ナホム書〔נַחוּם〕
ナホム書 (「ナフーム」נַחוּם)
ベレーシート
●十二の小預言書の第七回目は「ナホム書」を取り上げます。「ナホム書」から説教する人は稀です。なじみのある有名な聖句を挙げて説教する人も稀です。そのような聖句がないのです。しかも、ナホム書の神は「復讐する神、報復する神」です。「主はさばくために来られる」ということですから、神が「愛の神」だと知って信仰に入った者からは、なおさら敬遠される書です。とはいえ、この書でなければ味わえない特質があります。その特質とは、「救いとさばき」、「愛と復讐」、「慰めと苦難」がコインの表と裏の関係のように、一体であり、一つの出来事だということです。聖書は、繰り返される諸国の歴史を通して、神が最終的に何をなそうとするかを教える預言の書、つまり「これからのことが記された書」と言えるのです。
【新改訳2017】イザヤ書46章10節
わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。
●私たちが「後のこと」「まだなされていないこと」、すなわち将来なされる神のご計画を知るために、すでに神が「初めから」「昔から」告げておられるとあります。これは驚くべき視点です。つまり、聖書において、昔に起こった出来事を学ぶことは、これから起こることを学ぶことなのです。聖書は預言の書であり、これからのことを知るために不可欠な書です。神がしようとされることは、初めから終わりまで不変です。この世が変化したとしても、決して変わることはないのです。ですから、そのことを私たちは知る必要があります。
1. ナホム書の「初めと終わり」のことば
●今回は、ナホム書の最初の箇所(1:1)と最後の箇所(3:18~19)を取り上げてみたいと思います。なぜなら、そこにナホム書のメッセージが要約されているように思われるからです。
(A)【新改訳2017】ナホム書 1章1節
ニネベについての宣告。エルコシュ人ナホムの幻の記録。(B)【新改訳2017】ナホム書 3章18~19節
18 アッシリアの王よ。おまえの牧者たちは眠り、高貴な者たちはじっととどまっている。おまえの民は山々の上に散らされ、集める者はだれもいない。
19 おまえの傷は癒えることがなく、打ち傷は癒やしがたい。おまえのうわさを聞く者はみな、おまえのことで手をたたく。おまえの絶え間ない悪事が及ばなかった者がいるだろうか。」
(1) 「二ネべ」
●この書は、最強の帝国アッシリアの首都「二ネべ」に対する預言であることが分かります。ヨナ書でも「二ネべ」が扱われていました。「立ってあの大きな都二ネべに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ」(ヨナ3:2)と命じられたヨナによって、二ネべの人々は悔い改め、そのことで神のさばきを免れました。これは、「終わりの日」に、メシア再臨前に、イスラエルの残りの者(14万4千人)が起こされ、彼らによって大勢の異邦人が救われるということの預言的出来事であることを学びました。「恵みと嘆願の霊」によって悔い改めたイスラエルの民が、その時初めて御国の福音を伝える「王なる祭司」としての務めを果たすことになるのです。パウロのような者たちが起こされるのです。エックレーシアではなく、イスラエルの残りの者が「御国の福音」を宣べ伝えて、異邦人が大勢救われるのです。しかしナホム書にはそうした預言はなく、イスラエルに敵対する者たちが完全に絶ち滅びるという預言です。
●ナホム書はアッシリア帝国に対する神のさばきの書です。B.C.7世紀にアッシリアはエジプトにまで進出し、その主都「テーべ」を略奪します。「その幼子たちはあらゆる街角で八つ裂きにされ、高貴な人たちはくじで分けられ、おもだった者たちはみな、鎖につながれる」とあります(3:10)。そのようにして、古代オリエントの世界を統一します。アッシリアは異文化と異民族を統一した世界最初の帝国ですが、わずかその50年後に、アッシリア(=二ネべ)は歴史の舞台から姿を消してしまうのです。
(2) 「宣告」(マッサー)
●「宣告」と訳された「マッサー」(מַשָּׂא)の語源は「ナーサー」(נָשָׂא)で、「重荷、負い目」を意味しますが、「声を上げて告げられる神の決定」をも意味します。神がひとたび有罪と宣告されるなら、それが取り消されることはありません。同様に、神が無罪と宣告されるなら、それも取り消されることはないのです。そのように「宣告」とは、神の最終的な決定(=さばき)を意味します。その神の「宣告」と「幻」(「ハーゾーン」חָזוֹן)をナホムは見せられたのです。「幻」と「預言」とは同義です。
(3)「エルコシュ人」
●預言者ナホムの出身地である「エルコーシー」(אֶלְקֹשִׁי)という地がどこにあるかは不明です。しかしその地名を、「神」を意味する「エル」(אֶל)と、「コーシー」(קֹשִׁי)を「集める」を意味する「カーシャシュ」(קָשַׁשׁ)だと理解するなら、離散したイスラエルを「神が集める」ことを意味します。同時にそれは預言者「ナホム」(נַחוּם) の名前の語源「慰める」(「ナーハム」נָחַם)を意味する、と理解することができます。
