****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

モーセの座に着く蛇ども (3)


102. モーセの座に着く蛇ども (3)

【聖書箇所】マタイの福音書23章25~39節

ベレーシート

●今回は「モーセの座に着く蛇ども」と題する第三回目(最後)のメッセージとなります。エデンの園で人とその妻が善悪の知識の木から食べたことにより、その木と一体となってしまったということがどういう実態を生むのか。それはいのちの木であるイェシュアが来られたことであらわにされました。つまり「蛇、まむしの子孫」の生き方、考え方です。「蛇、まむしの子孫」の特徴は、神により頼むことをしないで、自分の力で生きようとすることです。その筆頭がカインです。彼は流浪の地で自分を守るための町を建て、自分の子に奉献を意味するエノクという名を付け、自らの歩みを開始しました。そして、文明(牧畜、音楽、鋳造の技術)を築いていきます。自らの町を建てようとするカインの系列は、ニムロデに受け継がれます。彼は権力のある者となり、「頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう」とします。カインの系列は、ロト、エサウ、パロ、ナダブとアビブ、コラとその仲間、サウル、アブシャロム、アハブ、サドカイ人(祭司階級)、律法学者、パリサイ人たち、反キリストなどに派生し、神のさばきが下るときまでその働きを止めようとはしません。彼らの築いたものが崩れ去る時はいずれも一瞬です。バビロンはその良い例です。さて、今回のテキストは23章25~35節、そして36~39節も加えて、23章を終えることにしたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書23章25~35節
25 わざわいだ(第五のわざわい)、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26 目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
27 わざわいだ(第六のわざわい)、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。
外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。
29 わざわいだ(第七のわざわい)、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、
30 こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』
31 こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。
32 おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。
33 蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。
34 だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。
35 それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血で、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。


1. 第五、第六のわざわい・・「内側よりも外側に」

●第五と第六のわざわいを一つにまとめます。偽善の律法学者、パリサイ人の関心が目に見えることだけであることがイェシュアによって糾弾されています。彼らは「目の見えない人」であり、「白く塗った墓のようなものだ」とも言われています。そしてその理由を二つの点から説明しています。前者 (25~28節) は、彼らには「内側」と「外側」の面があり、外側は美しく見せているけれども、内側は「強欲と放縦」(=「略奪と放縦」)、「偽善と不法」で満ちていること。後者(29~35節)は、彼らが「預言者を殺した者たちの子ら(子孫)である」ということです。前者と後者の理由は密接に結びついているゆえに、ゲヘナの刑罰を逃れることができないとイェシュアは宣告しています。

●「強欲」(略奪)は「金銭欲」を意味し、「放縦」は「情欲」を意味します。「強欲」と訳された「ハルパゲー」(ἁρπαγή)は、ヘブル書10章34節に「あなたがた(メシアニック・ユダヤ人)は、牢につながれている人々(メシアニック・ユダヤ人)と苦しみをともにし・・自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました」とあることから、イェシュアをメシアとして信じたユダヤ人たちがパリサイ人たちによって迫害されて、財産が奪われたことがあったようです。今回のシリーズで扱わなかった14節には、やもめたちの家を食いつぶしながら、敬虔だと見せかけて長い祈りをする彼らに対して厳しい糾弾がなされています。

第五のわざわいは、律法学者とパリサイ人たちが「手を洗う」ことと同様の趣旨で、杯や皿といった外面的なきよめを重視することに対するものです。神が求めておられるのは内側の魂のきよめです。
第六のわざわいでは、「墓」の内側と外側について触れ、宗教指導者たちを「白く塗った墓」にたとえています。墓を白く塗ったところで、墓が美しいものに変化することはありません。墓は汚れたもののシンボルであり、その中には死人の骨だけでなく、あらゆる汚れたものが納められており、「墓に触れる者はみな、七日間汚れる」(民19:16)とされていました。

●イェシュアは28節で彼らのことを「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」と結論付けています。外側を飾ることばかりに気を取られ、内側には目が留まらない姿、これこそが創世記3章7節の「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った」という行為なのです。私たちも往々にして、内側よりも外側のことに関心を持つなら、彼らと同様な者となり、「蛇、まむしの子孫」となってしまう危険があるのです。むしろ、使徒パウロが言うように、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(Ⅱコリント4:18)ということばに目を留めるべきです。

