****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ホセア書〔הוֹשֵׁעַ〕

ホセア書〔「ホーシェーア」הוֹשֵׁעַ

ベレーシート

●旧約聖書の「十二の小預言書」の最初の書に「ホセア書」があります。「十二」という数は、「神が欲し、慕い、切望する」という意味の「アーヴァー」(אָוָה)のゲマトリアです。そうした思いを持ってこれらの「小預言書」を見るならば、親しみが湧いてきます。「十二の小預言書」は著者も、書かれた時代もそのテーマも異なっているにもかかわらず、神のご計画のヴィジョンが貫かれています。それは「イスラエルの死と復活」を通して実現します。教会はそこに接ぎ木されています。創世記1章が示しているように、「茫漠として何もない」(「トーフー・ヴァーヴォーフー」תֹהוּ וָבֹהוּ)の地が、光であるイェシュア・メシアによって復活させられるという神のご計画が、イスラエルを基軸とした歴史の場で実現されていくのです。創世記1章でくり返される「夕があり、朝があった」というフレーズも、そのことを預言しています。

●ホセア書は北イスラエル(エフライム、失われたイスラエル十部族)について記され、彼らに対する主の恵みが強調されています。「恵み」と訳された「ヘセド」(חֶסֶד)は「真実の愛」(確かな愛、不変の愛)とも言い換えられます。イスラエルに対する主の愛は尋常ではありません。今回は、ホセア書の1章と14章を通して、イスラエルの「死と復活」の預言を学びたいと思います。

1. 破局状態にある「神とイスラエル」

●ホセア書1章は、ホセア書全体がコンデンスされた序文的な位置にあるだけに重要です。1章1~9節では、イスラエルの民が淫行にふけり、姦淫の罪を犯したことで、夫である神とのかかわりが壊れ、「破局」の状態にあることが記されています。ところが7節、10~11節と2章1節に、本来ならばあり得ない「回復」の預言がなされているのです。

【新改訳2017】ホセア書1章1~11節
1 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。
2 主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」
3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。
4 主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。
5 その日、わたしはイズレエルの平原で、イスラエルの弓を折る。」
6 ゴメルはまた身ごもって、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さないからだ。
7 しかし、わたしはユダの家をあわれみ、彼らの神、主として、彼らを救う。ただし、弓、剣、戦い、あるいは馬、騎兵によって救うのではない。」
8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、身ごもって男の子を産んだ。
9 主は言われた。「その子をロ・アンミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」
10 イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。
11 ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。

画像の説明

●上記の図はホセアの家族のそれぞれの名前です。いずれも神のご計画を示すものとなっています。妻ゴメルと第一子「イズレエル」は、神の「さばきと回復」という両義性を有する名前であり、「イズレエル」については神自ら命名しています。

① 夫の「ホセア」(הוֹשֵׁעַ)は、語源「ヤーシャ」(יָשַׁע)から派生した「救い」という語彙。
② 妻の「ゴメル」(גֹּמֶר)の語源「ガーマル」(גָּמַר)は「絶える、(失敗して)断たれる」という意味と、「(主によって)成し遂げる、完遂する」という意味のヘブル語特有の両義性をもった語彙です。
③ 第一子の息子「イズレエル」(יִזְרְעֶאל)の語幹「ザーラ」(זָרַע)は、本来「種を蒔く、種が蒔かれる」という意味ですが、これも「散らされる」と「実を結ぶ」という両義性を持った語彙です。前者は離散というさばきを意味し、後者は神のあわれみによる回復を意味しています。1章4~5節の「イズレエル」は前者の意味で使われ、11節の「イズレエル」は後者の意味で使われています。
④ 第二子の娘「ロー・ルハーマー」(לֹא רֻחָמָה)は「あわれまれぬ子、愛されぬ者」という意味で、それは「わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さない」(6節)という神のさばきを意味します。
⑤ 第三子の息子「ロー・アンミー」(לֹא עַמִּי)とは「わたしの民ではない」という意味です。「ロー・ルハーマー」「ロー・アンミー」、いずれも「ロー」(לֹא)は強い否定を表わします。原文では「ロー」(לֹא)が短縮されて「ロー」(לֹ)となっています。