●ナホム書の最初と最後のことばは、神の民イスラエルにとっては慰めとなることが、アッシリアにとっては神のさばきとなり、真逆の結果となることを啓示しています。事実、3章18節では、二ネベを首都とする「アッシリア」が「散らされ、集める者はだれもいない」とあります。ただし、ここでの「集める者」とは「カーヴァツ」(קָבַץ)の分詞です。前回のミカ書2章12節では、「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める」とあり、三つの「集める」という語彙で表されていました。さらにそこに「カーシャシュ」(קָשַׁשׁ)を加えることができます。この語彙は、ゼパニヤ書2章1節「ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ」で使われており、選民イスラエルが集まるためには心砕かれること(悔い改め)が要求されています。なぜなら、それによって「慰め」がもたらされるからです。しかしアッシリアに対しては一切の「慰め」はなく、支配階級と一般市民のすべてが滅し尽くされ、歴史から忽然と消え去るのです。そのことで、諸国の民はこぞって大喜びをし、「手をたたく」ことが記されています。今日、賛美した歌はそのことを表すものです。そのことを知って歌った人は、果たしていたでしょうか。私たちは、預言的賛美を知らずに歌っていることが多いのです。
【新改訳2017】詩篇47篇1~4節
1 すべての国々の民よ 手をたたけ。
喜びの声をもって 神に大声で叫べ。
2 まことに いと高き方【主】は恐るべき方。
全地を治める 大いなる王。
3 国々の民を私たちのもとに
もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。
4 主は 私たちのために選んでくださる。
私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。 セラ
●これはメシア王国を歌った預言的な歌です。この歌を歌うのは、イスラエルの残りの者ですが、まだそれは存在していません。しかし必ずそうなることを、この詩篇が証ししているのです。この詩篇47篇は「終わりの日」に起こることを預言しているのです。神がなされることを知るようになるにつれて、聖書全体が息づいてきます。
2. 「復讐する神、憤る神、怒る神」
【新改訳2017】ナホム書 1章2節
【主】はねたんで復讐する神。【主】は復讐し、憤る方。
【主】はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。
●「復讐する」を意味する「ナーカム」(נָקַם)は、大預言書に12回(イザヤ書1回、エレミヤ書7回、エゼキエル書4回)出てきますが、12の小預言書においては、ナホム書にしか出てきません。それも1章2節だけで3回です。さらに、形容詞の「ねたんで」(「カンノー」קַנּוֹא)も登場します。その動詞は「カーナー」(קָנָא)で、神の民に対しては「神の熱意、熱愛」を意味します(出エジプト20:5)。主のねたみは、あくまでもイスラエルに対して向けられています。主の民の心が他の神に対して向けられるとき、神はねたみ、憤られます。また主の民を軽んじ、敵意を持つ者に対して、神は復讐し、怒られます。「主は滅ぼし尽くす方。敵対する者は二度と立ち上がれない」(ナホム1:9)とあります。
(1) アッシリア帝国の歴史の概観
B.C.
3000 都市国家として始まる。
1800 メソポタミア最強の帝国となる。
1400 古代バビロニア帝国との覇権争いが続くが、
メソポタミア地方を統一。(右図を参照)
900 首都をハランに移し、イスラエルを圧倒する勢力
となり、721年サマリアは陥落。
700 エジプトにまで進出し、その首都テーベを略奪し
(664年)、古代オリエンタル全体の統一を果たす。
●ナホム書は、テーベの略奪(B.C.664)から二ネベ陥落(612)の間に記されたと言えます。エジプトを完全に支配した約50年後に二ネべは陥落。アッシリアは跡形もなく歴史から消えます。その理由がナホム書に記されています。その理由とは何でしょうか。アッシリアが滅びたのは、アッシリアがイスラエルを軽く考えたからです。単に、彼らが流血、略奪を繰り返したからではありません。神の復讐(報復)の基準は、イスラエルに対してどのようにふるまったかということなのです。
【新改訳2017】創世記12章3節
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う(קָלַל)者をのろう(אָרַר)。
地のすべての部族は、あなたによって祝福される(בָּרַךְ)。
●神の祝福とのろい、神の復讐の基準は単なる人道的な善悪ではなく、イスラエルに対するかかわりによって決定づけられるのです。預言者ナホムはユダの人々に対して、以下のように語っています。ただ読むだけでは人称を同定するのが難しいので、それを補って読んでみたいと思います。
(2)アッシリアの王センナケリブに対する神のさばき
【新改訳2017】ナホム書 1章9~15節
9 おまえたち(ユダ=Yとユダの王マナセ)は【主】に対して何を企むのか。主は滅ぼし尽くす方。敵対する者(アッシリア=A)は二度と立ち上がれない。
10 彼ら(A)は、絡みついた茨。大酒飲みの酔っぱらいのようだ。乾ききった刈り株のように焼き尽くされる。
11 おまえたち(A)の中から、【主】に対して悪を謀り、よこしまなことを企てる者(Aの王センナケリブ)が出た。
12 【主】はこう言われる。「彼ら(A)が壮健で、数が多くても、それでも、刈り取られて去って行く。わたしはあなた(Y)を苦しめたが、もう苦しめない。
13 今、わたしは彼(Aの王センナケリブ)のくびきを砕いてあなた(Y)から外し、あなた(Y)のかせを打ち砕く。」
14 【主】はおまえ(A)について命じられる。「もはや子が宿ることなく、おまえ(A)の名は絶える。おまえ(A)の神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち切る。わたしはおまえ(A)の墓を造る。おまえ(A)が取るに足りない者となったからだ。」
