主の「さばき」と「正義」
7. 主の「さばき」と「正義」
【聖書箇所】イザヤ書2~4章
ベレーシート
●イザヤ書5章は1~4章までのまとめであり、6章以降に展開するすべてを包含する重要な章です。まずはじめの5章1~6節まで、新改訳では一つの鍵括弧(「」)で括られているため、人称(特に「わが」「わたし」)が一体だれのことを指しているのか分かりにくくなっています。原文には括弧というものがありません。翻訳の段階で、理解しやすいように加えているのです。中澤洽樹氏は括弧を3~6節にしているので、その括弧の中で語られている「わたし」とは「万軍の主」であることが明確に分かります。そして1節の「わが愛する者」を、2節では「彼」として、歌っているもうひとりの「わたし」という人称がいます。それが預言者イザヤ自身なのです。岩波訳の場合、括弧は一切ありません。
●聖書を読む時、人称がだれを指しているのかを知ることは重要です。そうでないと混乱してしまいます。たとえば、詩篇2篇6~9節にある「わたし」という人称も混乱を招く箇所の一つですが、その人称を正しく理解することで、神のご計画における全貌が見えてくる仕掛けとなっています。
1. 主のぶどう畑に対する愛の歌
●1節にある「わが愛する者」の「わが」とはイザヤのことで、「愛する者」とは「主」のことです。そしてその(愛する者の)「ぶどう畑」(ケレム:כֶּרֶם)とは「エルサレムの住民とユダの人(複)」のことです。つまり「わが愛する者のぶどう畑に対する愛の歌」を預言者イザヤが歌うという設定になっているのです。この「愛の歌」の前半は希望の歌となっていますが、後半は失望の歌となっています。その「ぶどう畑の歌」を見てみましょう。
【新改訳2017】イザヤ書5章1節後半~2節
1bわが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。
2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
●この歌には、「主」の「ぶどう畑」(ケレム:כֶּרֶם)にたとえられたイスラエル(エルサレムの住民とユダの人々)に対する愛がよく表されています。「ぶどう畑」は実に手がかかるようです。そのことを示唆する動詞の語彙が以下のように重ねられています。それらのすべてが、ぶどう畑を造る手順の「恩寵用語」なのです。
(1) 「掘り起こす」(アーザク:עָזַק) ぶどうの木を植えるために土を掘り起こして根や切り株を取り除く。
(2) 「石を除く」(サーカル:סָקַר) 大小の石を取り除く。
(3) 「植える」(ナータ:נָטַע) 良いぶどうの木(特選のぶどう=ソーレーク:שׂוֹרֵק)を植える。
(4) 「(やぐらを)立てる」(バーナー:בָּנָה) 盗賊、略奪を防ぐための「やぐら」(見張りの塔)を立てる。
(5) 「(酒ぶねを)掘る」(ハーツェーヴ:חָצֵב) ぶどうを踏みつけるための酒ぶねを石を削って掘る。
(6) 「(甘いぶどうがなるのを)心待ちにする(待ち望む)」(カーヴァー:קָוָה)
●(6)の「カーヴァー」の初出箇所である創世記1章9節では、「天の下の水は一つの所に集まれ」の「集める」に「カーヴァー:קָוָה」が使われています。集める目的は「海と乾いた所が現れ」るためです。その「乾いた所」(地)を歩く者たちがいるのです。その者たちこそ「イスラエルの民」であり、神が彼らを通して、ご自身のご計画を成就しようと「心待ちにする(待ち望む)」(カーヴァー:קָוָה)のです。
●エルサレム近郊は石の多いところで、その石を取り除くことだけでも大変な作業です。しかしそこを耕してぶどう畑にし、見張りの塔(ミグダール:מִגְדָּל)を立て、ぶどうの実を踏んで潰すための石を削って作った「酒ぶね」(2017「踏み場」)を用意して、特選のぶどうがなるのを楽しみにして待っていたのです。これはたとえです。神の民イスラエルのことを、聖書では「ぶどう畑」にたとえています。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、そして詩篇にあるぶどう畑についての言及を並べてみましょう。
① イザヤ書5章4節
わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。
なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。② エレミヤ書2章21節
わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、
どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。
