ビルダデに対するヨブの反論(1)
8. ビルダデに対するヨブの反論(1)
【聖書箇所】9章1節~10章22節
ベレーシート
- ビルダデ(בִּלְדַּד)の言ったことに対して、ヨブは「まことに、そのとおりであることを私は知っている。」と言い返します。「そんなことはわかっている。」「しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」、神の絶対的主権性を認めながら、自分が潔白であったとしても、何も変わらない現実の理由をヨブは探し求めているのです。苦難に対する伝統的・正統主義的教義をもってしては解決できない問題にヨブはぶつかっているからです。
1. 奪い取ろうとする神
- 長い間、祝福されたときをヨブは過ごしてきました。家族が祝福され、財産も豊かに与えられていました。にもかかわらず、なぜ今はすべてを失い苦しみに会っているのか。この疑問に対する答えを見出したいというのがヨブの願いです。
- エリファズやビルダデのいうことは、第三者に幸・不幸を説明する答えにはなるかもしれません。しかし、ヨブ自身には当てはまってはいないのです。以前に「祝福された生」と今の「苦しみの生」を同時に説明してくれるような、納得のいく解答を求めているのです。
- 9章17, 18節で「神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。」と語るヨブ。まさに「理由もないのに」(「ヒンナーム」חִנָּם)という神の仕打ちの不条理に抗議しています。理由のわからないことがヨブをこんなにも苦しめているのです。
- ヨブの目には、神は潔白な者も悪人をも同じように取り扱っているように思えているのです。それが12節にある「神が奪い取る」という表現です。この「奪い取る」と訳された動詞はここにしか使われていないものです。ヘブル語では「ハータフ」(חָתַף)で、「奪い取る、ひったくる」という意味です。神が何の前触れもなく、無理やりに奪い取られる方だとしたら、だれがそれをひきとめることができよう。だれにもできないのだとヨブは自問自答しているのです。
2. 神に対する訴え
- 10章では、ヨブが神に向って自分のいのち、たましい(いずれも原文では「ネフェシュ」)の苦しみを訴えています。2節の「なぜ」(「マー」מָה)にはじまって、18節の「なぜ」(「ラーンマー」לָמָּה)に至るまで、実に、繰り返し、「・・良いことでしょうか。」(3節)、「・・を持っておられるのですか。」(4節)、「あなたも見られるのすか。」(4節)、「・と同じですか。」(5節)、「・・を探られるのですか」(6節)・・・と問いかけ(訴え)続けています。(※)脚注
- その問いかけは歯に衣を着せない鋭いものとなっていますが、それはヨブの存在が神の意志によって存在しているという基本的信頼が根底となっています。
【新改訳改訂第3版】ヨブ記10章10~12節
10 あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、
11 皮と肉とを私に着せ、骨と筋とで私を編まれたではありませんか。
12 あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。
- H・W・ヴォルフは、その著「旧約聖書の人間論」(大串元亮訳、日キ出版、200~201頁)の中で、10節の「あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め」という概念は全く新しくかつ独特な概念であると述べています。つまり、この概念は類比であって、女性の体内に精液が牛乳のように注ぎ込まれ、受精に続いて、胎児の体が生じるということを意味しているとしています。つまり、人間の誕生が父や母の意志に帰せられてはおらず、「あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め・・・」とあるように、人間の創造が主に帰せられ、その御手のわざとされているということです。
- ヨブの神に対する訴えとして、特に20節のみことばに注目したいと思います。
【新改訳改訂第3版】
私の生きる日はいくばくもないのですか。それではやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。
【口語訳】
わたしの命の日はいくばくもないではないか。どうぞ、しばしわたしを離れて、/少しく慰めを得させられるように。
【新共同訳】
わたしの人生など何ほどのこともないのです。わたしから離れ去り、立ち直らせてください。
【中澤洽樹訳】
わが余命はいくばくもないではありませんか。わたしから目を離して、少しは楽にしてください。
【関根訳】
わたしは世にある日はもうわずかしかないではないか。わたしを離れ、せめて一息つかせてください。
- 20節は、ダビデならば「私はひとつのことを主に願った。それを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。」(詩篇27:4)となるのでしょうが、ヨブの場合は「ほんのわずかでも、死ぬ前に一度でもいいから主から離れていたい。」と真逆のことを言っているのです。というのは、ヨブにとって、神は自分が罪を犯すかどうか、常に、見張り、責め立てるように思えていたからです。神の絶対的主権性を認めつつも、そうした緊張から「わずかでも」(「メアト」מְעַט)解放されて、楽になりたいと思ったのです。
- 「明るくなりたい」「慰めを得たい」「立ち直りたい」「楽になりたい」「一息つきたい」とそれぞれ訳されたヘブル語動詞は「バーラグ」(בָּלַג)です。旧約聖書ではヒフィル態でのみ4回しか使われていません(ヨブ9:27/10:20、詩篇39:14、アモス5:9)。「輝かす」「陽気になる」「ほがらかになる」という意味です。
3. 「陰府」(よみ)の描写
- 10章21~22節
【新改訳改訂第3版】
10:21 私が、再び帰らぬところ、やみと死の陰の地に行く前に。
10:22 そこは暗やみのように真っ暗な地、死の陰があり、秩序がなく、光も暗やみのようです。
- ここには「陰府」(よみ)が描写されています。「陰府」のヘブル語は「シェオール」(שְאוֹל)ですが、そこはすべての死者が集められるところです。旧約聖書では65回使われています。そこは真っ暗な地であり、滅びの縁なのです。旧約の来世観は決して明るい物ではありません。ところが、詩篇16篇のダビデの賛歌には、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたの聖徒に、墓の穴(滅びを表わす)をお見せになりません。」(10節)と告白されています。これは預言的告白です。これはメシア詩篇で、やがて神の御子イェシュアが「よみに捨て置かれず」によみがえられます。このイェシュア・メシアによって、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」というイザヤの預言が成就したのです(イザヤ9:2)。
※脚注
ちなみに、このヨブ記10章は、ヘブル語文法における「疑問詞と疑問辞」についての良いテキストです。
2014.5.28, 30
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