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ヘブル語の「名」(セーム)の秘密

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MDRSH 2. ヘブル語の「名」(シェーム)の秘密

シムハー(御名―あなたの名)

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ベレーシート

「主の祈り」のミドゥラーシュの第一回目は「父」を意味する「アーヴ」の秘密について扱いました。第二回目は「名前」を意味するヘブル語「シェーム」(שֵׁם)の秘密について扱いたいと思います。「御名」という表現は英語で「ユアー・ネイム」(Your Name)です。それをヘブル語で表すとすれば、「シムハー」(שִׁמְךָ)となります。「主の祈り」の中の「御名があがめられますように」という祈りを考える前に、それと深いかかわりを持つことになる「天」を表わす「シャーマイム」(שָׁמַיִם)について、前もって触れたいと思います。


1. 「天にいます」という形容詞節の二つの解釈

  • イェシュアが弟子たちに教えた「主の祈り」と言われる祈りの冒頭には、「天にいます私たちの父」という表現があります。だれの父なのかという所属に焦点を合わせるならば、福音書には、「天におられるあなたがたの父」とも、「天におられるわたしの父」(マタイ7:21)とも表現されています。しかしここで問題としたいことは、「天におられる・・(父)」という表現です。つまり、「天におられる」とはどういうことかということです。

(1) 神の臨在される場所としての「天」

  • おそらく、私たちは「天におられる」といえば、父のいる場所についてイメージします。確かに、神のおられる場所のことを「天」ということばで表現している箇所は聖書の中に多くあります。聖書には「第三の天」という表現があります。人間にはふつうは近づくことのできない特別に神に近いところを指していると考えられます。使徒パウロはこの「第三の天」に引き上げられるという特別な経験をした人物でした。パウロはその「第三の天」を「パラダイス」と表現しています(Ⅱコリント12:2, 4)。
  • 「第三の天」というからには、第一の天、第二の天もあるわけですが、そうした表現は聖書の中にはありません。しかし、「天」には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、・・天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)とあるように、いくつかの階層があることは確かなようです。とすれば、神のおられる「天」とはそれらとは異なる、最高位の場所にあることになります。しかもその「天」はそう簡単にだれにでも見える場所ではありません。「天」が開かれることでもなければ、だれ一人として見ることは出来ないのです。ところが、その天が開かれて、天におられる神を「父」という名で示現してくれた方がいます。その方こそ、父のみもとから来られた神のひとり子「イェシュア」(固有名詞)です。
  • 御子その方が御霊の産出ではありますが、御子がこの地上において「御父」を示現する公生涯に入る時に、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられる」のをバプテスマのヨハネは目撃しています。御子が天上のことを語る上でも、御父のことをあかしする場合でも、天が開かれて「御霊」が御子イェシュアの上に下る必要があったのです。
  • ヨハネの福音書第一章はこの福音書の全体が要約されていると言われています。その第一章の最後にあることばはきわめて重要です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(新改訳;ヨハネ1:51)
  • 天が開けて、神の御使いたちが人の子、すなわちキリストの上に上り下りするとは、キリスト・イェシュアこそ、天と地を完全に結ぶ存在であることを象徴的に表していると言えます。

(2) 神と同義としての「天」

  • 「天にいます」の「天」というもうひとつの意味は、特にマタイにおいては、「神」と同義で使われています。マタイの「主の祈り」には、「天にいます・・の父」となっていますが、並行記事を持つルカの福音書では、「天にいます・・・の」という部分はなく、「父よ」という呼びかけだけになっています。「天にいます父」「天におられる父」「天の父」の「天」はマタイ独自の表現ですが、これは「神」と同義です。その証拠に、他の福音書で「神の国」としているところを、マタイのみが「天の御国」という表現を用いています。「神の国」と「天の御国」の英語の表現は、前者が the kingdom of God 、後者が the kingdom of heaven、ヘブル語表現では前者は「マルフート・エローヒーム」(מַלְכוּת אֱלֹהִים)、後者は「マルフート・シャーマイム」(מַלְכוּת שָׁמַיִם)です。ここでの「天」とは場所を表わす意味ではなく、御国を支配し、統治する者がだれであるかを意味しています。つまりマタイは、「天」を「神」(エローヒーム)を表わす婉曲的表現として使っていることが分かります。神(エローヒーム)と天(シャーマイム)は同義なのです。
  • このことを別の視点から見てみたいと思います。「天にいます」の「います」ということばはどういう意味でしょうか。「天にいます」の部分をギリシア語では「パーテル・ヘーモーン・ホ・エン・トイス・ウーラノイス」となっています。

