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ヨブ記のエピローグ(1) ヨブの「見神」経験

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28. ヨブ記のエピローグ(1) ヨブの「見神」の経験が意味すること

【聖書箇所】42章1~6節

ベレーシート

  • ヨブ記の最後の章を迎えました。果たして、ヨブ記は私たちに何を教えようとしているのか。それを把握することは簡単なことではありません。ヨブが最後に神に語ったことば(42:2~6)だけを取り上げてもそのように言えます。ましてやヨブの神への訴えは聞かれたのかどうか。苦難の問題は結局どうなったのか。ヨブ記はどのようにキリストを証言しているのか・・等々。それらをまとめることは容易ではありません。
  • 今回、まずヨブが神に答えて言ったことを正確に理解するように努めたいと思います。そして神が「わたしのしもべヨブ」と呼んだその呼称についても考えてみたいと思います。

1. ヨブの「見神」の経験

  • 「あらしの中から」語りかけた神に対して、ヨブが答えて言った最後のことば(42:1~6)の冒頭は「ヤーダティー」(יָדַעְתִּי)で始まっています。つまり、「私は知りました」(新共同訳「私は悟りました」)という意味ですが、「何を知ったのか」「何を悟ったのか」、その内容は以下の二つです。

    (1) あなたには、すべてができること。
    (2) あなたは、どんな計画も成し遂げられること。

  • 主にはできないことは何もないということ。また、どんな計画も成し遂げられること。この二つを「知った」(「ヤーダ」יָדַע)のです。この「知った」とは、単に知識として知ったというよりは、神との直接的なかかわりを通して知ったということです。聖書では夫婦の愛の営みも「知る」ということばで表わされます。ここでも、神がヨブに直接現われて語りかけてくださったことによって、ヨブははじめて主を「知った」のです。そのことをヨブは5節で「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」と表現しています。ヨブは主の語りかけを聞いただけでしたが、彼は「あなたを見ました」と答えています。
  • 同じく見神の経験をした預言者イザヤの場合、彼は自分の目で幻を見たのです。といっても、実際の目ではなく、心の目、あるいは霊的な目で見たのです。ヨブの場合、直訳すると「私の目はあなたを見た」(「エーニー・ラーアーッテハー」עֵנִי רָאָתְךָ)となりますが、「目」(「アイン」עַיִן)は、ヘブル語ではその人自身を意味します。つまり、それはヨブが期待したような形ではありませんでしたが、主ご自身のヨブに対する啓示(語りかけ)によって、ヨブ自身が主の語られることを「理解した」ということを意味します。
  • エバがサタンにだまされて罪を犯した際の行動を見ると、まず「木の実を見て、取って食べ、与えた」とあります(創世記3:6)。「見た」ことが罪の第一歩だとすれば、その逆である「神を見る」ことは救いにつながります。ちなみに、聖書は人の完全な救いの完成の表現を「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)としています。
  • ヨブの見神の経験が預言者イザヤのそれと異なる点は、イザヤの見神の場合は、神を見たことによってイザヤ自身が死に値する者として恐れましたが、ヨブの見神の場合は、神の直接的な啓示を全存在をもって受けとめたことです。換言するならば、パウロが経験した「目からウロコが落ちた」ように経験であったろう推察します。またこのような経験(神との出会い)をヨブができたのは、ヨブが自分が納得できるまで、どこまでも神を尋ね求めて、神に訴えたからだと言えます。この「訴え」「言い分を立てること」(「リーヴ」רִיב)は裁判用語ですが、まさに「ヨブのリーヴ」が神に届いたのです。
  • ヨブが経験した「見神」の経験は、ヨブをして創造者である神の絶対性と被造物である人間の卑小さを自覚させました。つまり、ヨブがずっと訴えていた自分の義を完全に崩壊させたと言えます。

2. 42章4節をどのように理解するか

  • ところで、ヨブが語った4節のことばはどのように理解したら良いのでしょうか。新改訳第二版で読んでいる人には、おそらく、この箇所の意味が分からないはずです。

    【新改訳改訂第3版】
    さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。
    【口語訳】
    『聞け、わたしは語ろう、/わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
    【新共同訳】
    「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
    【中澤洽樹訳】
    よく聞け、このわたしが語っているのだ。わたしがお前に問うているのだから(もう一度)答えよ。