●ホセアとゴメルの夫婦関係は、神とイスラエルの関係のたとえとなっています。旧約において神とイスラエルの民はエジプトを脱出した後、シナイ山で合意による結婚の契約を交わしました。ところが、ホセアの妻ゴメルが姦淫の女(「イッシャー・ゾーナー」אִשָּׁה זוֹנָה)と呼ばれているように、イスラエルの民も同様に姦淫の子らなのです。「姦淫」の罪は霊的な偶像礼拝です。この偶像礼拝の罪によってイスラエルは滅びたのです。偶像礼拝の罪とは「神である主」以外のものを神とする罪です。十戒の第二戒は「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」と、この罪を戒めています。偶像とは「自分のために造られる」神なのです。

●偶像とは「おのが腹を神とする(=自分の欲を神とする)」ことであり、「世と世にあるものを愛すること」でもあります。それは無限に自己を肯定してくれる神と言えます。しかし「世と、世の欲は過ぎ去ります」(Ⅰヨハネ2:17)。ホセアの妻ゴメルは世を愛する者でした。Ⅰヨハネの手紙の最後はどんなことばで締められているでしょうか。それは、「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」ということばです。このような命令形で終わる手紙は他にはありません。普通は祝福のことばで終わっています。とても珍しい手紙であると同時に、重要な手紙と言えます。

(1)「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ」との主の命令

【新改訳2017】ホセア書1章2~3節
2 主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。 「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」
3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。

●イスラエルの民は、夫である主なる神を捨ててバアルの神に心を寄せることで不貞の妻となっていました。ホセアの妻となるゴメルも同様に不貞の罪を犯しました。ところが神である主は、ホセアに「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ」と命じられたのです。これがホセアの召命です。

●「ディブライムの娘ゴメル」の「ディブライム」(דִּבְלָיִם)は「干しいちじく」(דְּבֵלָה)の複数形です。「いちじく、いちじくの木」はイスラエルを表象するものです。それが複数形であることから、北イスラエル王国と南ユダ王国の双方が内包されている名前かもしれません。時代は異なっていても偶像礼拝という同じ罪で、北イスラエルはアッシリアによって世界離散し、南ユダはバビロンによって捕囚という憂き目を経験し、さらには時を隔てて彼らも世界離散する羽目になります。したがって「ディブライムの娘ゴメル」には、偶像礼拝する全イスラエルに対するメッセージとも言えるのです。

●神がホセアに対して命じたことは、神がイスラエルの民に対して将来なされること(終わりのこと)の預言的な「型」となっているということです。ホセアは姦淫の女と子どもを引き取るという痛みを通して、神である主の痛みを共有するという実物教育を受けた特別な預言者と言えます。

(2) 主の回復の預言

●新改訳聖書では1章は11節で終わっていますが、回復の預言は1章10~11節、そして2章1節にまでまたがっています。そこに記されている預言に注目してみましょう。

【新改訳2017】ホセア書1章10~11節、2章1節
10 イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。
11 ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。
2:1 言え。あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者」と。

●「イズレエルの日」に、つまり「神が蒔かれた種が多くの実を結ぶ回復の日」に、第三子の「ロー・アンミー」(「わたしの民ではない」)が「生ける神の子ら」に、第二子の「ロー・ルハーマー」(「あわれまれぬ子、愛されぬ者」)が「あわれまれる者」として完全に回復されるのです。2章1節に「言え」とありますが、それは預言的完了形の命令です。つまり、「完全にそのようになる」ゆえの命令形なのです。

●ここで預言されているのは、将来のメシア王国において成就する回復の預言です。十二の小預言書における回復の預言はすべて、将来のメシア王国に成就する預言なのです。それが各書に散りばめられているのです。ホセア書の回復の内容は以下の通りです。