●ここで重要なことは、イザヤ書もエレミヤ書も、神が「なぜ」「どうして」と問いかけていることです。「良いぶどう」(イザヤ5:2)、および「純種の良いぶどう」(エレミヤ2:21)と訳されたヘブル語は、いずれも「ソーレーク」(שׂוֹרֵק)で、「特選のぶどう」を意味します。そのようなぶどうになることを期待されて植えられたのです。ところが主の大いなる期待にもかかわらず、その期待は裏切られ、「酸いぶどう」「質の悪い雑種のぶどう」に変わってしまったのです。
●「酸いぶどう」(イザヤ5:4)は「酸っぱいぶどう」という意味ではなく、「腐ったぶどう」という意味です。原語は複数形の「べウシーム」(בְּאֻשִׁים)です。その語源である動詞「バーアシュ」(בָּאַשׁ)は「異臭を放つ」という意味です。エジプトに対する神のさばきとして、死んだ魚のためナイル川の水は臭くて飲めなくなったとあります(出7:21)。また、かえるが死んで地は異臭で満ちたともあります(出8:14)。出エジプトした神の民が荒野でマナを神から与えられますが、多く取ったマナは翌日には虫がわいて、臭くなったとあります(出16:20)。このように、「酸いぶどう」は「悪臭を放つぶどう」であったということです。さらに、「質の悪い雑種のぶどう」(エレミヤ2:21)は「ゲフェン・ノフリッヤー」(גֶּפֶן נָכְרִיָּה)で、「異質なぶどうの木」という意味です。特選のぶどうは「ソーレーク」(שׂוֹרֵק)で表し、普通のぶどうは「ゲフェン」(גֶּפֶן)で表されます。主が特選のぶどうを期待して待っていたのは、アブラハムを選んで約束した契約に基づいています。その約束が以下の「アブラハム契約」です。
【新改訳2017】創世記12章1~3節
1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
●「わたしが示す地へ行きなさい」という「地」は、最終的に「モリヤの山」、すなわち「エルサレム」です。主はアブラハムを大いなる国民とし、祝福となって、地のすべての部族が彼によって祝福されるという契約(約束)です。ですから、主は彼らが「特選のぶどうの木」となるように、大いに期待したのです。アブラハムとその子孫に対する神の特別な愛は、このアブラハム契約によって堅く固定されているのです。申命記10章15節に「主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された」とあります。「慕って」と訳されたへブル語「ハーシャク」(חָשַׁק)は、幕屋の周囲の柱がみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わされてしっかりと固定されている様子を表す「つなぎ合わせる」の意味です。つまり、アブラハム契約に堅く固定されている愛なのです。そのような神の真実な愛、選びの愛にもかかわらず、今回のイザヤ書5章は、その期待が裏切られたことを訴えている箇所なのです。
③エゼキエル書15章6~8節
6 それゆえ、神である主はこう言われる。「わたしが薪として火に投げ入れた、森の木立の間のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。
7 わたしは彼らに敵対して顔を向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを焼き尽くす。わたしが彼らに顔を向けるそのとき、あなたがたはわたしが主であることを知る。
8 彼らがわたしの信頼を裏切ったので、わたしはこの地を荒れ果てさせる──神である主のことば。」
●この箇所では、すでに「なぜ」「どうして」といった問いかけが一切ありません。良い実を結ばなかったぶどうの無用性が語られ、神がエルサレムの住民に対して顔を向けることを決意され、徹底的な審判が下ることが語られています。
④詩篇80篇8~14節
【新改訳2017】詩篇80篇8~14節
8 あなたは エジプトから ぶどうの木を引き抜き 異邦の民を追い出して それを植えられました。
9 その木のために あなたが地を整えられたので それは深く根を張り 地の全面に広がりました。
10 山々もその影におおわれました。神の杉の木もその大枝に。
11 ぶどうの木はその枝を海にまで 若枝をあの川にまで伸ばしました。
12 なぜ あなたはその石垣を破り 道を行くすべての者が その実を摘み取るままにされるのですか。
13 林の猪はこれを食い荒らし 野に群がるものも これを食らっています。
14 万軍の神よ どうか帰って来てください。天から目を注ぎ ご覧になってください。このぶどうの木を顧みてください。
●選びの愛によって、エジプトからぶどうの木を引き抜き、異邦の民(カナン人)を追い出してそれを植えられた主が、その木のために地を整えられたので、それは深く根を張り、地の全面に広がりました。このことが示すのはダビデ・ソロモン時代です。にもかかわらず、良い実を結ばなかったため、異邦の勢力によって「摘み取るままにされ」てしまったのです。ところがこの詩篇80篇では、神からではなく、民の方から「なぜ」という問いかけがあります。そして主に「帰って来てください」、「ご覧になってください」、「顧みてください」という「悔い改め」の新たな展開を示しているのです。