15 見よ。良い知らせを伝える人の足が、平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある。ユダよ、あなた(Y)の祭りを祝い、あなた(Y)の誓願を果たせ。よこしまな者たち(A)は、もう二度とあなた(Y)の間を通り過ぎることがない。彼ら(A)はみな、絶ち滅ぼされた。
●11節にある「よこしまなことを企てる者」は、へブル語で「ヨーエーツ・ベリッヤアル」(יֹעֵץ בְּלִיַּעַל)です。「ベリッヤアル」(ベリアル)は「サタン」の名称であり(Ⅱコリント6:15)、「獣」と呼ばれる反キリストの別名でもあります。アッシリアの王センナケリブを、聖書は「サタン」と同一視しています。生ける神をそしったセンナケリブに対するさばきはどうなったでしょうか。
【新改訳2017】イザヤ書37章36~38節
36 【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
37 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。
38 彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。・・・
●14節前半の「もはや子が宿ることなく、おまえ(A)の名は絶える」の原文直訳は、「あなたの名前から種がまき散らされることはない」です。動詞は「種を蒔く、はらます、妊娠する」という意味の「ザーラ」(זָרַע)の受動態で、それが「ロー」(לֹא)で否定されています。したがって子孫がないことを意味し、アッシリアの名は完全に途絶えることを意味しています。また14節後半の「おまえ(A)が取るに足りない者となったからだ」の「取るに足りない」と訳された原語は「カーラル」(קָלַל)で、「軽んじる、見下げる、卑しめる」という意味です。これはアブラムに対する「あなたを呪う(קָלַל)者をのろう(אָרַר)」の主のことばの成就です。
●かつてアッシリアは神の杖として、神の民を矯正するための道具として用いられました。ところが、彼らが自分の本分を越えて神に逆らったために、神は再び彼らをそのようには用いようとされないのです。それは同時に、ユダが彼らのくびきから完全に解放されることを意味し、ユダにとって「良い知らせを伝える」(「バーサル」בָּשַׂר)こととなり、それは同時に「平和」(「シャーローム」שָלוֹם)の訪れを聞くことにもなるのです。ちなみに、15節(新共同訳では2章1節)の「彼らはみな、断ち滅ぼされた」は預言的完了形です。アッシリアの完全な滅びがユダの慰めとなるのです。
●終末論的視点から見るならば、「べリアル」は確実に滅びる運命にあります。神はご自身の民であるイスラエルを立ち返らせるために、反キリストを用いられますが、最後にはこの反キリストおよび、その手下である偽預言者を滅ぼして、「生きたまま、硫黄の燃えている火の池に投げ込」みます(黙示録19:20)。このように、ナホム書1章はそのまま「終わりの日」における出来事の予型となっているのです。それゆえこの章は、主に身を避ける者にとっては力強い希望と慰めを与える書と言えるのです。
●「慰め」と「復讐(報復)」は表裏一体です。そしてその両者を結んでいるものが神の「熱意、熱心」(ねたみ)で、右図のように三位一体的関係を保っています。「良い知らせ」(「バーサール」בָּשָׂר)と「平和(シャーローム)」は、それら全体を包括しているのです。
3.再臨時のメシアの復讐(報復)
●以下の図はメシアの再臨を描いたものです。左と右、どちらが正しい図でしょうか。
●【回答】
これはどちらも正しい図です。左の図は、イスラエルの残りの者が「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言った時に、地の人々が見る光景です。イスラエルの残りの者が隠れている「ボツラ」に、メシアが天から下って来られるシーンです。そしてその後に、ボツラからオリーブ山に向かう時の姿が右の図の光景なのです。その経緯がイザヤ書63章に記されています。
【新改訳2017】イザヤ書63章1~6節
1 「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」
2 「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」
3 「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、
わたしの装いをすっかり汚してしまった。
4 復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。
5 見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤り、それがわたしの支えとなった。
6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」
●イザヤ書63章1節に「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は」とあります。なぜ「深紅の衣」なのでしょうか。それは再臨のメシアが「ボツラ」において、反キリストの軍勢と戦ってふりかかった返り血によるものです。なぜメシアが戦ったのかといえば、それは神の民の救いのためです。