(1) アブラハムの子孫である全イスラエルの子らに対する「子孫繁栄の約束」が成就すること
(2) ユダとイスラエルの人々が「ひとりのかしら」、すなわちメシアによって一つに集められ、すべてが「生ける神の子ら」となり、神に「あわれまれる者」(「ルハーマー」רֻחָמָה=愛される者)となること。
(3)「イズレエルの日」に、神が蒔かれた種(神の約束、神のことば)が多くの実を結ぶようになること

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2. イスラエルの十部族の回復の預言―祝福への帰還―

●上記で預言されたことが起こるためには「主に立ち返る」ことが求められているのですが、ホセア書とゼカリヤ書とでは異なります。ゼカリヤ書はユダヤ人がバビロン捕囚から帰還した人々のための書です。ユダヤ人は終わりの日に、「獣」である反キリストをメシアだと思い込んでしまうゆえに未曽有の苦しみを味わいますが、その大患難の中で突如として「恵みと嘆願の霊」が注がれることで悔い改めるのです(12章)。ところがホセア書におけるイスラエルの十部族の「立ち返り」は、それとは異なっています。「立ち返り」に関するホセアの預言を見ると以下のようになります。

(1)【新改訳2017】ホセア書11章10~11節 

10 彼らは主の後について行く。主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。
11 鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る。わたしは彼らを自分たちの家に住ませよう。──主のことば。

●「彼ら」とはエフライム(北イスラエル)のことです。その「彼らは主の後について行く」という主への立ち返りが記されています。しかしそうなるための主の動機が8節に記されています。これは回復の前のさばきの時の主の心情です。

【新改訳2017】ホセア書11章8節
エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。・・・わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

●特に「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」を、新共同訳では「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」となっています。この心情がエレミヤ書31章20節では「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」と描かれています。この主の熱い心情をエフライムが理解して、主に「立ち返る」時が必ず来るのです。そのことがホセア書11章9~11節に預言されているのです。

●そこでの特徴は「主は獅子のようにほえる」(10節)です。権威ある「獅子」である主がほえると、「鳥」や「鳩」であるイスラエルの十部族の者たちは西から、エジプトから、アッシリアの地から「震えながらやって来る」とあります。「震えながら」とは「
恐れながらも胸をときめかしながら」という意味です。また「西から、エジプトから、アッシリアの地から」とは「全世界から」という意味です。彼らはどこにやって来るのかと言えば「自分たちの家」、つまりシオン母なるエルサレムです(詩篇87篇)。詩篇122篇3~4節にこうあります。

【新改訳2017】詩篇122篇3~4篇
3 エルサレムそれは一つによくまとまった都として建てられている。
4 そこには多くの部族 主の部族が上って来る。
イスラエルである証しとして主の御名に感謝するために。

●エルサレムは「一つによくまとまった都として建てられている」とあります。この都はメシア王国の都エルサレムです。都である「イール」(עִיר)は女性形です。それは天にある「聖なる都エルサレム」の写しですが、「一つによくまとまった都」として「母」としての機能を持っています。これは創世記3章20節にあるエバ(原文は「ハッヴァー」חַוָּה)としての預言的な「母」です。

(2A)【聖書箇所】ホセア書14章1~3節

1 イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたは自分の不義につまずいたのだ。
2 あなたがたはことばを用意し、主に立ち返れ。主に言え。
「すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。
3 アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません。みなしごがあわれまれるのは、あなたによってです。」

●1節の「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。」という主の呼びかけがなされていますが、この呼びかけにおいて重要なのは、方向性を示す前置詞「エル」(אֶל)ではなく、「アド」(עַד)が使われていることです。「アド」という前置詞があることで、「究極の地点まで」という意味合いが強まります。もっと深く、もっと親しく、主のふところに入り込むような立ち返りが求められているのです。しかもそこにしっかりととどまり続けることを意味します。ですから、新共同訳では「主のもとに立ち返る」と訳しています。