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  • これをヘブル語訳で見てみると、「アーヴィーヌー・シェバッシャーマイム」となります。

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  • 「シェバッシャーマイム」は三つの部分からなる合成語です。ひとつは関係代名詞の「アシェル」(אֲשֶׁר)のשֶׁ、次の前置詞「べ」(בְּ)、そして最後の三つ目は「シャーマイム」(שָׁמַיִם)です。
  • 問題は、真ん中にある、英語で言えば「イン」(in)、ギリシア語では「エン」(εν)、ヘブル語での「ヴェ」(בְּ)をどのように訳すかです。この前置詞は場所や位置を示すと同時に、様式方法をも意味します。そうした意味から考えるならば、「天」という様式(呼び方)で表わされる私たちの神である父というニュアンスになります。
  • こうしたことは、聖書では決して目新しいものではありません。すでに創世記2章7節にある「神である主」(新改訳)、「主である神」(新共同訳)という表現があります。ヘブル語ではいずれにしても「アドナイ・エローヒーム」(יהוה אֱלֹהִים)と表現します。もっとも、「アドナイ」と発音されている יהוהは神聖四文字と言ってユダヤ人は発音せず、その代わりに「主人」を意味する「アドナイ」と発音します。この神聖四文字こそ、神の重要な固有名詞なのです(神は普通名詞)。新改訳では「太文字」の、あるいは【 】つきの【】で表わしています。もし、この推察が正しければ、マタイはなぜ神を「天」で表わしたのでしょうか。実は、そこが、次の課題である「御名」の秘密と大いに関係してくるのです。
  • ちなみに、使徒パウロの次のことばにも注目しておきましょう。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は、「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)
    ここには三位一体の神が、祈りという行為の中に働いておられることを示しています。
  • つまり重要なことは、今回のミドゥラーシュである「御名があがめられますように」との祈りは、御父と御子と御霊との密接なかかわりをもっているということです。聖霊によって誕生された御子は、天が開かれて注がれた御霊の助けによって、はじめて人々に、神を父という呼び名で示現されたのです。その父の「御名があがめられるように」と祈りなさいと弟子たちに教えられたのです。では、この「御名があがめられる」とはいったいどういう意味なのでしょうか。「御名」とは何で、それが「あがめられる」とはどういうことを意味しているのでしょうか。

2. ヘブル語の「シェーム」に隠された秘密

(1) 「シェーム」の語根には神の「息・風」がある

  • ヘブル語で「名」は「シェーム」(שֵׁם)です。これと関係する他の語彙を見ていくと以下のような語彙が並びます。

    (1)「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)―「息・息吹・風」
    (2)「シャーマイム」(שָׁמַיִם)―「天・大空」
    (3)「シャーマム」(שָׁמַם)―「荒廃する」
    (4)「シェマーマー」(שְׁמָמָה)―「荒廃、滅び」
    (5)「ヤーシャム」(יָשַׁם)―「荒廃する、滅びる」
    (6)「ナーシャム」(נָשַׁם)ー「あえぐ」
    ※(3)~(5)は、乾風(dry wind)によってもたらされる荒廃です。

    シェームの語幹類語.JPG
  • (1) ~(6) に共通なのが、「名」を表わすשׁםという語根であり、その概念は「風」「息」です。
  • 創世記2章7節において、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とあります。ここでの「息」が「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)です。それと同じ「息・息吹・風」を表わす語彙が「天」(שָׁמַיִם)です。とすれば、天においても、地の人の内にも同じ息があるということです。ここに天と地、神と人とを結ばせる息があります。この「息」とは何なのでしょう。
  • 「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)は旧約では24回使われていますが、それは神の息であり、人を生かすこともできれば、滅ぼすこともできる力をもった神の息吹です。また、自然界において、その息吹は海の底や地の基をあらわにし、水を氷に凍らすことのできる力でもあります。またその神の息は人にいのちを与え、悟りを与えるのです。

    ヨブ記4:9 「彼らは神のいぶき(נְשָׁמָה)によって滅び、その怒りの息(רוּחַ)によって消えうせる。」
    ヨブ記27:3 「私の息(נְשָׁמָה)が私のうちにあり、神の霊(רוּחַ)が私の鼻にあるかぎり、」
    ヨブ記32:8「 しかし、人の中には確かに霊(רוּחַ)がある。全能者の息(נְשָׁמָה)が人に悟りを与える。」
    ヨブ記33:4 「神の霊(רוּחַ)が私を造り、全能者の息(נְשָׁמָה)が私にいのちを与える。」

