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マラキ書における終末のヴィジョン

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5. マラキ書における終末のヴィジョン

【聖書箇所】 3章1~5節

ベレーシート

  • 3章1〜5節はマラキ書の中でも重要な箇所です。なぜなら、神のマスタープランにおける終末のヴィジョンが記されているからです。どの預言書にも、必ず、このヴィジョンがどこかに記されているのです。神のご計画を終わりの日から理解することこそ、「御国」の視点で聖書を読むということになるのです。つまり、絶えず「木を見ず、森を見る」という読みの訓練が求められるのです。

1. 主の来臨の予告

  • 3章は「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)で始まります。この用語はあることに注意を向けさせるときに用いられます。1節は主の初臨が予告され、2節以降では主の再臨が予告されています。重要なのは主の再臨によって実現される事柄です。

【新改訳改訂第3版】マラキ書3章1〜2節
1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の【主】は仰せられる。
2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。


(1) 「使者」について

  • 「使者」のことをヘブル語では「マルアーフ」(מַלְאָךְ)と言いますが、「わたしの使者」となると、それに1人称語尾がついて「マルアーヒー」(מַלְאָכִי)となります。ここで遣わされる「わたしの使者」とは(預言者のマラキ自身がそうなのですが)、マラキ書4章5節によれば「預言者エリヤ」のことと考えられます。後にイェシュアがこのエリヤのことを「バプテスマのヨハネ」だと解釈しています(マタイ11:7〜14)。また弟子たちが変貌の後に「来るべきエリヤがバプテスマのヨハネである」と気づいたとあります。ルカ1章17節にも「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」とあります。このことはすでに実現しています。いわば彼は本来の「使者」である「イェシュア」の前座的役割として遣わされたのです。そして、マラキ書においては本来の使者を「」(冠詞付の「ハーアードン」הָאָדוֹן)とも「契約の使者」とも表現しています。後者の「契約の使者」はここにしか見られない表現ですが、実は「メシア」のことを指しています。

(2) 「契約の使者」(メシアの初臨と再臨)

  • 3章1節はメシアの初臨の予告です。そして、2節はメシアの再臨についての予告です。このように初臨と再臨という二つのピクチャーを並べて置くのは、ゼカリヤ書9章9節と10節にも見られます。再臨のメシアが来られるときは、恐ろしい破滅的なさばき(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)が伴います。このことは他の預言者たちも同様に語っています(イザヤ2:6〜21、エゼキエル7:5〜13、アモス5:18〜20、ヨエル1:15〜20、ゼパニヤ1:2〜18)。

(3) 「契約の使者」の来臨の目的

  • しかし驚くべきことに、マラキ書3章6節によれば、ヤコブの子らのすべてが神の怒りに燃え尽くされるわけではないことが分かります。「この方」(4回)が再臨される際には、「レビの子ら」は「この方」によって精錬され、きよめられて、純粋にされるのです。ここに希望があります。「契約の使者」である方は、悪という不純物を取り除き、罪という悪の汚れを白くしてくださるのです。そのために、メシアの再臨の前における先駆者エリヤとして「二人の証人」が遣わされます(黙示録11:3〜4)。そのようにして、主は「レビの子ら」(祭司たち)に与えられた本来の務めを回復してくださるのです。
  • 3章1〜4節における祭司たちの精錬ときよめの預言は、三重の意味において成就します。
    ① 預言者マラキが登場することにおいて
    ② 預言者バプテスマのヨハネの登場とメシアの初臨において
    ③ 「二人の証人」の登場とメシアの再臨において
  • イスラエルの民(ユダヤ人)が「主の日」の大患難のただ中で、「バルーフ・ハバー・ベシェム・アドナイ」(主の御名によって来られる方に祝福あれ!!)と祈るようになったとき、イスラエルの民が尋ね求める「契約の使者」、つまり心待ちにしていた「再臨のメシア」が突如として来られるのです。その時、再び主の祭司と王の務めが回復され、全イスラエルは「王なる祭司」「祭司の王国」として回復されるのです。


2. 彼らは「義のいけにえ」によって主を喜ばせる

【新改訳改訂第3版】マラキ書3章3〜4節
3 この方は、銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。
彼らは、【主】に、義のささげ物をささげる者となり
4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、【主】を喜ばせる。

(1) 「昔の日のように」

  • 4節に「昔の日のように」というフレーズがあります。「昔の日」とはどこまで遡ればよいのでしょうか。「契約の使者」であるメシアが再臨される時には、レビの子らはきよめられ、主に対して「義のささげ物」(脚注)をささげる者となるとあります。「昔の日のように」という意味は、人間に本来与えられた「地を耕す」(創世記2:15)という祭司的務めと関係があると思われます。それはやがてアブラハム、モーセ、ダビデへと受け継がれていきます。そしてこのダビデこそ、何よりも神の御前において主を求め、主を知るという祭司的務めの頂点を築いた人物と言えます。「祭司的務め」がなされるところに、人間が与えられたもう一つの務めである「王として務め」を実現することができるのです。その逆は決してありません。「王である祭司」「祭司の王国」という表現は、エデンの園における人間の務めでした。罪によってそれを喪失したために、再び、メシア王国においてそれが回復することになるのです。

(2) 「ダビデの幕屋」は永遠の祭司的務めの型

  • 「ダビデの幕屋」は永遠の祭司的務めの型です。ダビデ自身が王であると同時に、真の祭司としての型なのです。ダビデのOne Thing(詩篇27:4)がそれを物語っています。
  • また、ダビデの礼拝でのささげ物も天的礼拝の「型」です。ダビデの幕屋は動物のいけにえではなく、「賛美のいけにえ」「感謝のいけにえ」「喜びのいけにえ」「従順のいけにえ」、そして「義のいけにえ」です。最後の「義のいけにえ」は、全身全霊をもって主を愛し、完全に主に拠り頼むことを意味します。そのいけにえが神を喜ばせるのです。メシア王国においてはそのような礼拝があたりまえのこととして、この地上において実現されるのです。そしてそれはエデンの園の回復(特に「耕す」(「アーヴァド」עָבַד)でもあるのです。



脚注

●「義のささげ物」は、この箇所(マラキ3:3)にしか見られない表現です。ヘブル語は「ミヌハー・ビツダーカー」(מִנְחָה בִּצְדָקָה)で、「義のいけにえ」(「ジヴヘー・ツェデク」זִבְחֵי־צֶדֶק)とはニュアンスが異なります。「ささげ物」(「ミヌハー」מִנְחָה)は「穀物のささげもの(素祭)」を意味しますが、「いけにえ」(「ゼヴァハ」זֶבַח)は動物のいけにえを意味します。しかし、いずれも主を喜ばせる全幅の信頼がこめられたささげもの(いけにえ)であることには変わりありません。


【新改訳改訂第3版】マラキ書 1章11節
日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。──万軍の【主】は仰せられる──

※「きよいささげ物」(「ミンハー・テホーラー」מִנְחָה טְחוֹרָה)


2015.7.15


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