    【新改訳改訂第3版】は42章で4箇所を改訂しています(3, 4, 6, 10節)。特に4節は、改変前(第二版)の訳が「どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。」となっていますから、かなりの部分が改変されています。また、第二版で「私」と表記していた部分が、すべて「わたし」という表記に改変されています。新改訳の場合、「わたし」は神の第一人称の表記として用いられています(神が語られる時に用いられる)ので、ここでは、かつて神が語ったことばをヨブがここで引用しているということになります。他の訳もみなそのような意味で訳しているようです。
    中澤洽樹氏は、順序を入れ替えて、対話的構成を復元して、4節のことばを42章の冒頭に持ってくることで、神が語ったことばとしています。


3. 42章6節をどのように理解するか

  • 主の問いかけに対して、ヨブはそれを理解したことを6節で言い表わしています。3章から始った詩文による文体は42章6節のヨブの言葉で終結します。ところが、このヨブの最後のことばはきわめて重要です。ここでも新改訳では訳が改訂されていますので要注意です。つまり、6節の最後のことばである「悔い改めます」が「悔いています」に改訳されているのです。訳が異なると当然解釈も異なってくるため、少々、この節にこだわってみたいと思います。
  • 6節を諸訳で見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】
    それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています
    【口語訳】
    それでわたしはみずから恨み、/ちり灰の中で悔います
    【新共同訳】
    それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け悔い改めます
    【中澤洽樹訳】
    そこでわたしは(傲りを)捨て、塵灰の身に甘んじます
    (中澤氏の旧訳では「自ら憐れみます。」としており、その訳も可能だとしています。)
    【バルバロ訳】
    そのために私は自分の愚かさにあきれ、ちりと灰の上で悔やみます

  • 「さげすむ」「恨む」「退ける」「捨てる」「あきれる」と訳された原語は「マーアス」(מָאַס)で、拒絶、拒否、否定する意味の語彙です。リビングバイブルは「つくづく自分に嫌気がさしました」と訳していますが、妙訳です。ここでヨブが否定しているのは、おそらく中澤氏が訳しているように、ヨブがこれまで主張してきた「自分の義」と考えられます。
  • 6節にあるもうひとつ重要な語彙は「ナーハム」(נָחַם)で、本来、「悲しむ」「憐れむ」「悔いる」「悔やむ」を意味します。新共同訳や関根訳は「悔い改めます」と訳しています。この「ナーハム」が聖書で最初に使われている箇所は創世記5章29節ですが、そこでは「ナーハム」の強意形ピエル態で「慰める」という意味で使われています。基本形の意味で最初に使われているのは、同じく創世記の6章6節です。そこには「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とあります(新共同訳は「後悔した」と訳しています)。「後悔する、悔やむ」ということと「悔い改める」という表現は必ずしも同じではないように思います。ここをどう理解するかで、ヨブ記全体のイメージにも影響してくるように思います。ここ(ヨブ42:6)での「ナーハム」は、これまでヨブを支えてきた自分の義がポッキリと折れてしまったわけですから、悲しみがないはずはありません。しかし、その悲しみも「神のみこころに添った悲しみ」であるなら次があります。つまり「いのちをもたらす悲しみ」です。
  • 「いのちをもたらす悲しみ(悔い)」とは、神の光で自らを照らした真実な姿を、自己中心で傲慢な自分を認めて悲しむことです。それを認めることはとてもつらいことであり、悲しみを伴うことなのですが、これが「神のみこころに添った悲しみ」なのです(Ⅱコリント7:10参照)。ヨブは「自分をさげすみ」ながらもそれで終わることなく、神を中心とした人生の方向へと転換することができた人だと言えます。それゆえ主は、以前(1~2章)と変わることなく、彼を「わたしのしもべヨブ」と四度も(42:7,8)呼んでいるのです。聖書の世界において「しもべ」は最高の称号なのです。
  • このような意味において、「悲しむ」「悔いる」の意味をもった「ナーハム」を、ヨブの主体的決断として「悔い改めます」と訳することが可能なのだと思います。


2014.7.15


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