2. 「ぶどう畑」に対する主の訴え
●腐って、悪臭を放つぶどうは捨てるしかありません。イザヤは、主が特別の関心をもって世話をして来られたイスラエルの家(エルサレムの住民、ユダの民)である「ぶどうの実」が、期待に反してできてしまったことを、六つの「わざわいだ」(ホーイ:הוֹי)という間投詞を使って、その罪を非難しています(5:8, 11, 18, 20, 21, 22)。「ホーイ」は「わざわいだ」とも「ああ」とも訳されます。まさにそれはイザヤの悲嘆の声でもあり、神の悲嘆の声です。エルサレムの住民の不正の罪が、以下に六つ挙げられていますが、実際は七つの罪です。マタイの福音書でも、ユダヤの宗教指導者たちに対してイェシュアが「ホーイ」を七つ挙げています。それは、マタイがイザヤを意識したものと考えられます(事実、マタイの福音書には11回のイザヤ書からの引用があります)。
①「貪欲の罪」
【新改訳2017】イザヤ書5章8~30節
8 わざわいだ。家に家を連ね、畑に畑を隣り合わせる者たち。あなたがたは場所を残さず、自分たちだけこの地に住もうとしている。
9 私の耳に万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む者がいなくなる。
10 十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」●私利私欲によって他人の家と畑を自分のものとし、自分たちだけがこの地に住もうとする罪。しかし奪った家と土地は不毛の地と化します。「十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し」とは1/500の割合、「一ホメルの種が一エパを産する」とは1/10の割合を意味します。
②「遊興の罪」
11 わざわいだ。朝早くから強い酒を追い求め、夜が更けるまで、ぶどう酒に身を委ねる者たち。
12 彼らの酒宴には竪琴と琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。
彼らは主のなさることに目を留めず、御手のわざを見もしない。●11~12節の罪は、終日、酒浸りの生活、放蕩三昧の生活。これでは諸国を祝福する「王なる祭司」の務めにおいて、正しい判断力が失われます。その結果が13と14節です。
13 それゆえ、私の民は知識がないために捕らえ移される(=捕囚される)。その貴族たちは飢えた者となり、その民衆は渇きで干からびる。
14 それゆえ、よみは喉を広げ、果てしなく口を開ける。エルサレムの威光も、騒音も、どよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。
③「神に対する不信と反逆の罪」
18 わざわいだ。嘘を綱として咎を引き寄せる者。車の手綱でするように、罪を引き寄せる者たち。
19 彼らは言う。「彼のすることを早くさせよ。急がせよ。それを見てみたい。イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい」と。●18~19節の罪は、神のさばきが来ると聞いても信じようとはしない傲慢な態度です。
④「真理を曲げる罪」
20 わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。
⑤「自己過信、高慢の罪」
21 わざわいだ。自分を知恵のある者と見なし、自分を悟りのある者と思い込む者たち。
⑥「酩酊の罪」
22 わざわいだ。酒を飲むことにかけては勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけては豪の者。
●22節は「酩酊の罪」で、たとえ能力がある者であっても、臨戦意識を喪失します。
⑦「正義を曲げる罪」
23 彼らは賄賂のために、悪者を正しいと宣言し、その悪者から正しい者たちの正しさを遠ざける。
●23節は「わざわいだ」という語彙はありませんが、省略されていると考えられます。ここでは、「正義を曲げる罪」です。賄賂によって正義が失われるのです。
24 それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎の中に溶けゆくように、彼らの根は腐り、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。
25 それゆえ、主の怒りはその民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打つ。山々は震え、彼らの屍は、通りで、あくたのようになる。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。
26 主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図される。すると見よ、それは急いで速やかに来る。