  • 上記の聖句は、ヘブル語特有の修辞法であるパラレリズム(同義的並行法)で書かれていますが、それによれば、「ネシャーマー」と「ルーアッハ」は同義であることが明確に分かります。「息・風」は、常に、うごめき、活動をしています。その動きはだれも予測することは出来ません。イェシュアも「風はその思いのままに吹き、・・その音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」(ヨハネ3:8)と言われ、御霊の働きの不思議さを語っています。神の息を与えられた者は、常に、神とのかかわりを持ち、悟りの知恵を持ち、神のみこころをなす生きた存在となります。これが神の息を吹き込まれた人間本来のあり方です。神と向き合い、神と共に歩み、神のみこころを知り、神のみこころを行うことを喜びとする存在です。
  • こうした本来の人間の姿をはっきりと私たちに見せてくれたのが、最後のアダムと言われるイェシュアでした。なぜ「イェシュア」が「最後のアダム」と言われるのかと言えば、「最初のアダム」の失敗を踏み直された方だからです。御子イェシュアを通して現わされる「御父」という「御名」こそ、私たちとかかわり、私たちを救いに導く唯一の神です。そしてその「御名」は、罪に満ちた私たちを神と和解させる力を持ち、三位一体なる神のゆるぎない愛の交わりへ、永遠のいのちへと招くことのできる御名です。
  • 神は、神ご自身が選ばれたイスラエルの民を通して、歴史という舞台において、神ご自身がいかなる方であるかをあかししてこられました。それが神の「名」となっているのです。創世記を見るだけでも、神が人とかかわりを持つことであかしされた独自の御名が記録されています。御名を知ることは、神を知ることでもあるのです。

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  • 以上は創世記に出て来る「御名」です。すべて、人とのかかわりにおいて現わされた神の御名です。

(7) モーセに明らかにされた神の御名は「エイェ・アシェル・エイェ」。その意味は、「わたしはなろうとするものになる」という意味で、絶対的自由意志が語られている御名です。モーセはこの方の御名に最初にふれた人物です。その経験から彼はモーセ五書を書き記したと考えられます。

(8) イェシュアが人となって来られたことによって啓示された御名は「父」(「アーヴ」אָב)です。

「御名」とは、神が人とのかかわりにおいて示現するその独自性と活動性の総括的概念(巨大なフォルダ)なのです。

(2) 名前を意味する「シェーム」には必ず神のメッセージが隠されている

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  • 名前を意味する「シェーム」は、「シーン」(שׁ)と「メーム」(מ)の二つの文字で作られています。「シーン」は歯を意味する文字ですが、そこから「食い尽くす」「尋ね求める」というような意味が派生します。一方、「メーム」は「水、真理」を意味します。つまり、真理を尋ね求める者には名前の中に隠されている意味を悟ることができることを示唆しているとも言えます。ヘブル語の名前には、単なる記号的な意味合いは全くなく、必ずやそこに深い神の意図が隠されていると信じます。このことについては、「アダムからノアまでの10人の人物の名前の意味」も参照してください。また、「ネーム・セオロジー」(Name Theology)という神学的領域もあるようです。

3. 「御名があがめられる」とはどういうことか

  • さて、「あがめられるように」と訳された「あがめる」とは、ギリシア語で「ハギアゾー」(άγιαζω)という言葉が使われています。それに対応するヘブル語動詞は「カーダシュ」(קָדַשׁ)です。動詞の「カーダシュ」、名詞の「コーデシュ」(קֹדֶשׁ)、形容詞の「カード―シュ」(קָדוֹשׁ)、いずれも、きわめてヘブル的な特徴をもった独自の語彙と言えます。それは人間的な概念を全く寄せ付けない独自な語彙です。旧約聖書における「聖」(コーデシュ)の概念は神のものであり、人間のものではありません。それゆえ、御名が「あがめられるように、聖なるものとされるように」とは、人間の概念ではなく、神の概念で御名が知られますようにという意味です。それは神の悟りの息が必要です。それなしには神の概念で御名を理解することはできないからです。一切の人間的な概念を排除する意味において「聖」なのです。
  • 使徒パウロは、Ⅱコリント5章16節で、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」と記していますが、ここでの「人間的な標準」とは、人間的な物差し、眼鏡、価値基準で神もキリストも人も知ろうとはしない、というパウロの自覚的な信仰の宣言です。このことが、今回の「あがめさせ」ということばと連動しているように思います。
  • キリストにある「新しく造られた者」として、生ける神の御霊によって、三位一体なる神の「御名」を普通名詞の「神」としてではなく、固有名詞としてもっと深く知りたく思います。そして祈ります。

    「主よ。私をして、御名をあがめさせたまえ。」と。


2014.3.5


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