָּפַר)という動詞から来ているとすれば、それは「罪を赦す、罪が赦される」という意味になります。その意味ではイザヤが預言したように、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と言えるかもしれません。つまり、それは、悲惨と暗黒の地である異邦のガリラヤに希望と慰めが訪れたということになります。イェシュアの公生涯における多くの働きが、イスラエルの中心であるエルサレムにではなく、辺境のガリラヤであったことは、イスラエルの回復を計画しておられる神の熱心(「キヌアー」קִנְאָה)によること以外の何ものでもありません。

(3) まだ「大いなる光」を知らずにいるイスラエルの民

  • ここでもう一度、マタイが引用したイザヤの預言に注目してみたいと思います。マタイはかなり自由に引用しています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書9章1~4節
1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、
後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

  • マタイが引用しているのは1~2節ですが、この預言はある意味において成就していますが、以下の3~4節の預言はまだ成就していません。これからのことです。「光」の概念が神のご計画、みこころ、御旨、目的だとするなら、その光が輝くことは神のご計画が地に実現することを意味します。そのことと「喜び」は密接な関係にあります。

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。
彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、
ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。

  • 3節の「あなた」とは神のことです。名詞の「喜び」が2回、そして動詞の「喜ぶ」が1回、繰り返されています。イザヤは神の完全な救いの訪れを見て、喜びにあふれて神に喜びの叫びをあげています。なにゆえにそのような喜びにあふれているのでしょうか。それが4節に記されています。神が神の民の重荷のくびきと、肩のむち、しいたげる者の杖を「砕かれたからだ」と預言的完了形で記されています。名詞の「喜び」を表す「シムハー」(שִׂםְחָה)、および動詞の「サーマハ」(שָׂמַח)は、特に詩篇に多く用いられていますが、いずれも、爆発的な喜びを表わす終末的な語彙と言えます。イザヤ書9章3~4節の約束は、イェシュアの再臨によって実現するメシア王国の預言なのです。

3. イェシュアのガリラヤでの宣教メッセージ

  • ナザレ人イェシュアはカペナウムをガリラヤ宣教の拠点とされました。それは、自分の故郷のナザレでは拒絶されたためです。それゆえ、イェシュアはカペナウムで安息日ごとに人々に教えられたとあります(ルカ4:31)。そして「人々はその教えに驚いた。そのことばには権威があったからだ」とあります (同、4:30)。「権威があった」とはどういうことでしょうか。おそらくイェシュアに人々が驚くような言行一致の姿が見たのかもしれません。
  • いずれにもしても、イェシュアが最初に語った「悔い改めなさい。天の御国は近づいた。」というメッセージには、イュシュアのこれからなされるすべての教えと御業が意味する中核が記されています。それはバプテスマのヨハネが語ったメッセージと全く同じですが、表面的には同じに見えても、本質的には全く異なるメッセージなのです。ヨハネの「悔い改め」には「自分の罪を告白して、水のバプテスマを受ける」だけでなく、「悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、さばかれる」というものでした。ところが、御国の王であるイェシュアが命じる「悔い改め」は、ただただ「神に立ち帰る」だけなのです。何度でも・・・です。なぜなら、それは人間が自分の力や努力によって「悔い改めにふさわしい実を結ぶことなどできないからです。それは御霊によって可能なのですが、私たちのからだが御霊のからだに変えられない限り、すなわち復活のからだに変えられない限り、ふさわしい実は結べないから」なのです。しかし、人にはできなくても神にはできるのです。それが「新しい契約」が意味していることです。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 4章17節
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

  • マタイは「天の御国」とありますが、マルコは「神の国」と記しています。「天の御国」とは何なのでしょうか。イェシュアの語る教え、また奇蹟のみわざはどこを切ってもすべてこの「天の御国」のデモンストレーションなのです。使徒パウロもエペソの教会の人々に「御国の福音」を余すところなく語ったとあるように、この「御国の福音」は神のご計画の成就と密接な関係を持っています。

(1) イェシュアの生涯における宣教開始の時期

公生涯の時期.PNG
  • イェシュアが宣教を開始されたのは、およそ30歳です(ルカ3:23)。いわゆる3年半にわたる公生涯は、公に宣教を開始することによって始まりました。イェシュアが十字架にかけられたのは過越の祭りでしたから、その半年前ということになります。それは仮庵の祭り頃です。この時期は右の図でも分かるように、神のご計画においてとても重要な時期であることがわかります。
  • イェシュアが30歳になるまでなぜ働きを開始されなかったのでしょうか。12歳の時点ですでにエルサレムにいる律法学者たちに立ち向かえる十分な知識を得ていたにもかかわらず、30歳になるまで、沈黙の時を過ごされました。しかしその間、神の永遠のご計画を成し遂げるための十全な準備をなさっていたと思われます。律法によれば、祭司の働きは30歳になってからでした。イェシュアの「教える」という祭司的務めをなすために、律法に従われたのです。

(2)「悔い改めなさい」

  • イェシュアが語ったメッセージは、「悔い改めなさい」という命令でした。ギリシア語の「悔い改める」は「メタノエオー」(μετανοέω)、ヘブル語は「帰る」を意味する「シューヴ」(שׁוּב)です。どこに向かって帰るのかと言えば、神に向かって帰ることです。そこには、罪を悔いるとか、懺悔してとかの条件は一切ありません。ただただ神に「向き直る」ことが求められています。「悔い改めなさい」のギリシア語は現在命令形です。これは一回的な自覚的な堅い決心ではなく、何度も何度も繰り返して、神に向かって立ち返ること、向き直ることを意味しています。

(3)「天の御国が近づいたから」

  • 「悔い改めなさい」との命令の理由が語られます。その理由とは「天の御国が近づいたから」というものです。「天の御国」の「御国」は「バシレイア」(βασιλεία)、ヘブル語は「マルフート」(מַלְכוּת)です。御国とは王の支配する国、つまり、メシア王国のことです。その支配が「近づいた」とはどういうことでしょうか。ギリシア語の原文を見ると、「近づきつつある」という意味ではなく、また、限りなく近づいているというのでもなく、すでに近くに来てしまっているという「エンギゾー」(ἐγγίζω)の現在完了形が使われています。
  • 現在完了形とは、過去になされた出来事、その結果の状態が現在も続いていることを表わします。つまり、イェシュアの到来によって、「御国」がすでに来ていることを意味しているのです。それゆえ、イェシュアは「立ち帰る」、神に「向き直る」ことを繰り返し命じているのです。神はその「立ち返り」に対して、必ずや恵みをもって報いてくださるからです。これは預言者イザヤも語っていることです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書30章15節
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

  • なにゆえに、「立ち返る」者が「力を得るのか」と言えば、それは主が「あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる(「クーム」קוּם)」からです(同、30:18)。
  • イェシュアの語る「御国の福音」とはいかなるものか。そのことをじっくりと学んでいく新しい年であるように祈りたいと思います。

2017.1.8


a:10772 t:1 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional