****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

モーセの座に着く蛇ども (2)


101. モーセの座に着く蛇ども (2)

【聖書箇所】マタイの福音書23章13~24節

ベレーシート

●今回は「モーセの座に着く蛇ども」と題する第二回目のメッセージです。前回、モーセの座に着いている当時の宗教指導者たちが「ストイケイア」(στοιχεῖα)に熱心な者たちであったことを説明しました。このことばはイェシュアではなく、パウロが使った言葉ですが、彼らの本質を言い得ています。それは、「もろもろの霊」と訳されていますが、一言で言うなら、「宗教の霊」です。「幼稚な教え」「役立たずの宗教」「人の言い伝え」(信条・伝承・伝統・習慣など)とも言い換えられます。ユダヤ教のおきてや儀式、さまざまな規則を守ることによって救われるというような考えや教え、人の言い伝えのために神のことばを無にし、人間の命令を教えとして教えることは、すべてこの世の「もろもろの霊」(悪霊)から来るもので、それによって人は奴隷にされてしまうのです。それが当時の宗教指導者である律法学者、パリサイ人たちがもたらしたものでした。律法学者やパリサイ人たちは自分自身が奴隷となっていただけでなく、彼らの教えによって人々をも奴隷にしたのです。彼らの教えは人々を救いに導くどころか、逆に大きな重荷を与えて、疲れさせるものだったのです。それゆえ、イェシュアは彼らのことを「わざわいだ」と糾弾しています。それがマタイ23章13節以降の内容です。今回は、それを二つの部分に分け、前半の部分(13~24節)だけを扱いたいと思います。私たちは「モーセの座に着く宗教指導者たち」を反面教師としながら、神の正しい教えについて学ぶことができるのです。

【新改訳2017】マタイの福音書23章13~24節
13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。
おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
14 ☆
15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。
16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。
21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。
23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。


1. 第一のわざわい・・「天の御国を閉ざし、人々を入らせない」

【新改訳2017】マタイの福音書23章13節
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

●律法学者、パリサイ人のことを、イェシュアは「わざわいだ」と糾弾しています。「わさわいだ」と訳されたギリシア語の「ウーアイ」(Οὐαὶ)は「忌まわしいものだ」(新改訳第二版)、「不幸だ」(新共同訳)とも訳されます。これは、山上の説教で語られた八つの祝福「幸いなるかな」に対応する「のろい」のことばで、八回使われています(14節を抜くと七回)。イェシュアはなぜ彼らを「わざわいだ」と言っているのでしょうか。それは彼らが「偽善者たち」だからです。山上の説教でも、パリサイ人たちの義は自分の義に過ぎない、つまり偽善者だと言っています。さらに、彼らを「目の見えない案内人たち」(16節)、「愚かで目の見えない者たち」(17節)、「目の見えない者たち」(19節)とも言っています。

●「閉ざしている」と訳された「クレイオー」(κλείω)は、新改訳改訂第三版までは「さえぎっている」と訳されています。律法学者、パリサイ人たちは神の働きを邪魔しているのです。これはサタンの働きそのものです。サタンの子孫である律法学者たちとパリサイ人たちは、彼らの教え(=ストイケイア)によって、人々を天の御国に入れないように妨げ、閉ざしている者たちです。「閉ざしている」は現在形で、その力は今もこの世で働いています。サタンは手下を使って神の働きとは真逆のことをしようとしているのです。しかし、閉じ、開くことのできる権威を持つメシアは教会に対してこう言っています。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録3章7~8節
7 また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる─。
8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

●ノアの時代に神の警告を無視した者たちに対して箱舟に入る戸を閉ざしたように(創7:16)、メシア王国では御使いが底知れぬ所にサタンを投げ込んで、そこを閉じ、封印して、諸国の民が惑わされないようにします (黙示録20:1~3)。

2. 第二のわざわい・・「一人の改宗者を得るのに巡り歩く」

15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。

●「巡り歩く」と訳された「ペリアゴー」(περιάγω)、新改訳改訂第三版までは「飛び回る」と訳されています。イェシュアは公生涯に入られてガリラヤ全土を「巡って」います。それは、御国の福音を宣べ伝えて、あらゆる病とわずらいを癒やす(=救う)ためでした(マタイ4:23, 9:35)。しかし、サタンも自分の手下を使ってイェシュアと同じことをしています。ただしその目的は神とは真逆です。一人の改宗者を得るとは、異教徒をユダヤ教に改宗させるということです。しかも一人の改宗者を得るために「海と陸を巡り歩く」とは、今日の世界宣教の働きと同じで、しかも大変な熱意です。積極的に飛び回って神を敬う改宗者たちを得ていた、いわば伝道熱心な行動派タイプの律法学者、パリサイ人がいたようです。パウロも以前はそのような一人だったのです。パウロは彼らについてこう語っています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙10章2~4節
2 私は、彼ら(=ユダヤ人を指す)が神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。

●律法学者たちやパリサイ人たちの熱心さは、神の知識に基づいてはおらず、自分の義を立てようとしているのです。パウロがいう「知識」とは「律法が目指すものはキリスト」であるということです。この知識に基づく信仰こそが神の前に義とされる(=正しい者とされる)のです。ですから、熱心さと行動が伴っていれば良いというわけではありません。神の知識が不可欠なのです。その知識に基づかない熱心さはむしろ神にとって有害であることは言うまでもありません。熱心さの陰に恐るべき自己追求が隠されているのです。

●真の知識に基づく熱心さによって回心する者を得なければなりません。しかしそれをされるのは神です。回心者を得ることではなく、改宗者の数で自分の働きを誇るようになると偽善に陥るのです。なぜなら、神の働きであるべき伝道が、いつの間にか自分の事業になってしまっているからです。自分の熱心、自分の意気込みによって改宗者を得ようとすること、それはかつてのパウロ自身そのものでした。

●私は、ユダヤ人は伝道しないということを聞かされていたので、もし本当であれば驚きです。福音書にある「百人隊長」(マタイ8:8)、同じく百人隊長でカエサリアのコルネリウス(使徒10:1)は、そういう者たちの熱心な働きによって改宗した者であったのかもしれません。神を敬う者たち(敬神者たち)がみな彼らのようであったら良いのですが、イェシュアは「改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ」と言っています。これはどういうことでしょうか。伝道熱心な律法学者やパリサイ人たちによって改宗された異邦人は、それまでの生き方をすべて変えさせられて敬神者となるのですが、その結果は「ゲヘナの子」となってしまうのです。「倍も」というのは、倍増された悲劇的結末を見ることになるということです。

3. 「第三のわざわい」・・「誓う時に、指すものによって果たすべき義務を回避しようとしている」

●第一、第二のわざわいでは、律法学者、パリサイ人たちのことを「偽善の・・」(つまり偽善者)と言っていましたが、第三のわざわいでは、彼らのことを「目の見えない案内人たち」(16節)、「愚かで目の見えない者たち」(17節)、「目の見えない者たち」(19節)と呼んでいます。ここで強調されていることは、彼らが神のご計画とみこころに関して「盲人」であるということです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章39~41節
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。
21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。

●「誓い」に関して、彼らは何を指して誓ったかによって優劣を定め、義務・責任を回避しようとしていました。イェシュアは山上の説教の中で、「決して誓ってはいけません。・・・あなたがたの言うことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです」と言われました。それに対して、彼らは「だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。」とし、「だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。」としました。つまり、神殿と祭壇にかけて誓うのであれば何の義務もない。しかし、神殿の黄金(神殿内の金製品のこと)と祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務があるというのです。つまり、「果たす義務がある」のは、「神殿」と「祭壇」をさして誓った場合ではなく、「黄金」と「ささげ物」にかけて誓った場合です。なぜこのような解釈がまかり通るのでしょうか。これに対して、イェシュアは「ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。」と言い、どちらも重要であることを述べます。

①20節「祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。」
②21節「また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。」
③22節「天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。」

●律法学者とパリサイ人たちの解釈は、誓いを守れなかった場合の言い逃れの道を作ろうとする解釈です。誓う場合、守らなくてもよい誓いがあるというのはおかしなことです。誓うことについて、使徒ヤコブも次のように言っています。

【新改訳2017】ヤコブの手紙 5章12節
私の兄弟たち。とりわけ、誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません。

●ここで言っている「誓うことはやめなさい」とは、何かにかけて権威付けようとする誓いについて禁じています。ですから、すべての誓いをするなということではないのです。人は自分が誓ったことを完全に守ることができないことを神が知っておられるからです。重要なことは、神が人に対して誓われる(約束される)ことだけです。ですから、イェシュアも山上の説教で言っています。

【新改訳2017】マタイの福音書5章33~37節
33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。
天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

●「誓い」について、人と人が誓う場合、また神が人に誓う場合、ヘブル語ではすべて「シャーヴァ」(שָׁבַע)で表します。人が神に誓願を立てる場合には「ナーダル」(נָדַר)という語彙を使いますが、マタイ23章で使われている「誓う」は「シャーヴァ」(שָׁבַע)です。他と比べて、なぜ誓いのことについて多くの説明がなされているのでしょうか。それは「誓う」という語彙が、神のご計画において非常に重要な意味を持っているからです。「誓う」を意味する「シャーヴァ」(שָׁבַע)は動詞ですが、名詞にすると「シェヴァ」(שֶׁבַע)となり、これは数の「」を表します。「」は聖書において最も重要な数であり、それは「完成」を意味します。その意味で、律法学者とパリサイ人がそのことについて全くの盲目であること(=無関心であること)が明らかにされているのです。御国はメシアを通して神の約束の誓いが完全に完成するところです。

●ちなみに、「~にかけて誓う」の「~にかけて」に使われているギリシア語は前置詞の「エン」(ἐν)です。ヘブル語では「ベ」(בְּ)です。「~を指して」「~によって」とも訳されます。誓いを保障する最高の拠り所は「神」です。ですから、

【新改訳2017】創世記 21章23節
それで今、ここで神によって(בֵאלֹהִים)私(=アビメレク)に誓ってください。私と私の子孫を裏切らないと。そして、私があなた(=アフラハム)に示した誠意にふさわしく、私にも、またあなたが寄留しているこの土地に対しても、誠意を示してください。」

●神が誓う場合には、自分にかけて誓います。

【新改訳2017】創世記22章16節
こう言われた。「わたし(=神)は自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、」

【新改訳2017】ヘブル人への手紙 6章13節
神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、

神の約束と誓いには密接な関係があります。イェシュアは御国の視点からすべてを語っています。誓うという行為において、勝手な決まりを作ってそれを守ることが重要なのではありません。神の律法の目的の本意はキリストによって実現される御国、すなわち、神と人とが共にあることを実現することなのです。心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして主を愛すること、あなたの隣人を自分自身のように愛することも、私たちの力によってではなく、すべては主によって与えられ、完成されるのです。それゆえ、神が約束し、神が誓われたことに私たちは注意を払わなければなりません。

4. 第四のわざわい・・「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」

【新約聖書2017】マタイの福音書23章23~24節
23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めて
いるが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている
十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。

●ここではこれまで使われた「偽善の」は第一と第二のわざわいと同じです。そして「目の見えない案内人たち」である律法学者とパリサイ人たちに対して糾弾しています。その糾弾のポイントは「ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」というたとえによく表されています。このたとえは何を意味しているのでしょうか。これはぶどう酒に入ってしまったブヨは上手にこすのに、大きならくだを呑み込むような滑稽なことをしているという意味です。

●宗教指導者たちは、収穫物の十分の一を神にささげることは重要なことであり、義務であると教えていました。十分の一を神にささげるという考えはアブラハムに遡ります。おそらく、イサクとその息子たちにもアブラハムは教えていたことでしょう。パリサイ人は厳格に守るため細心の注意を払ったようです。「おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めている」とありますが、これらは小さな野菜で、香料となるスパイスです。それに対して細心の注意を払って納めているのに対し、「はるかに重要なもの」、つまり、「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」ことが糾弾されています。「おろそかにする」とは「アフィエーミー」(ἀφίημι)で、「見捨てる、放棄する」という意味です。ミント、イノンド、クミンの十分の一を細心の注意を払って納るこれをイェシュアは不必要なことだとは言っていませんが、それ以上に重要なことを宗教指導者たちがおろそかにするのは、まさに本末転倒です。このことは、イスラエルに与えられた神の律法をいのちに導くものではなく、法・規則・義務・命令の書としてしまっていたことを示しています。

●神のみこころは、神の民が「正義とあわれみと誠実」を行うことです。

①「正義」は「クリシス」(κρίσις)、ヘブル語は「ミシュパ―ト」(מִּשְׁפָּט)。「ミシュパート」とは、神の統治理念に基づいて、弱い者を守ろうとする「公正さ、公平さ」。
②「あわれみ」は「エレオス」(ἔλεος)、ヘブル語は「ヘセド」(חֶסֶד)で、神の契約に基づく「愛」。
③「誠実」は「ピスティス」(πίστις)、ヘブル語は「エムーナー」(אֱמוּנָה)で、神の約束に対する「真実」。

【新改訳2017】ミカ書6章8節
主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正(מִּשְׁפָּט)を行い、誠実(חֶסֶד)を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

【新改訳2017】ゼカリヤ書 7章9節
万軍の【主】はこう言われる。「真実(אֱמֶת)のさばき(מִּשְׁפָּט)を行い、誠意(חֶסֶד)とあわれみ(רַחֲמִים)を互いに示せ。」

●メシアが王として治める天の御国は、神の民が神の統治理念に基づいて真実と公平さをもって治められ、愛とあわれみをもって支配される世界です。神のすばらしいご性質が覆っている未曽有の世界です。それゆえ、神の代理者である指導者は、その神のご計画を知りつつ、神と共に歩む責任があります。ところが、律法学者、パリサイ人たちは神のご計画とみこころを知らず、神の律法を、人を支配するための規則や命令として勝手に解釈したのです。それゆえに、「わざわい」なのです。

ベアハリート

●今日の教会でも「わざわい」は起こり得ます。律法学者やパリサイ人たちのように、私たちも盲目になってしまうことがあり得るのです。ですから、彼らを反面教師としながら、心を柔らかくして、何が最も重要であるのかを常に神に聞き続けることが求められるのです。そして、聖書の全体を通して、神のご計画とみこころを正しく知って、それに参与していかなければなりません。なぜなら、それこそが神を愛することであり、神とともに歩むことだからです。

2021.4.18
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