七週の祭り(五旬節)
七週の祭り(五旬節)
1.「五旬節」の奥義
【新改訳2017】使徒の働き2章1~4節
1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
(回復訳:すると突然、激しい風が吹いてきたように、天から音が聞こえ、彼らが座っていた家中を満たした。)
●新改訳では「響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」と訳されていますが、原文は回復訳が示すように、「家の内側を満たした(プレーロー:πληρόω)」とあります。これは器の内を満たしたことを意味しています。預言的・奥義的・象徴的な表現です。その上で以下のことが起こっています。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
●4節の「満たされ」は「ピンプレーミ:πίμπλημι」が使われています(4:8、31、9:17、13:9も参照)。これは人々を外側から包むようにして満たすことを意味します。外側から霊で満たすことで何が起こったのかといえば、内側にあるものが「語り出される」のです。それは口、舌によって、言葉で、あるいは賛美で語られるのです。その例が、ルカ1章15節、41節、67節にあります(預言的)。聖霊によってバプテスマされるとき、キリストを証しする力が与えられるのです。その力はどのようにして現されたでしょうか。それは、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めたということです。これはやがてユダヤ人が諸国の民に御国の福音を伝えることの預言的なしるしです。単に、異言を語り出すようになったということではありません。事実、パウロは誰よりも異言で語った人でした(Ⅰコリント14:18)。「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」というしるしは、世の終わりに、イスラエルの残りの者が「恵みと嘆願の霊」を注がれることで、「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆」にイェシュアが伝えた御国の福音を告げ知らせることになるというしるしなのです。エックレーシアの場合も、イェシュアから大宣教命令が語られています。
【新改訳2017】マタイの福音書28章18~20節
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
●使徒の働きの「聖霊のバプテスマ」は重層的です。エックレーシアに対しても、イスラエルの残りの者に対しても現される重層的なしるしなのです。また預言的というのは、神の計画はアブラハムに対して約束されたように、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創12:3)とあるように、必ずユダヤ人から異邦人に福音が伝えられるのです。五旬節に弟子たちに「聖霊のバプテスマ」が注がれ、その後、異邦人であるカイサリアのローマ百人隊長とその家族に同じ聖霊のバプテスマが注がれているのも、そのことを表しています。そのために、その前にユダヤ人であるペテロの「理解の型紙」「固定概念」を壊すという周到な主の導きがなければなりませんでした。そのようにして、使徒の働き10~11章で異邦人が「聖霊のバプテスマ」を授けられています(使徒11:16)。
【新改訳2017】マタイの福音書24章14節
御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
●このことばは、終わりの日に起こる文脈で語られています。つまり、最後に神によって立ち上がって来る「イスラエルの残りの者」によって「御国の福音」が全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされて、多くの異邦人が救われて来ることが起こり、それから、終わりが来ることをイェシュアは語っています。エックレーシアにも福音宣教の務めが命じられていますが、今日のエックレーシアは、初代教会が伝えた「御国の福音」とは異なった福音を伝えていることが問題です。つまり「御国の福音」についての正しい理解が必要なのです。使徒パウロも怯むことなく、御国の福音を伝えていたことが使徒の働き20章に記されています。御国の福音とは、「神のご計画のすべて」を含んでいます。パウロはそれを余すところなくエペソの教会で知らせたと述べています。パウロにしては最も長い三年をエペソでの働きに費やしました。その間、彼は怯むことなく、御国を語り続けたのです。御国について語るためには、昼も夜も、聖書をたましいではなく、霊を活用して学ぶ必要があります。アシュレークラスはそのための訓練の場です。
2.「初穂の小麦粉で作ったパン種入りの二つのパン」を奉献物として献げることの奥義
【新改訳2017】レビ記23章15~17節
15 あなたがたは、安息日(過越祭の後に来る安息⽇)の翌日から、奉献物(テヌーファー:תְּנוּפָה/揺り動かすささげ物)の束(オーメル:עֹמֶר、単数・男性)を持って行った日から満七週間を数える。
16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物(⼩⻨の初穂によるパン)を主に献げる。
17 あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物(テヌーファー:תְּנוּפָה)としてのパンとして持って行く。これは主への初物である。
●大麦、小麦の場合には「奉献物」(テヌーファー:תְּנוּפָה)として献げます。ここで重要なことは、「七週の祭り(五旬節)」で奉献する「⼆つのパン」です。しかもこの「⼆つのパン」は⼩⻨粉の初物で作ったパンであり、しかも「パン種を⼊れて焼いたもの」を祭司のもとに持って⾏かなければならなかったのです。⼀つのパンではなく、⼆つのパンです。なぜ⼆つでなければならないのでしょうか。それは「ユダヤ人」と「異邦人」が、やがてイェシュアによって一つにされるという奥義が隠されているからです。聖霊によってその真意が啓⽰されるまで、ずっと⻑い間、その必然性に覆いが掛けられてきました。「覆いが掛けられている」というのは、⾒えていても⾒えないという状態を意味します。しかし今や、私たちは⼀⼈ひとりキリストから受けた「注ぎの油」(Ⅰヨハネ 2:27)がとどまっているので、みことばが本来語ろうとしていたものを検証することができる時代に⽣きているのです。神の救いのご計画においては、今や新しい時代、つまり「聖霊の時代」が到来しているということです。
●最後に、近年アシュレークラスで「開かれた覆い」の最も大きなものを紹介して終わりたいと思います。それは、マタイ福音書13章にある「種蒔く人のたとえ」です。種蒔く人も、種もイェシュアのことです。これは難しくありません。難しいところは、8節にある「また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった」の「百倍、六十倍、三十倍」という部分です。マルコではこれが逆になって「三十倍、六十倍、百倍」となっています。それぞれ10で割ると「3・6・10」になります。これをヘブル文字に換算するなら、それは「ゴーイ:גּוֹי」つまり「異邦人」となります。これはACの石田保さんがそれほど考えずに口にしたそうですが、その意味を尋ね求めていた私にとって晴天の霹靂でした。しかし、それだけではこのたとえ話は解けません。肝心なのは「良い地」の理解です。これが「素直な心」ではなく、イェシュアの死と復活によって回復された「人の霊」(実際は「いのちを与える霊」と「人の霊」とがミングリングされた霊)のことだと知らされ、そこに種蒔く人であるイェシュアのことばが入ることで、多くの実を結ぶのだと悟ったのです。しかしそのことと御国の福音がどう繋がるのかが分かりませんでしたが、「シェーム・イェシュア」によって尋ね求めることで、ヨハネの黙示録7章の144,000人の「イスラエルの残りの者」とつながり、「大勢の数えきれない、殉教を余儀なくされる異邦人」へとつながったのです。このように、聖霊の働きによって御国のご計画がより明確に開かれて来たことを心から感謝しています。今日は「七週の祭り」「五旬節」ですが、イェシュアが二つのパンを一つにして、「新しい一人の人」として創造されるのは、エックレーシアの場合は「携挙」の時に、またイスラエルの残りの者と異邦人の場合はキリスト再臨の時、つまりメシア王国でそれが創造されるのです。
【新改訳2017】詩篇133篇1~3節
1 見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。
2 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。
3 それはまた ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ。
主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
2026.6.4
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