30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、闇と苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。●24節から最後の30節までは、エルサレムの住民、ユダの人々に対する神の厳しい最も恐ろしいさばきが総括的に預言されています。24節の「それゆえ」(ラーヘン:לָכֵן)、25節の「それゆえ」(アルケーン:עַל־כֵּן)、26節と30節の「すると見よ」(ヴェヒンネー:וְהִנֵּה)、30節の「その日」(バッヨーム・ハフー:בַּיּוֹם הַהוּא)がそのことを表しています。要約するなら、24節の「万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮った」ことが、主の怒りを燃え上がらせ、その怒りは直接的に「バビロン捕囚」となって現されます。しかしイザヤの「その日」(30節)は、終わりの日の大患難時代に成就される内容を重層的に含んでいるのです。
3. 神の統治理念である「ミシュパート」と「ツェダーカー」
【新改訳2017】イザヤ書5章15~16節
15 こうして人間はかがめられ、人は低くされる。高ぶる者の目も低くされる。
16 しかし、万軍の主はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。
●15節はイザヤ書2章9節のほぼ繰り返しですが、16節は「万軍の主はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される」とあります。この「さばき」と「正義」という二つの語彙が実はとても重要です。なぜなら、これらの語彙は神の統治・支配を意味する語彙だからです。イザヤの神観の中心は、公正な「さばき」(ミシュパート:מִשְׁפָּט)と「正義」(ツェダーカー:צְדָקָה)です。「さばき」を意味する「ミシュパート」は神の絶対主権を表す語彙であり、それによって神の公正と正義が明らかにされることが「さばきによって高くなる」という意味です。「さばき(公正)」と「正義(義)」を意味する「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)と「正義」(צְדָקָה)はセットで用いられることが多いです。その最初の例は、ソドムとゴモラについて、主が言及した箇所にあります。
【新改訳2017】創世記18章17~26節、32~33節
17 主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。
19 わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義(צְדָקָה)と公正(מִשְׁפָּט)を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」
20 主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。
21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」
22 その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ主の前に立っていた。
23 アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者(ツァッディーク:צַדִּיק)を悪い者(ラーシャー:רָשָׁע)とともに滅ぼし尽くされるのですか。
24 もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。
25 正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正(מִשְׁפָּט)を行うべきではありませんか。」
26 主は言われた。「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」
32 また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。」すると言われた。
「滅ぼしはしない。その十人のゆえに。」
33 主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の家へ帰って行った。