2. 「正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになる」

オリーブ山にあるユダヤ人の墓.PNG

第七のわざわいは、「預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾(る)」という彼らの見せかけの行為にイェシュアは言及しています(29節)。この表現はパラレリズムで、「預言者たち」が「義人たち」に、「墓を建てる」ことが「記念碑を飾る」ことに言い換えられています。エルサレムの東側のオリーブ山の麓には多くの墓があります。パリサイ人たちは人に見せびらかすために、預言者たちの墓を造り直したり飾ったりしました。そして彼らは、「『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』」と言って、自分たちはあたかも預言者たちの擁護者であり、彼らの墓を飾ることで、もし自分たちが生きていたら、彼らを守り続けただろうと自分たちの敬虔さをアピールしていたのです。しかし、そうした行為がイェシュアの目には、「預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している」と見抜かれていたのです。事実、彼らは預言者であるイェシュアを殺そうと計画していたのです。そうした彼らに対してイェシュアは「おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい」と言われました。これは最後の晩餐の時にイスカリオテのユダに対して言った「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」(ヨハネ13:27)と同じものです。イェシュアはだれも気付かない人の内側にあるものを、すべて見抜いておられるのです。

●さらに34節では、イェシュアによって遣わされる者(=使徒たち)を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回ると言っています。これは預言であり、文字通りに起こります。ですから、イェシュアは彼らを「蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。」「いや、できない」と宣告しているのです。

●「わざわいだ」と訳された「ウーアイ」(ούαι)ですが、織田昭氏の「ギリシア語小辞典」によれば、「悲嘆、悲痛をあらわす間投詞で、何と悲しいことか、あなたがたのことを考えると私の胸は張り裂ける!という意味で、『あなたがたに禍あれ』」ではないとあります。そのように解釈するなら、イェシュアは彼らに悔い改めを呼び掛けていることになります。確かに、そのような意味も含んだことばなのですが、33~35節を見る限り、彼らの罪は重く、すでにそのさばきは神の前で決定されて、ゲヘナのさばきは免れないのです。

3.「義人アベルの血から、・・バラキヤの子ザカリヤの血まで」とは

●さばきの確定にさらに追い打ちをかけるように、35節で「それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血で、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ」とイェシュアは語っています。ここにある「義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血で(原文では「~の血まで」となっています)」というフレーズは何を言っているのでしょうか。イェシュアのことばはできる限り、正確に知るべきです。

●「義人アベルの血から、・・バラキヤの子ザカリヤの血まで」というフレーズはヘブル語の「メリズモ修辞法」と言われるものです。言うなれば、「創世記から黙示録まで」のように「はじめから、終わりまで」という意味で、二つの対照的な部分の組み合わせによって全体を表わす修辞法です。聖書の最初の殉教者がアベルであれば、最後の殉教者はザカリヤということになり、その間のすべての殉教者も含まれているのです。アベルが殉教したことは分かっていると思われるので、ここでは「バラキヤの子ザカリヤの血」ということについて説明したいと思います。ちなみに、「血」とは「殉教」という意味です。

●「バラキヤの子ザカリヤ」という記述は聖書にはありません。しかしバラキヤがザカリヤの父で、祖父が「祭司エホヤダ」ということになれば話が通じます。祭司エホヤダの孫は「ゼカリヤ」です。「バラキヤの子ザカリヤ」とイェシュアは言ったのですが、「ザカリヤ」(זְכַרְיָה)と「ゼカリヤ」(זְכַרְיָה)は訳語は異なっていますが、原語では全く同じ表記なのです。この人物について知るためには、ユダの歴史に起こったある出来事を知らなくてはなりません。

●ユダ王国の五代目となった王はヨラムという名前でした。彼は北イスラエルの王アハブの妻イゼベルの娘、アタルヤと政略結婚をします。そして二人の間にアハズヤが生まれるのですが、しばらくして王のヨラムが戦死し、アハズヤも暗殺されてしまいます。そこでアハズヤの母アタルヤは、ユダの王族から王が擁立しないように、王一族の子どもを皆殺しにして自分が王位を継いでしまうのです。ところが当時の大祭司であったエホヤダは、王族の後継者の一人(1歳のヨアシュ)を6年の間、主の宮に隠して生かします。そして七年目、エホヤダの計略によって女王アタルヤは失脚させられて殺されます。

●その後、大祭司エホヤダはユダの王家の血筋にあるヨアシュを王として擁立するために、ヨアシュの身柄を主の宮から王宮に移し、王座に着かせただけでなく、アタルヤによってバアル礼拝と化した神殿を本来の主の宮として回復させます。このことだけでも 祭司エホヤダの果たした貢献は大きなものであったと言えます。ちなみに、エホヤダが死んだときの年齢は異例の130歳という年齢でした。モーセの年齢(120歳)よりも10年長く生きたことになります。その彼の孫の名前が「ゼカリヤ(=ザカリヤ)」だったのです。