●「エドム」(אֱדוֹם)はエサウの子孫ですが、その語幹の「ダーム」(דָם)は「血」を意味し、エドムの主要都市である「ボツラ」(בָּצְרָה)の語源である「バーツァル」(בָּצַר)は、「ぶどうを摘み取る」ことを意味します。そのぶどうを摘み取って、ぶどうの酒ぶねを踏むことで着物が赤くなることと、戦いで血の滴りがはねかかることを重ね合わせています。ちなみに、「ボツラ」とはエドムの主要都市で、ギリシア語は崖を意味する「ぺトラ」です。そこは、ユダヤ人たちが反キリストの軍勢から逃れて隠れた地です。
●イザヤ書63章1~6節は、イザヤ書34章5~6節、8節、およびヨハネの黙示録19章13~16節と呼応しています。
【新改訳2017】イザヤ書34章5~6節、8節
5 「まことに、天でわたしの剣は血に浸されている。見よ。これがエドムの上に、わたしが聖絶すると定めた民(=イスラエルの仇敵であったエドムの民)の上に下る。」
6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊とやぎの血、雄羊の腎臓の脂肪で。【主】がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
8 それは【主】の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年だからだ。【新改訳2017】ヨハネの黙示録19章13~16節
13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。
鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
●終末における神のご計画の中でも、キリスト再臨時のピースを時系列に並べることは最も難しいところです。なぜなら、聖書はそのように並べて記してはいないからです。しかしさまざまなピースが整合性を持つように並べることは、神のご計画を理解することにもなるのです。その流れの中で「ボツラ」の出来事の位置づけをする必要があります。キリストの地上再臨の最終はオリーブ山です。
●「獣」と呼ばれる反キリストによる大患難の終わり頃に、反キリストは神の民を破滅させるために、世界中からメギドの山の麓にあるイズレエル平原に軍隊を集結させます。そこはイスラエルの中でも最も広い平原です。この後、反キリストの軍勢は南下しエルサレムの町を包囲して崩壊させます。しかしすでにユダヤ人たちはエドムの「ボツラ」に退避しています。それ以前に、ユダヤ人たちは「恵みと嘆願の霊」が注がれ、悔い改めて、民族的な救いを経験しています。これが「イスラエルの残りの者」です。彼らを根絶しようとエルサレムからボツラに進軍した反キリストの軍勢に復讐するのが、イザヤ書63章1~6節に預言されているメシアです。彼は一人で戦われるのです。携挙された私たちエックレーシア(花嫁)は、その戦いを見ることになります。
●反キリストの軍勢は再びエルサレムに引き返しますが、エルサレムのヨシャパテの谷(幼児を神にささげるモレク礼拝をした場所であるケデロンの谷)で最終的な敗北を喫します。その時、彼らが流す血は「都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった」とあります(黙示録14:20)。
●その後、メシアは栄光の王としてエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立ちます。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができます(ゼカリヤ14:4)。これは大地震によるもので、これによってエルサレムは世界で最も高い山となります。そこを中心にして、旧約の預言者たちが語ってきたメシアによる統治、千年王国が樹立します。おそらくそこに第四神殿も建つはずです(エゼキエル40~48章)。
●イザヤ書63章に再度戻ります。
【新改訳2017】イザヤ書63章16節
まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、【主】よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
●預言者が神の民の代表として神に感謝と信仰告白を述べています。その中でひときわ目立つのが、「まことに、あなたは私たちの父です」(「キー・アッター・アーヴィーヌー」כִּי־אַתָּה אָבִינוּ)という告白です(16節に二回)。「私たちの父」とは、イスラエルの民を生み出された源泉である方という意味です。この告白は、かつて自分たちが十字架にかけたイェシュアこそ、神が遣わされた神の子メシアであるということに、、霊の目が開かれることなしには生まれません。イェシュアがメシアであることを告白させる霊こそ、「いのちを与える霊」となられた方です。ここに三一の神のいのちの秘儀があります。
●神の祝福と復讐の基準は、あくまでもイスラエルの民を祝福したか、それとも呪ったか(「カーラル」קָלַל)です。神の選びの民であるイスラエルを軽く見、卑しめ、無関心であることも、呪うこととみなされるのです。そのことを深く考えることを、ナホム書は私たちに訴えているのではないでしょうか。
三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。
2023.8.06
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