●17節で「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」とあります。「まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない」(アモス3:7)とあるように、主は預言者であるアブラハム(創20:7)に対して、みこころを示し、ソドムとゴモラに対してなさろうとすることを明らかにされました。また19節で、主がアブラハムと約束されたことに基づいて語っていることも注目すべきことです。つまり「わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義(צְדָקָה)と公正(מִשְׁפָּט)を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ」とあります。
ところで、この約束が成就するのはいつのことなのでしょうか。それは「その日」「終わりの日」の時であり、つまり「イスラエルの残りの者」が立ち上がってからのことです。
●アブラハムはソドムとゴモラに甥のロトがいるため、心配して「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか」「もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか」と尋ねています。すると、主の答えは「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう」と答えています。そして、四十五人、四十人、三十人、二十人、十人と食い下がりますが、十人で止まっています。なぜでしょうか。聖書は答えていませんが、すでに答えは出ています。ソドムとゴモラにはだれ一人「正しい人」はなく、滅びが定められているということです。これが神の「公正」(מִשְׁפָּט)であり「正義」(צְדָקָה)なのです。使徒パウロは、この二つを合わせて「神の義」としています。再臨のキリストこそが神の「公正」(מִשְׁפָּט)と「正義」(צְדָקָה)をもってさばく方として来られるのです。イェシュアというメシアなしに神の「公正」と「正義」という基準を満たすこと、クリアする者は、だれ一人としていないのです。
べアハリート
●神の「さばき」(ミシュパート: מִשְׁפָּט)は、神の統治とその理念、支配、主権、父性的訓練(懲罰も含む)、計画、導きなどを表しています。その統治の在り方は決して専制君主のようではなく、驚くべき愛に満ちた福祉理念に基づいています。「ミシュパート」はいろいろな言葉で訳されていますが、語源となっている動詞は「シャーファト」(שָׁפַט)です。その本来的な意味合いは「さばく」ですが、どのようにさばくのかと言えば、正義と公正をもって、かつ神の恵みやあわれみ、真実と知恵、深い計らいをもってです。とするなら、「ミシュパート」は「神の統治支配の総称」と言えます。しかもそれは御国の福音なのです。まさにイスラエルの民は、このような神の統治理念を世に対して証しすることが本来求められていたのです。バビロン捕囚を経験した民が詩篇119篇において以下のように告白しています。これは、やがての「イスラエルの残りの者」がこのように賛美するようになるという預言なのです。
① 詩篇119篇7節
あなたの義のさばき(מִשְׁפְּטֵי צִדְקֶךָ)を学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。
② 詩篇119篇20節
いつのときも あなたのさばき(מִשְׁפָּטֶיךָ)を慕い求めて、私のたましいは押しつぶされるほどです。
③ 詩篇119篇30節
私は 真実の道を選び取り、あなたの定め(第三版:さばき)(מִשְׁפָּטֶיךָ)を自らの前に置きました。
④ 詩篇119篇39節
・・あなたのさばきはすぐれて良いからです(כִּי מִשְׁפָּטֶיךָ טוֹבִים)。
⑤ 詩篇119篇62節
真夜中に、私は起きてあなたに感謝します。あなたの正しい(義の)さばき(מִשְׁפְּטֵי צִדְקֶךָ)のゆえに。
⑥ 詩篇119篇75節
主よ、私は知っています。
A あなたのさばきが正しいこと(כִּי־צֶדֶק מִשְׁפָּטֶיךָ)と、
B あなたが真実をもって私を苦しめられたことを。(AとBとは同義)
⑦ 詩篇119篇164節
あなたの義のさばき(מִשְׁפְּטֵי צִדְקֶךָ)のゆえに、私は日に七度、あなたをほめたたえます。
●ここでの告白は過去のものではなく、最後に立ち上がる「イスラエルの残りの者」の悔い改めのことばであり、かつ神のさばき(מִשְׁפָּט)と正義(צֶדֶק / צְדָקָה)を正しく理解した彼らの、神に対する賛美なのです。詩篇は預言の書です。そのように受け止めるなら、接ぎ木される私たちも同様に、「ほむべきかな 神である主 イスラエルの神。ただひとり 奇しいみわざを行われる方」(詩篇72:18)と賛美することができるのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2025.7.20
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