●アッシリアの捕囚となったイスラエルの十部族は離散して、その所在は現在も不明です。おそらく異邦人化されていると思いますが、それを知っておられるのは神だけです。しかし主は彼らを見捨てることなく、やがて終末において「主のもとに立ち返る」ようにさせるのです。それが彼らに残された唯一の道だからです。ちなみに、14章2節の「主に立ち返れ」は「エル・アドナイ」(אֶל־יהוה)となっています。つまり、主に立ち返る際には三つの合言葉を告白(宣言)するように促しています。

① アッシリアのような目に見える強国には頼らないこと。
② 馬(戦車)のような軍事力には頼らないこと。
③ 手で造った偶像には頼らないこと。
それらは自分たちを救えないことを、心から告白することです。

●これらの内容はすべて偶像に頼らないという宣言です。北イスラエルは偶像礼拝によってアッシリアによって離散、および異邦人と雑婚させられました。したがって彼らが主のもとに立ち返って来る前に、主は自ら、二度と破られることのない民との究極的な交わりを築くために、彼らを赦して、偶像礼拝からの「立ち返り」を求められているのです。それが以下の箇所です。

(2B)【新改訳2017】ホセア書14章4節

わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。
わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。

●この箇所はきわめて重要です。主がご自身の怒りから離れて、完全に赦してくださったので、背信していた者たちが主のもとに立ち返ることができるからです。ここに神の主権的なみわざがあります。一度選んだ民に対する主の究極の愛が表わされます。言い換えるなら、神が永遠のいのちに選んでおられるので、このようにして神の民イスラエルは回復し、メシア王国が実現するのです。

●ホセア書には「ヤコブの苦難の日」についての直接的な預言はありません。ですから、北イスラエルの十部族の完全な「立ち返り」がいつなされるのかについては定かではありませんが、明確に「偶像には頼らない」という宣言が求められているということは、「獣」である反キリストが立ち上がって来る頃にそれがなされるのではないかと考えられます。そして、メシア王国において、全イスラエルが神のあわれみによって回復し、自国であるエルサレムに帰ることになると考えられます。それが14章5節以降の預言です。そのときの回復の祝福が、以下のように自然界の比喩によって描写されています。

(2C)【新改訳2017】ホセア書14章5~9節

5 わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。
6 その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。
7 その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
8 エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」
9 知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。【主】の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。

●私たち教会も、5~9節にあるメシア王国の祝福にあずかります。その祝福の一つひとつを味わうことは、私たちの霊を豊かに潤すことになります。5節に「わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る」とあります。「彼」とはイスラエル(北イスラエル=エフライム)のことです。「ゆり」=「ショーシャーン」שׁוֹשָׁןは急速に繁殖するため、それ自体が実り多いことを示すたとえとなっています。また「レバノン杉」は深く根を張り、高く真っすぐに伸びることから、イスラエルがそのようなものに変えられるという祝福です。ちなみに、イザヤ27章6節にも「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす」とあり、メシア王国における豊かな結実を描いています。

●6節に「その若枝(「ヨーネケット」יוֹנֶקֶת)は伸び」とあります。「その」はイスラエルを指しているとすれば、「若枝」はメシアです。イザヤ書53章2節の「若枝、ひこばえ」(יוֹנֵק)も同じ語幹をもつ語彙です。「その輝き」(「ホード」הוֹד美しさ・麗しさ)はオリーブの木 (オリーブの木は常緑樹)のように、「その香り」はレバノン杉のようになります。メシアが木にたとえられて、主に立ち返ったものたちは、その木の「陰に住むものたち」となり、以下のような祝福を受けるのです。

7節 
その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。
その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

●イスラエルはメシアの庇護の下で「生き返り」「芽をふく」だけでなく、その「名声」(原文は「香り」を意味する「レーアッハ」רֵיחַ)は「レバノンのぶどう酒のような」香りを放つことを示しています。これは「死と復活を含んだキリストの香り」と同義です。

