ヨシヤの徹底した宗教改革と不慮の死が意味すること
列王記の目次
43. ヨシヤの徹底した宗教改革と彼の死の意味
【聖書箇所】22章1節~23章30節
はじめに
- アハブ、ヒゼキヤ、マナセ、(アモン)、ヨシヤと続くこの王たちは、振り子の原理のように、右に振ったかと思えば、今度は左にと、その振り幅もこれまで以上に大きくなっていくという不可思議な現象がみられます。
- 列王記22章、23章に登場するヨシヤ王について列王記の著者の評価は22章2節と23章25節の二箇所にあります。
(1) 22章2節
「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」
(2) 23章25節
「ヨシヤのように心を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった」
- ユダ王国の中でも最大級の賛辞が述べられています。そのようなヨシヤの治世とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。以下の三つの事柄が顕著です。
1. 「律法の書」(申命記)の発見
- ヨシヤの治世18年目(ちなみに、預言者エレミヤはヨシヤの13年目に召命を受けています)に神殿で「律法の書」が発見されました。完全に神のあらゆる忌みきらうこと(偶像礼拝)を行なったマナセの治世の期間が50年以上もの長きにわたったものであったこと、また主の祭司たちやレビ人たちもリストラされたことと相まって、神の律法の書が隠されてしまったことは当然といえば当然ですが、それが焼却されることなく残っていたことは神の摂理でした。ヨシヤの治世になってそれが大祭司ヒルキヤによって神殿の中で発見され、ヨシヤはその「律法の書」に従って宗教改革を実行しました。
- 23章にはヨシヤ王がユダのすべての人々を集めて、律法の書のことばを読み聞かせ、再度、この書物に記されている契約のことばを実行することを誓っています。この書物は「セーフェル・ハッベリート」(סֵפֶר הַבְּרִית)単数で記されているので、おそらく「申命記」のことだと思われます。
- ただ、「律法の書」(「セーフェル・ハットーラー」סֵפֶר הַתּוֹרָה)の発見がヨシヤ王の治世18年目とかなり時が経過してからのことになるため、果たして「律法の発見」と彼がしようとした改革路線の兼ね合いが問題となります。おそらく「律法の書」が発見される前からすでに異教の祭具を壊し、神殿のための修理を含めた改革は始まっており、「律法の書」の発見はその政策路線に強力なはずみをもたらしたと言えるかもしれません。
- しかし、このようなヨシヤ王の改革もマナセが犯した罪を拭うことはできず、主がイスラエルの民をアッシリヤによって捕囚されたように、ユダの民もバビロンによって捕囚とするというさばきを回避することはできないということを女預言者フルダ(22:14)は語りました。
2. 主の定めた例祭「過越の祭り」を行なう
- 第二歴代誌35章によれば、ヨシヤは過越の祭りを行なったことが記されています。ヒゼキヤの時にも「過越」をするために全イスラエルに呼びかけたことが記されていますが、ヨシヤ王も同様にその例祭を回復させました。しかもヨシヤの時代の過越の祭は、ヒゼキヤの盛大さを超えるものであったようです。この祭りをすることによって、ユダの民は神にあって心を一つにされたことと思います。しかし、なぜか列王記にはその記述がありません。その理由は先ほども記したように、ユダのした行為が「律法の書」(申命記)の記すことばを成就させ、神のさばきを免れさせることが出来なかったからだと思われます。主の憤りはそれほどに燃え上がり、消すことができませんでした。
3. メギドでのヨシヤの不慮の死(戦死)が意味すること
- 23章29節以降にヨシヤの最期の記述があります。
エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。
一見、なんとあっけないヨシヤの最期かと思えます。ところが、このあっけない最期の背後に神の隠された計画があったのです。
- 歴代誌第二の35章21節によれば、エジプトの王はヨシヤと戦おうとして出陣してきたのではないことが述べられています。エジプトの王は「私の戦う家に行くところなのだ」と言います。それゆえヨシヤにかかわらないでほしいと言うのですが、ヨシヤはその声に聞き従わずにエジプトと一戦を交え、その結果、ヨシヤは敵によって矢を射られて死ぬことになります。
- ヨシヤの死は、後の時代の背教と南王国滅亡という事態へと(坂道を転げ落ちるように、だれもとどめることのできない事態へと)急転する引き金となったのです。このことを理解するためには当時の中近東の情勢を理解する必要があります。
- この時代はバビロンの勢力が次第に増し加わり、アッシリヤの勢力をしのぐほどになってきていました。そのために、エジプトはこの事態を回避すべく、アッシリヤを支援するために出征したのです。その出征を妨げる形でヨシヤ王が対峙したために、メギドで射られていのちを落とす結果となります。ユダとしてもバビロンの勢力は脅威であったはずです。エジプトとの戦いによるヨシヤの死は一見無駄な死であったように思われます。ところが、このメギドでの戦いによってエジプトの戦力はかなり削がれる結果となってしまいました。大きな視点から観るなら、結果として、バビロンの戦力は増してアッシリヤを滅ぼしてしまいます。当然、バビロンの勢力はユダにも及び、エルサレムは包囲されて滅び、多くの有能な者たちがバビロンの捕囚となります。しかしここに神のご計画がありました。というのは、捕囚の出来事は、神が神の民をリセットするための痛みをもった計らいだったからです。ヨシヤ王の不慮の死は神のご計画を早めたと言えます。つまり、ヨシヤ王の不慮の死は、人間的な思いを越えて、神のご計画が進められるための道具となったと言えるのです。
- エルサレムの崩壊、そしてバビロンへの捕囚はユダの人々に未曾有の苦難を与えましたが、預言者エレミヤはこの出来事を次のように語っています。
【新改訳改訂第3版】エレミヤ書29章
1 預言者エレミヤは、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、エルサレムから手紙を送ったが、そのことばは次のとおりである。
・・・・・10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
- ヨシヤの不慮の死によってやがてもたらされバビロンの捕囚は、神の目線から見るならば、「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」なのです。なぜなら、ユダの民はそこで再び神の律法によってリセットされ、トーラー・ライフスタイルを二代、三世代にわたって築き上げ、再び、エルサレムに戻されるからです。
- ヨシヤ王は神の律法によって宗教改革を試みましたが、神のご計画はそれをはるかに上回る改革だったのです。それは、エルサレムを一度完全に崩壊させて、再び、新しくされた神の民を立ち上がらせるための計画です。神の民が再び神の栄光の位置に着く前に、バビロンでの捕囚の辱めと苦難を通して、自分たちに与えられていた神の律法のすばらしさに霊の目が開かれること、それが神の隠されたご計画でした。それゆえヨシヤの死は決して無駄ではなく、ある意味でそれを早めさせただけでなく、神のご計画の実現の必然性を啓示しているとも言えるのです。
- まさに、「律法の書」(申命記)の発見には、ヨシヤの宗教改革の成果をはるかに越えるような、つまり、神の民が「律法の書」によって神にさばかれ、そして同時に「律法の書」によって再び建て上げられるという神のご計画の秘密が隠されていたのです。
2012.12.10
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