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主の名をさげすむ祭司たち

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2. 主の名をさげすむ祭司たち

【聖書箇所】 1章6~14節

ベレーシート

  • 1〜5節では神のイスラエルに対する愛が語られましたが、6節以降では、イスラエルの神に対する愛が問われます。特に、神殿における礼拝を司っている祭司たちに非難が向けられています。この時代は捕囚後の神殿再建がなされたあとの時代です。この時代には総督はいますが、王制はなく、この時代のユダの指導者は祭司たちでした。その祭司たちが神の道から逸脱していたことが問題だったのです。王制時代には預言者の糾弾の対象は王でしたが、マラキの糾弾対象は祭司たちです。

1. 「わたしの名をさげすんでいる」

  • ここでの箇所の鍵語は「さげすむ」ということばです。1章には4度(6, 6, 7, 12節)その語彙が出てきます(他に2:9)。「さげすむ」と訳された「バーザー」(בָּזָה)の初出箇所(創世記25:34)を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】創世記25章34節
ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

  • エサウが神から与えられていた長子の権利を「軽蔑した」ことは、神ご自身を(神の名を)「さげすんだ」ことと同義です。マラキが糾弾した当時の祭司たちは、まさにエサウの霊性であったということです。
  • 反対に、「神の名をあがめる」ことは神の戒めの第一戒を生きることです。その土台を「さげすむ」ことは、それに続く戒めがすべて「さげすまれる」運命にあります。祭司の役割は「ささげもの」を通して神と人とのかかわりを建て上げることでしたが、その役割において、欠陥のある動物のいけにえをささげることが良いか悪いかは容易に察しがつくことですが、そのことがいい加減にされていたのです。自分たちに与えられている神への責任を軽く考えていたのは、まさにエサウの霊性と言えます。

2. 預言者たちの霊性

  • マラキに限らず、主の預言者たちが語るメッセージには、必ず、神の御計画(マスタープラン)にある「御国の福音」が含まれています。マラキ書1章に限って言えば、11節にそれが語られています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書 1章11節
日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。──万軍の【主】は仰せられる──

  • 11節のことばは、一見、唐突な感じを受けます。しかしこの唐突さに、預言者たちがいつもどこに目を向けていたかが表われています。つまり、それは「御国」です。いつの時代でも、預言者たちはこの「御国の到来」の視点から現実を見つめ、そして語っているのです。その視点のない預言者は偽預言者です。真の預言者と偽預言者を見極めるには、彼らが「御国」の視点から語っているかどうかを判断する必要があります。そのためには、私たち自身が「御国」についての正しい理解が必要となります。
  • 使徒パウロは三年半、手塩にかけて育ててきたエペソの教会に対して、「御国の福音」(=神のご計画の全体)を、余すところなく知らせておいたと述べています(使徒20:27)。「神の恵みの福音」(十字架による贖い)はそれに与った者の経験としてあかしすることができますが、「御国の福音」は後の日に実現し完成されるため、今はそれを体験してあかしすることはできません。しかし「御国の福音」は聖書から論証することができるのです。パウロの時代は聖書と言っても、私たちのいう旧約聖書しかありませんでした。その旧約聖書の中に預言されている神のご計画における「御国」を、彼は怯むことなく人々に教えていたのです。なぜなら、そのことがイェシュアが語り教えたこと(たとえと奇蹟)だからです。今日のキリスト教会はこの「御国」の視点から聖書を読み、神のご計画を知る必要があります。置換神学と個人的救いの強調の弊害から脱却しなければなりません。私たちの信仰と希望と愛は「御国の福音」を土台としなければならないからです。
  • 「御国の福音」の射程範囲は、「ユダの家とイスラエルの家」の「残りの民」のみならず、それに接ぎ木される異邦人、つまり「諸国の民」が含まれています。マラキ書1章11節には、この「諸国の民」(「ゴーイム」גּוֹיִם)が二度も使われています。この言葉が実は終末の「御国の福音」と深くかかわっているのです。詩篇でこの「諸国の民」という語彙が出てくるきには、メシア王国のことが語られていることとが多いのです。私たちも旧約の預言者たちと同様に、神の壮大なヴィジョンに心躍らす者でなければならないのです。箴言29章18節にこうあります。

【新改訳改訂第3版】
幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。


【口語訳】
預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。


【NKJV】
Where there is no revelation, the people cast off restraint;But happy is he who keeps the law.


幻がなければ、民はほしいままにふるまう。
しかし律法を守る者は幸いである。

これは反意的パラレリズムです。前半の部分は「幻なき民」の姿であり、後半の部分は「幻のある民」、すなわち「律法を守る者」の姿です。

●「ほしいままにふるまう、わがままにふるまう」と訳された「パーラ」(פָּרַע)は、「放任する、なおざりにする、無視する」という意味です。この語彙はエジプトの王の称号である「パロ」(「ファルオー」פַרְעֹה)と同じ語幹です。

  • 「幻」「預言」「revelation」と訳された「ハーゾーン」(הָזוֹן)は、神のご計画における「幻」であり、神の終末における「預言」(あるいは「神の約束」)です。したがって、この「幻」という言葉が、人間的な「夢」とか「目標」とか「計画」という意味で使われてはなりません。人間本位のヴィジョンではなく、神本位のヴィジョンを意味する語彙だからです。ですからその証拠に、このみことばの後半には、「律法を守る者は幸いである」ということが実現する御国の到来のことが、パラレリズムの反意形で表現されているのです。「見よ。その日が来る」という定式で語られる「メシア王国」においては、人々は「神のトーラー」が心に記されるために、それを行うことができるようになるのです(エレミヤ書31:3~35参照)。
  • 1章14節の後半も同じく、御国の視点から語られている事柄です。御国を基点として、現在のあり方を非難し、矯正しようとしているのです。これこそが神の預言者としての務めなのです。

2015.7.10


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