****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

モーセの座に着く蛇ども (1)


100. モーセの座に着く蛇ども (1)

【聖書箇所】マタイの福音書23章1~12節

ベレーシート

●今日、2021年4月4日はキリスト教の三大祭の一つである「復活祭」です。今回のテキストは復活祭で取り上げられることはまずないと思いますが、実はこのテキストの中に「死と復活のメッセージ」があるのです。どこにそれがあるのかを考えてみてください。

【新改訳2017】マタイの福音書23章1~12節
1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。
2 「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
4 また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
5 彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。
6 宴会では上座を、会堂では上席を好み、
7 広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。
8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
11 あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。


1. 質問の答え

●どこに「死と復活のメッセージ」があるのでしょうか。その答えは12節です。「自分を低くする者は高くされます」ということばです。その前の11節の「皆に仕える者になる」ということばも重要です。イェシュアは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た・・」(マタイ20:28)と言っているからです。イェシュアの言われる「仕える」とは、単に奉仕するという意味ではなく、「自分のいのちを与える」ことを意味します。これが「自分を低くする」ことで、身代わりの受難を意味します。そして、「自分を低くする者は高くされます」の究極が「死と復活」を意味するのです。使徒パウロは初代教会で歌われていた「キリスト賛歌」を以下の箇所で引用しています。 

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~9節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

●この箇所にもイェシュアの死と復活が語られています。イェシュアが語られたこと(マタイ23:11~12)と同じではありませんか。「皆に仕える者になり」、「自分を低くする者は高くされ」ることを、文字通り、神の基準において行った人は誰もいません。その基準を満たし得る者はただひとり、イェシュアだけです。しかも、このイェシュアは自らを低くして、十字架の死にまで従われたことで、神はこのイェシュアを高く挙げて、すべての名にまさる名を与えられたのです。この「すべての名にまさる名」とはどんな名でしょうか。それは「主」という名です。ギリシア語では「キュリオス」(κύριος)で、その意味は「神」です。ヘブル語では「ハーアードーン」(הָאָדוֹן)となります。

●どちらの箇所も、十字架の死と復活を越えて神の右の座に引き上げられるという高挙にまで及んでいますが、死からの復活という事実がなければ、高挙はあり得ないのです。このイェシュアの立ち位置から見ることによって、今回のテキストにあるイェシュアのことばの意味がより鮮明に見えて来るのです。というのも、この方こそ、「先生」「父」「師」と呼ばれるにふさわしい唯一の方だからです。この方の前では、みな「兄弟姉妹」でしかありません。

●また、12節には「だれでも」とありますが、イェシュアはここで倫理・道徳の話を語っているのでも、また人生訓を語っているのでもありません。イェシュアの言動はすべて、徹頭徹尾、御国の福音の視点から語っているのです。ですから、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ(る)」という神のさばきが現実に起こる時が来ることをも預言しているのです。

【新改訳2017】エレミヤ書31章33~34節
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ─【主】のことば─。・・

●メシア王国においては、御国の民はみな、身分の低い者から高い者まで、教えたり、教えられたりという関係がなくなるのです。なぜなら主が律法を彼らのただ中に置き、心に書き記すからです。そこではじめて聖書の教えの正しい解釈が明らかになることでしょう。ですから、特に、みことばを教える者たちは恐れなければなりません。メシア王国での御国の民は、シオンにいるメシアなる主から教えを直接聞くために、そこに流れるようにして集まって来ることが預言されています。「それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るから」なのです。どんなことばが出るのかは行ってみないと分かりませんが、主の教えこそが御国で生きる者たちの食べ物となるのです。

【新改訳2017】イザヤ書2章2~3節
2 終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。

●さて今回メッセージは、流れとしてはこれまでとは異なり、11~12節の結論的部分から入りました。このあと、23章全体の主要なトピックである「蛇、まむしの子孫たち」と呼ばれた「律法学者とパリサイ人たち」の本質を学び、その後に23章1~10節を説明したいと思います。

2. 「蛇、まむしの子孫たち」と呼ばれた「律法学者、パリサイ人」

●23章全体には律法学者やパリサイ人たちに対する糾弾のメッセージがまとめられています。彼らはイェシュアが言っているように、「蛇、まむしの子孫たち」(マタイ23:33, 12:34)です。バプテスマのヨハネもパリサイ人やサドカイ人のことを「まむしの子孫たち」と言っていますし、ルカの福音書3章7節では、群衆に対してそのように言っています。「まむし」は蛇の種類の中で「毒を持つ蛇」です。いずれにしてもこれらの行きつくところは「ゲヘナ」です。

●ヘブル語で「蛇」を表わす「ナーハーシュ」と同じ名前を持つ人物が聖書に登場します。とても残忍な性格を持ったアンモン人の王の名前です。イスラエルと契約を結ぶ条件が、イスラエルの民全員の右の目をえぐり取るというものでした。民はこれを聞いてみな声を上げて泣きました。その危機に遭遇したところにイスラエルの最初の王となるサウルがそのカリスマ性を発揮して、最初の王制が誕生するという話です。しかしそのサウル王もアマレクとの戦いにおいて物欲に負け、主のことばに背いたため王位が剥奪されます。このように往々にして、蛇(サタン)の巧みな戦略は成功しているのです。

●神が蛇に与えた特別なのろいは、「腹這いで歩き、その一生の間、ちりを食べる」というものでした。「腹這いで歩く」とは神に敵対する者となり、地だけを向いて「ちり」を食べることです。つまり、地に属するものだけを食べるというのろいです。ですから、蛇の子孫である者はこの世のことばかり、世の欲(欲望)にとらわれて生きる者となるのです。イェシュアが律法学者やパリサイ人たちを「蛇、まむしの子孫」と言ったのは、彼らが神のことばを扱いながらも、神のみこころを見定めることがなく、この世のことばかり考えているからです。また、口を開けば、毒蛇のように毒づいて「聖霊に逆らうことを言う」(マタイ12:32)者たちなのです。ところが、一般民衆はそんな彼らの欺瞞に気づかず、むしろ彼らを尊敬していたのです。しかし、イェシュアの基準(視点)と人の基準(視点)は全く異なっていました。これこそが神が人に言われた「その木」(=善悪の知識の木)から食べるとき、あなたは死ぬ」という命令の「死ぬ」ということばの霊的現実です。ですから、霊であり、いのちであるイェシュアのことばを人は理解できず、話が嚙み合わず、すれ違う原因となっているのです。このように、蛇(サタン)の戦略はイスラエルにおいても、今日の教会においても、往々にして成功していると言えるのです。

●23章に繰り返されている「律法学者やパリサイ人たち」への糾弾メッセージは、御国に生きる者たちに対して、反面教師としてのメッセージともなり得ます。というのは、御国の民とされた者に対して、地上のことに目や思いを向けるのでなく、常に天にあるものに目や思いを向けさせるように促すからです。ですから、使徒パウロは「地にあるものではなく、上にあるものを求めなさい、思いなさい」と命じています。これが蛇(サタン)に対する戦いです。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章1~4節
1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい地にあるものを思ってはなりません
3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

●「求めなさい」は「ゼーテオー」(ζητέω)の現在命令形で、「~を得ようと求め続ける」ことです。また「思いなさい」も「フロネオー」(φρονέω)の現在命令形で、「思い続ける、心にかけ続ける、たえず理解しようとする」ことを意味しています。つまり、主にある私たちが「携挙されるまで」、あるいは「この世での生涯を終えるまで」です。何を「求め、思い」続けるのかと言えば、それは「上にあるもの」です。この表現はコロサイ人の手紙の独自のもので、他の書簡にはないものです。しかも、この「上にあるもの」は複数です。「天の御国」、あるいは「天のエルサレム」に備えられている祝福は一つではなく、数多くあるのです。もし、世にあるものに私たちの心が奪われ、捕らえられるならば、律法学者、パリサイ人たちのように「蛇、まむしの子孫」になってしまうでしょう。

●なぜ私たちが、「上にあるもの」を求め続けなければならないのでしょうか。その答えは、私たちが「新しく生まれた」からです。イェシュアは、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました(ヨハネ3:3)。実は「新しく」と訳された語彙は「上から」と訳された語彙と同じです。「新しく、上から」は「アノーセン」(ἄνωθεν)で、「上に」は「アノー」(ἄνω)です。「アノー」(ἄνω)ということばが共通しています。つまり、「あなたがたは上から生まれたのですから、上にあるものを求めなければならない」、とても明瞭な論理ではないでしょうか。

●上から(新しく)生まれた者が地にあるものを求めているならば、サタンの恰好の餌食となってしまうのは目に見えています。ひとたびサタンの餌食となった者は、その事実さえも悟ることができない奴隷となってしまうのです。そのことをパウロは「ストイケイア」(στοιχεῖα)ということばで表しました。これは「ストイケイオン」(στοιχειον)の複数形です。このことばはすべて複数形で使われています。

3. 「ストイケイア」(στοιχεῖα)の正体

●「ストイケイア」(στοιχεῖα)という語彙は新約聖書に7回使われています。パウロが5回、ペテロは2回です。ここでは使徒パウロが書いたものだけを取り上げてみたいと思います。なぜなら、パウロこそ、人一倍、この「ストイケイア」に熱心な者であったからです。順にそれを挙げてみます。いずれも【新改訳2017】からの引用です。

①ガラテヤ人への手紙4章3節
同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。
②ガラテヤ人への手紙4章9節
しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。
③コロサイ人への手紙2章8節
あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。
④コロサイ人への手紙2章20節
もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、
⑤ヘブル人への手紙5章12節
あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。

●パウロのいう「ストイケイア」とは何でしょうか。それは「もろもろの霊」「神のことばの初歩の教え」を意味します。これらは、「幼稚な教え」「役立たずの宗教」「人の言い伝え」(信条・伝承・伝統・習慣など)と言い換えられます。これらはいわば宗教の霊と言えます。ユダヤ教のおきてや儀式、さまざまな規則を守ることによって救われるというような考えや教え、人の言い伝えのために神のことばを無にし、人間の命令を教えとして教えることは、すべてこの世の「もろもろの霊」(悪霊)から来るもので、それによって人は奴隷にされてしまうのです。それが当時の宗教的指導者であるが律法学者、パリサイ人たちがもたらしたものでした。律法学者やパリサイ人たちは自分自身が奴隷となっていただけでなく、彼らの教えによって人々をも奴隷にしたのです。彼らの教えは人々を救いに導くどころか、逆に大きな重荷を与えて、疲れさせるものだったのです。ですからイェシュアはこう語りました。

画像の説明

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

●先祖の伝承に人一倍熱心だったパウロは、これこそ正しい教えだと信じて教会を迫害していたのです。しかし彼は、知らないでしたことだったので、神からのあわれみを受けたと述べています(ガラ1:13, Ⅰテモテ1:13)。私はこのパウロの「知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」ということばに、とても感動を覚えます。

●マタイは、イェシュアが公生涯を開始されたとき、イスラエルの民のためにメシアが到来することの預言を引用しています。

【新改訳2017】マタイの福音書4章15~17節
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

●「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは、「ストイケイア」に捕らえられ、束縛されていたイスラエルの民のことです。その彼らを闇と死の陰から救い出すために、「大きな光」であるメシアの到来を預言したのが引用元のイザヤ書9章1~2節のことばです。イェシュアはこの預言を成就するために宣教を開始されたのでした。「闇」と「死の陰」に人々を陥れる「ストイケイア」に対して、イェシュアも、そして使徒パウロも戦ったと言えます。この戦いは今も続いていることを心に留めなければなりません。

4. モーセの座に着く律法学者とパリサイ人たち

●イェシュアは群衆と弟子たちに対して、モーセの座に着く律法学者とパリサイ人たちの行いを真似しないように警告しています。なぜなら、彼らは人々に重荷を負わせ(4節)、すべて人に見せるために(5節)、目立つことをし(5~6節)、先生と呼ばれたがっている(7節) からとしています。とりわけ、8~10節は弟子たち、つまり、これからの使徒としての働きをゆだねられた者たちに対して語られたと思われます。そこで最後は、以下のイェシュアのことばの真意を考えてみたいと思います。

8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。
あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちのと呼んではいけません。
あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
10 また、と呼ばれてはいけません。
あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

●前にも述べたように、イェシュアの語る視点は御国の視点です。ですから、この箇所も御国について語られているのです。御国においての教師はただ一人であり、父(ここでは「教父」「神父」という意味)もただ一人、師(ここでは弟子の師匠、あるいは「牧師」)もただ一人であり、あなたがたはみな(神の家族の)兄弟だからだということです。メシア王国では教師という役目はなくなり、牧師の務めもなくなります。教父も神父も存在しません。

●私たちが気をつけなければならないのは、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」ということばだけが一人歩きしてしまうことです。ある教会(あるいは集会)では、「先生」「牧師」ということばを一切使わないところもあります。「牧師」ということばを使わないで「司牧」ということばを使っている教会もあるようです。確かに「師」という文字は使われていませんが、こだわり過ぎているような感じがします。また、職制を認めないということで、群れの責任者を一般用語の「代表」と呼んでいるところもあります。「先生」ということばを使わない集会であっても、特別集会で招く講師を○○先生と紹介しています。つまり、自分たちの考えを押し通すというよりも、学ばせていただくという謙虚な姿勢が感じ取れます。

●ここでイェシュアが言っている真意は、個人のプライドや権力願望が横行するのを危惧したものだと考えます。使徒パウロがコリントで教会を建てる際、自分が神から召された使徒であると認めてもらえないことが、どんなに大きな支障の要因になっているかを述べています。御国が完成されるまでは、神から与えられた特別な務めがあります。キリスト教会の運営形態にもいろいろな形があります。監督制もあれば、長老制も、会衆制もあります。どれが正しいとは言えません。どのような運営形態であったとしても、サタンの巧妙な策略は避けることができません。どこにも、「蛇、まむしの子孫」と言われる者たちは存在するのです。イェシュアの仕える心、しもべの精神が大切にされ、みことばを教える者も教えられる者も互いに良いものを分かつべきであり、それぞれの異なる賜物に対して尊重し合う姿勢が必要です。そうした信頼関係の中で、「先生」と言うのであればそれで良いし、「先生」と言われないからと言って心傷つくとするならば、それこそ要注意です。私自身は「先生」、「牧師」と呼ばない集会のセミナーに参加していますが、何の抵抗もありません。神の教えに謙虚に心を傾けて、互いに学び、互いに分かち合うことができるなら、それは素晴らしいことであると考えるからです。

2021.4.4
a:3013 t:1 y:0

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