8節
エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」

●8節の「エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか」という問い掛けは、「偶像礼拝の愚かさ」を明らかに示しています。「わたしが応え、わたしが世話をする」とあります。メシアがすべての供給者となるのです。「緑のもみの木」とは「新鮮なもみの木」とも訳せます。「もみの木」は「ベローシュ」(בְּרוֹשׁ)で「糸杉」とも訳されます。クリスマスの木として使われる代表的な木で、樹形がなんとも美しい木です。この「べローシュ」の初出箇所には以下の記述があります。

【新改訳2017】Ⅱサムエル記 6章5節
ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らし、【主】の前で、すべての杉の木の枝をもって、喜び踊った。

●新共同訳は「杉糸の楽器」と訳しています。大昔から「もみの木」は聖なる木として、生き物の生命力を高め、傷ついている者を癒す力があるとされています。モーセの幕屋の木材はアカシアのみでしたが、「もみの木」は神をたたえる楽器の材料だけでなく、神殿の重要な材料でした。それは地の上に注がれる神の恵みを表象する代表的な木と言えます。「わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ」とは、豊かで新鮮な恵みを常に供給することのできる神の自己宣言なのです。

9節
知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。【主】の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。

●ホセア書の回復の預言は、イスラエルの十部族に対してだけでなく、メシア王国のすべてのものに対する預言です。「花、木、穀物」のすべてがキリストを啓示するたとえとなっており、キリストがその祝福を十分に満たすことを啓示しています。「主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み」とありますが、ここでの要点は、主の道は「平らである」(「ヤーシャール」יָשָׁר)ということです。「ヤーシャール」は「まっすぐにする」という意味の語源「ヤーシャル」(יָשַׁר)の形容詞で、これから派生した語彙に「エシュルン」(原語は「イェシュルーン」יְשֻׁרוּן)があります。「エシュルン」はイスラエルの雅名です。つまり、「主の道は平らだ」という意味は、主のなされるご計画は全イスラエルを基軸とするものであるということなのです。ですから、「正しい者」(「イェシャーリーム」יְשָׁרִים)が、「これに歩み」とは、「全イスラエルに接ぎ木されること」を意味するのです。そして、このことを悟る者は幸いなのです。

ベアハリート

●十二の小預言書から今回はホセア書を取り上げました。十二の小預言書には、共通して「終わりの日」のメシア王国のすばらしさが語られています。しかし、そのすばらしさは「死と復活」を通った甘い香りです。「知恵ある人はこれらのことを悟れ」、「悟りのある人はそれらのことをよく知れ」(14:9)とあるのは、神のすばらしい、これ以上にない甘い事柄を理解することなのです。預言者たちが啓示するメシア王国とは、まさにこの神の甘さが全地に満ち満ちる世界です。そして、その世界がイスラエルを基軸として完成・成就するのです。これがイェシュアの宣べ伝えたところの「御国の福音」です。そして「最も小さな者」と自称した使徒パウロが「余すところなく伝えた福音」も、この御国の福音でした。この福音は自分の口を通して語れば語るほど心が燃やされるのです。希望が溢れて来るのです。そして、「おのが腹を神とする」偶像を避ける唯一の力ともなるのです。「シェーム・イェシュア」と叫んで、この福音を語れる者となりましょう。

●イスラエルに対する神のご計画は決して挫折することはありません。なぜなら、彼らは選びの民だからです。主はアブラハムに対して取り消すことのできない契約を結びましたが、それはすでに天において定まっていたからです。ですからそれは究極のかたち、すなわちキリストの「死と復活」による新創造で履行されなければならないのです。天のいのちの書に名が記されているならば、私たちがたとえどんな失敗をしたとしても、神の誓いは破棄されたり、無効になったりはしないのです。必ず、最終的に悔い改めに導かれる運命にあるのです。これがホセアに託された神からのメッセージではないでしょうか。私たちもこの恵みに接ぎ木されていることを喜びたいと思います。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2023.5.14
a:1331 t:2 y:4

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