●7歳で王となったヨアシュに王としての務めは不可能です。代わって祭司エホヤダがその務めを負っていました。ヨアシュはダビデのように王となるための厳しい訓練を受けた人物ではありません。エホヤダの庇護の下で、王としての立場を与えられただけです。その力を発動したことのなかった彼は、結婚して子どもたちが与えられるようになった頃、主の宮を新しくすることを「志した」とあります。新共同訳では「意欲を示した」と訳されています。果たしてその志が神を愛することから出た純粋な志(意欲)であるのかどうか、祭司やレビ人たちは疑念を抱きます。ヨアシュは祭司エホヤダと話し合いをすることをせず、突然、王としての立場から、祭司とレビ人たちに対して主の宮の修復のために必要な資金を全イスラエルから集めるように命じたのです。そのときヨアシュは「あなたがたは急いでそのことをしなければならない」と付け加えました。それに対して、「レビ人は急がなかった」とあります。その理由は聖書に記されていませんが、王の言葉に隠されている不純な動機を彼らが悟ったからではないかと思われます。一見、王の熱心さとも受け取れる言葉の中に、彼を長い間見つめてきたレビ人は素直に受けとめられないものを感じていたのかも知れません。ただ、神殿のための財源として主が定められた法がありました。それはモーセの時代、幕屋のためにイスラエルの20歳以上の男子一人ひとりに対して、一律、半シェケルが課金されました。これがⅡ歴代誌では「税」(「マスエート」מַשְׂאֵת)と訳されています。が、この語彙の語源は「ナーサー」(נָשָׂא)で「税、ささげ物、贈り物」を意味します。額としては少額ですが、強制だったのです。主に贖われたイスラエルの民がささげるべき課金だったのです。ヨアシュはそれを神殿で礼拝する者たちに求めたのです。

●このこと自体はなんら問題ありません。ところがレビ人たちには、それが王としての力、その権威の力を試そうとする意図として受けとめられたのかもしれません。案の定、レビ人が急がなかったことに対して、祭司エホヤダを呼び、「なぜあなたはレビ人に要求して・・・させないのか」と迫っています。このヨアシュの発言の中にこれまでの指揮系統が微妙に変化して行くのが見えます。つまり、祭司階級と王の権威との微妙な力関係を覆そうという意図が見られるのです。主の宮を新しくするという王の志はある意味で成功したと言えます。そして王としての面子もある意味で保つことができました。しかしそれは「エホヤダが生きている間」のことです。王のしたことは、言わば見せかけであり、本当に神を愛していることから出たものではないことが、「エホヤダの死後」に明らかとなります。つまり、ヨアシュは「蛇、まむしの子孫」だったのです。しかしそこに祭司エホヤダの孫であるゼカリヤが預言者としてヨアショの前に立ちふさがったのです(ちなみに、祭司の家系でありながら、預言者的な働きをした者は多くいます。エゼキエルもそうですし、バプテスマのヨハネも祭司の家系でした。イェシュアの母マリアもヨハネの母と親戚にあたりますから、マリアは祭司の家系の女性だったと言えます)。

【新改訳2017】Ⅱ歴代誌24章19~22節
19 彼ら(=ユダの民)を【主】に立ち返らせるため、預言者たちが彼らの中に遣わされた。預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。
20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ【主】の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが【主】を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」
21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、王の命令によって、【主】の宮の庭で彼を石で打ち殺した。
22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。ゼカリヤは死ぬとき、「【主】がご覧になって、責任を問われますように」と言った。

●イェシュアが語られた背景にはこのような話があったのです。ゼカリヤは大祭司エホヤダの孫(孫であっても、聖書では「~の子」と表現することがよくあります)ですが、神は彼を預言者として立てられました。しかし彼は殺されたのです。そして彼が殉教した時の祈りを、神が決して忘れていないことをイェシュアはほのめかしているのです。律法学者とパリサイ人たちはヨアシュと同様、その実体は「見せかけ」であり、「蛇、まむしの子孫」そのものだと、「いのちの木」であるイェシュアによって見抜かれてしまっていたのです。当時の人々の中でイェシュア以外に彼らの本質を見抜いた人はどれほどいたことでしょうか。おそらくだれもいなかったのではないでしょうか。それだけにイェシュアの存在は彼らにとって疎ましい存在だったはずです。

4. 宗教指導者たちとエルサレム神殿とは、いずれも共に放棄される

【新改訳2017】マタイの福音書23章36~39節
36 まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

●イェシュアが過越の祭りにエルサレム入りした折、「いちじくの木を枯らす」という奇蹟を行いました。それはイスラエルを代表するユダヤの宗教指導者たちを放棄し、彼らが最も神聖視している神殿を打ち壊すという預言的行為でした。イスラエルの民とエルサレムの神殿は、本来神のご計画を実現するために神によって選ばれ、建てられたものでした。ですからイェシュアは「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった」と言っているのです。「めんどりのひな」とは「めんどり」が神で、「ひな」はイスラエルの民のことです。以下の申命記では、それが「鷲」と「巣のひな」にたとえられています。その関係はまことに美しいものです。

【新改訳2017】申命記32章11~12節
11 鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
12 ただ【主】だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。

※11節の「舞う」(「ラーハフ」רָחַף)という語彙は、創世記1章2節の「神の霊がその水の面を動いていた(分詞「メラヘフェット」מְרַחֶפֶת)」と語幹が同じです。

【新改訳2017】イザヤ書 31章4~5節
4 まことに、【主】は私にこう言われる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かって吼えるとき、たとえ大勢の牧者がそこに呼び集められても、獅子は彼らの声にひるむことなく、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の【主】は下って来て、シオンの山とその丘の上で戦う。
5 万軍の【主】は、舞い飛ぶ鳥のようにエルサレムを守る。これを守って救い出し、これを助けて解放する。

●4節には「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かって吼えるとき」とあります。「獅子、若獅子」とはアッシリア、「獲物」とはユダ、「大勢の牧者」とはエジプトをはじめとする周辺諸国のことです。「丘」はエルサレムを指します。4~5節は、主がどのような方法でエルサレムのために戦って、その民を守られるかについて述べています。「獅子」と「若獅子」にたとえられるアッシリアが「獲物」であるユダの民に向かって吼えるとき、しかも周辺諸国の「牧者」がみなエルサレムに集められたとしても、万軍の主が天から下って来て戦われるという預言です。この預言は、「終わりの日」において、再臨のキリストがオリーブ山に立ち、反キリストの軍勢を滅ぼしてエルサレムを守り、危機から神の民を救い出し、助けて解放することをも預言しています。聖書の中で実際に起こったことは、終わりの日に起こる出来事のひな型なのです。そのことを知って、旧約ですでに実現した預言の成就は、すでに終わったこととして理解するのではなく、最後に起こる出来事とも深くかかわっているということを想起しなければならないのです。話をマタイに戻すと、「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか」と語るイェシュアは、自分が神であることをここで証ししているのです。

●イスラエルの民が本来の祭司としての使命を再び果たすことができるために、一度は、「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」のです。ここで「おまえたちの家」の「家」は単数であることから、神殿のことを指していることは明らかです。しかも「主の家」ではなく、「おまえたちの家」となってしまっているのです。それゆえその神殿(宮)は「見捨てられる」(נָטַשׁ)のです。その意味は「そのままにしておく、放棄する」という意味です。しかし、「『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時」が来たときに、キリストは再臨されるのです。この祈りは異邦人の私たちが祈ることはありません。ユダヤ人たち(=イスラエルの残りの者)が心を痛めながら、「バールーフ・ハッバー・ベシェーム・アドナイ」と祈るとき、主は地上に再臨されるのです。

画像の説明

●この祈りなくして、キリストの再臨が実現されることはないのです。この祈りがなされるために、イスラエルの残りの者は獣と呼ばれる反キリストによる未曽有の苦難を通らなければならないのです。この歌がイスラエルの残りの者によって祈られるのは、奇蹟の中の奇蹟、復活の中の復活に等しいのです。ちなみに、私たち教会が歌うのは、天使たちが歌った「天軍賛歌」(ルカ2:14)でしょう。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

画像の説明

ベアハリート

●預言者ダニエルの預言に「七十週の預言」があります。その預言によれば、六十九週までの預言はすでに実現しています。残るはあと一週の七年間です。その一週が始まるのはエルサレムに神殿が建つときです。今はその歴史が止まっている状態です。なぜならダニエルの預言は、イスラエルの民と神殿が同時に存在しているときにしかその歴史は進まないからです。しかし歴史が動き出したなら、七年間の後にメシア王国がこの地上に実現するのです。七年間は前半の三年半と後半の三年半とに分かれます。後半の三年半に反キリストが立ち上がって神の民であるイスラエルを滅ぼそうとします。しかし神は彼らを荒野(ペトラ)に隠し、蛇である反キリストの難から守ります。そして彼らは荒野(ペトラ)において「恵みと哀願の霊」が注がれ、イェシュアがメシアであることに目が開かれるのです。同時に「バールーフ・ハッバー・ベシェーム・アドナイ」という祈りがなされることで、メシアが地上再臨されます。そこで、彼らとすでに携挙された教会はメシア王国と新しいエルサレムにおいて、神のしもべとして(祭司として)永遠に神に仕えるようになるのです。

2021.5.2
a:1808 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional