****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(12)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.12

人の霊(12)

べレーシート

●シリーズ「霊によって生きる」の前回は、人の霊の中にある「直覚」(intuition)という機能について取り上げました。その直覚の機能は、「目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった」というパウロの回心と、第二次伝道旅行の折に「聖霊によって禁じられた」「イェシュアの霊がお許しにならなかった」という表現に働いていたことを学びました。引き続いて、今回は霊における「交わり」の機能を取り上げたいと思います。つまり、霊の中で「神をさらに知るようになっていく」という機能です。

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1. 「心の目」とその機能

●再生された霊の中に「交わり」の機能があるということを考える時に、パウロが使った「心の目」(エペソ1:18)という表現を考えてみたいと思います。この表現は聖書で一回しか使われていません。ここでの「心」を「人の最も深い所にある内なるもの」という換喩とするなら、それを知る能力を「心の目」としているのかもしれません。ちなみに、心は単数形で、「目」は(「オフサルモス」ὀφθαλμος)の双数形です。

●ギリシア語で「」を表す語彙は二つあります。「カルディア」(καρδία)と「ヌース」(νοῦς)です。その使用頻度は前者が156回、後者は24回です。果たしてそこに明確な違いがあるのでしょうか。ルカの福音書24章にある「心」の例を見てみたいと思います。

①【新改訳2017】ルカの福音書 24章25節
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。(καρδία)が鈍くて、預言者たちの言ったこと
すべてを信じられない者たち。
②【新改訳2017】ルカの福音書 24章32節
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの(καρδία)
は内で燃えていたではないか。」
③【新改訳2017】ルカの福音書 24章45節
それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの(νοῦς)を開いて、

●ルカ24章にある①②③に見られる弟子たちの「心」には、「カルディア」(καρδία)から「ヌース」(νοῦς)へと移行する変化を見ることが出来ます。つまり、①は弟子たちの生来の心を、イェシュアは「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言っています。しかし、②ではイェシュアの話を聞く中で起こってきた彼らの心の変化が見えます。そして③では復活されたイェシュアの霊がすでに弟子たちの心にあって、イェシュアも彼らの心を開いて神のことばを悟らせようとしていることが分かります。

●特に、②の弟子たちの心の変化は注目に値します。復活のイェシュアは「キリストは必ず苦しみを受けて、それから栄光に入る」という必然性を、聖書全体を通して彼らに説き明かされました。二人の弟子はこうした必然性をそのときまで聞いたことがなかったのか、あるいは聞いていても悟れなかったのかもしれません。イェシュアはメシアに関する箇所を次から次へと引用しながら、しかも、それらを密接に関連づけながら、次々と神のご計画の秘密を説き明かされたのです。つまり、ある視点をもって結び合わされて関連づけられることによって、それまで見えていなかった事柄が見えるようになり、それまでバラバラであった聖書知識が一つの糸を紡ぐように結び合わされます。みことばが説き明かされるということは、そのようなことなのです。そして、みことばが説き明かされることによって、聞く人々が「心燃える経験」をするのです。ですから、二人の弟子たちは感動をもって「道々お話しくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか」と言うことが出来たのです。

●二人の弟子が「心燃える経験」をしていたので、目的地に着いても、さらに、より深く、もっと話を聞きたいと思い、イェシュアを自分たちの家に「泊まるように」と無理に願ったのでした。イェシュアが「もっと先まで行きそうな様子であった」とあるのは、イェシュアの戦術です。もし弟子たちの関心が希薄であれば、それまでということで、イェシュアは去って行かれたはずです。しかし弟子たちが、聖書が言わんとすることをより正しく理解しようとして尋ね求めた時に、さえぎられていた目が開かれたのです。これは神の奇蹟的な業です。

●二人の弟子たちはイェシュアに「一緒にお泊まりください」と言って強く勧めたので、イェシュアはそれに応じられました。ここで重要なことは、弟子たちの自発性です。「泊まる」ということばは「どとまる」(「メノー」μενω)で、ヨハネの福音書のキーワードです。つまり、神との親しい交わりを持つことを意味しています。その交わりを通して、イェシュアの食卓の仕草を見た彼らの目は開かれて「イェシュア」だと知ったのです。ここで彼らは初めて聖書を解き明かしてくれた人こそ「イェシュア」だと気づいたのです。

●イェシュアが語ることばは霊であり、いのちをもたらすものであることが証明された出来事でした。人の霊の中にある「いのちを与える御霊」には神を知るための機能があり、それが「霊の交わり」を可能としているのです。しかもそれは、霊の中の「直覚」と密接につながっています。生来の人の「たましい」の領域にある「知覚」を司る「心」(καρδία)がありますが、それは霊的な事柄においては鈍いのです。しかし再生された「霊」の領域では、イェシュアの語ることばには、「神を知る」新しい「心」(νοῦς)を造り出す力があります。それは聖霊による新たな創造であり、かつ産物です。この産物は、パウロが言っているように、「御父が、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださった」という事実に基づいています(コロサイ1:13)。ここで、「移してくださった」と訳された「メスィステーミ」(μεθίστημι)は、「ともに」を意味する「メタ」(μετα)と「立つ」を意味する「イステーミ」(ίστημι)の合成語で、御子の支配(=王国・御国を意味する「バシレイア」βασιλεία)の中で、「主とともに立つ」ことを意味します。御子の支配に移された者の「心」には、神を知り、神と交わる機能が回復されているのです。この新しい(「ヌース」νοῦς)は、キリストを信じる者だけに与えられています。ですから、以下のみことばにあるように、「主キリストの心を知る」という霊的な「交わり」の機能が働いているのです。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙 2章16節
「だれが主の心(νοῦς)を知り、主に助言するというのですか。」 
しかし、私たちはキリストの心(νοῦς)を持っています。
(※回復訳は「ヌース」を「思い」と訳しています。)

●この新しい心を与えられていない者には、いかに優れた生来の能力を有していたとしても、神との霊的な交わりを持つことは不可能です。なぜなら、神と交わる機能が回復されていないからです。サウロがダマスコ途上でキリストと出会ったとき、三日間、目が見えなくなりました。しかし、主の弟子のアナニアが彼のところに遣わされ、按手して祈ると「目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった」(使徒9:18)のです。何が彼の内に起こったのでしょうか。アナニアが主に遣わされてサウロに手を置くように言われたのは、彼が「聖霊に満たされる」(「ピンプレーミπίμπλημι)ためです。これは「外側の満たし」を意味する語彙です。一方、「目から鱗のようなものが落ちた」という表現は、彼の霊の中に聖霊が満たされた(=「プレーロー」πληρόω)という「内側の満たし」があった事実を物語っています。

●ヨハネの福音書20章で、復活されたイェシュアは秘密の昇天をした後で地上に戻って来て、弟子たちの前に現れ、息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われました。このとき弟子たちの内側にイェシュアは「いのちを与える御霊」となって入り、人の霊を回復してそれとミングリングされました。そして40日の間、イェシュアは地上において霊となって弟子たちの内側におられ、同時に、霊のからだをもって彼らの外側でもご自身を顕現されています。このことは、やがて40日後にイェシュアが公に天に昇天して神の右の座に着座された後も、変わることのない真実です。イェシュアは、復活してから公の昇天までの40日にわたって弟子たちの前に現れています。ご自分が生きておられることを示されただけでなく、御国について再び語り、ご自分が常に弟子たちとともにいることを示されました(使徒1:3)。

●ところで、なぜ顕現の期間が「40日」なのでしょうか。これは奥義です。「40」という数は聖書では「試みの数」です。と同時に、それは神の民が「主の御手によって守られていること」を啓示する数でもあるのです。というのも、40という数は「主の御手」を意味する「ヤード・アドナイ」(יָד יהוה)のゲマトリア(10+4+10+5+6+5=40)に等しいからです。つまり、三一の神が「いのちを与える御霊」となって人の内側におられ、そして「聖霊によるバプテスマ」(使徒1:5)によって外側から「力を着せる」(ルカ24:49、使徒1:8)ことを通して、相互内在、同時同存として、私たちとともにおられることを啓示している数、それが「40」なのです。

●さて、今回のメッセージの要点の第一は、「神を知るための知恵と啓示の御霊」によって、「心の目がはっきり見えるようになる」ということです。ここに霊的な交わりの機能があることが啓示されています。そして要点の第二は、この霊的な交わりによって、主にある者たちがはっきりと見る(=知る)ようになる事柄が語られています。そのことを見て行きたいと思います。

2. 心の目がはっきりと見えるようになる

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、
聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

A 「神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられること」(17節)
A’ 「心の目がはっきり見えるようになること」(18節)

●AとA’は同義的パラレリズムです。つまり栄光の父から「知恵と啓示の御霊(=霊)が与えられること」と、「心の目がはっきり見えるようになること」は同義です。この祈りの対象者はキリストにあって新しく造られた者(New Creature)です。生来の人間は神を知ることはできないからです。パウロがここで記した「心の目がはっきり見えるようになる」(明らかにされる、開かれる)とは、人の霊が回復し、その霊の中にある直覚の機能が働いて、神を知るようになることを意味しています。直覚の機能とは、「神を知ること、神を知覚すること、神の奥義を悟ること」にあります。このようにして、神と人とが交わることができるのは霊の中においてです。これはサウロが「目から鱗のような物が落ちた」経験に相当します。そのことによって、彼はそれまで死んだと思っていたイェシュアこそ、メシアであるということを悟ったのです。まさに彼の直覚の機能によって「心の目」が開かれ、それまで隠されていたことを悟れるようにされたのです。「心の目」とは「たましいの視力」ではありません。霊的な目、霊的な視力を意味します。神のことばの奥義、神のヴィジョン、神の「ご計画とみこころ、みむねと目的」を悟ることを意味するのです。

●この祈りは、誰に対して祈っているかといえば、「私たちの主イエス・キリストの神」、すなわち、「栄光の父」に対してです。この「栄光の父」という表現も「心の目」と同様、ここだけです。新共同訳では「栄光の源である御父」と訳しています。「栄光に輝く父」と訳す聖書もあります。この「栄光の父」に、パウロは「神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように」と祈っています。何のためにかといえば、神を知るためにです。すでにエペソの教会の人々はクリスチャンであり、すでに主イエス・キリストを通して御父である神をすでに知っているはずです。また、神の愛を持って聖徒たちが互いに愛し合っています。そうした彼らに、神を知るために、知恵と啓示の御霊が与えられるように祈っているというのは、「さらに深く神を知る」ということでなくて何でしょう。「神を知るということ」において、私たちはこの世で卒業証書をいただくことはありません。もっと深く神を知りたいという願いと求めは、神の子どもとしての健全な願いです。「さらに神を知る知恵」というものは、単に、聖書を読んでいれば自然に与えられるものではありません。「さらに神を知る」願いは、さらなる祈りの次元へと移って行きます。

B 「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」(18節)
(この「望み」は単数形で、定冠詞がついています。「あれもこれもでない、あの一つの望み」という意味。)
B’ 「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」(18節)
B” 「信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」(19節)

●BとB’とB”も同義的パラレリズムです。それによって、C「知ることができる」ように(19節という総合的パラレリズムを形成しています。さらにその「知る」べく究極は何かといえば、最後に詳しく述べますが、「すべてのものをすべてのもので満たす方」、すなわち、「キリスト」です(23節)。20~22節は23節を説明する神のプロセスを説明しています。23節こそがパウロの祈りの焦点なのです。この焦点こそ私たちが知るべき事柄なのです。

●初代教会では、多くのクリスチャンがローマ帝国によって迫害を受けました。そのため多くの国に離散する者たちも少なくなかったのですが、そんな彼らに対して、使徒ペテロは手紙を書きました。それがペテロの手紙です。その手紙にはこうあります。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙1章3~5節
3 ・・神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。
これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

●この世において、いつ生命が奪われるかもしれない状況の中で、神の子たちがどこに目を向けて歩むべきか、ペテロは諭したのです。それは決して失われることのない、朽ちることも汚れることもない、消えて行くこともない天における資産(相続財産、嗣業、天の宝、栄光の富)という「生ける望み」でした。換言するなら、それは「神ご自身」、あるいは、「栄光の望みーあなたがたのうちにおられるキリスト」「私たちの望みなるキリスト」ということができます。「神の召しによって与えられる望み」、「聖徒の受け継ぐべき栄光の富」とは、キリストをわがものとするという意味なのです。

●詩篇73篇の作者はアサフです。彼はダビデの時代の有力な霊的指導者であり、礼拝をつかさどる賛美リーダーでもありました。彼が不条理な社会、とりわけ、神を信じていない者がこの世で栄え、苦痛も無く、平安そうで、富も増している社会に目を向けたとき、作者は愚かでわきまえのない獣のようになったと告白しています。なぜなら、彼は目に見える比較の世界の中に迷い込んだからでした。もし、民衆がこのことを知ったら多くの者たちがつまずきかねない姿でした。しかし彼が聖所に入祈っているときに、霊の目が開かれたのです(旧約の場合はある特別な人に神の霊が働いています)。そして、彼は「神は、・・私が受ける割り当ての地」と告白しました。そして彼は「神のみそばにいることが幸せ」だと悟ったのです。

●この詩篇の結論は詩篇の冒頭に記されています。「まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たち」です。「心の清らかな人たち」 (「バーレー・レーヴァーヴ」בָּרֵי לֵבָב)とは、「試みを通して心が清くされた者たち」を意味しています。清いを意味する「バーレー」(בָּרֵי)は「バル」(בַּר)の複数形ですが、語源となっているのは「バーラル」(בָּרַר)です。これは、試みを通して心の目が開かれた者たちのことです。理解の型紙が破られて、心の目が開かれると、「神の召しによって与えられる望み」と「聖徒の受け継ぐべき栄光の富」が備えられていることが見えてくるのです。天に目を向けることができるとき、私たちは、私たちの心を奪うものから守られ、一つのことに専心する者となることができるのです。このことを信じることができますか。 

●バビロン捕囚を経験した者が、神に対して以下のような祈りをしています。

【新改訳2017】詩篇119篇18 節
私の目を開いてください。※「私の目」(「エーナイ」עֵינַי) 「目」は双数形。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。

●「あなたのみおしえのうちにある奇しいこと」= あなたの教え(トーラー)にある不思議さ(「ニフレオート」נִפְּלֶאוֹת) = あなたのみおしえのうちにあるキリストのこと。なぜなら律法が目指すものはキリストだからです。

3.「プレーローマ」としてのキリスト

●パウロも「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」のことを「奥義」だと言っています。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙1章25~27節
25 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、
26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。
27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

●パウロは神から委ねられた務め、つまり「神のことばを完成させる務め」を与えられました。回復訳は25節を以下のように訳しています。

わたしは、神の執事職にしたがって、その奉仕者になりました。それは、あなたがたのためにわたしに与えられたものであり、神の言を完成するためです。

●下線の「神の言を完成するため」の部分は、原文では「神のことばを満たすため」となっています。「満たす」は「プレーロー」(πληρόω)です。新改訳は26節で「(神のことばを)余すところなく伝えるため」と訳しています。いずれにしても、パウロの神のことば(「ロゴス」λόγος)を「完成させる務め」の中心は「神の奥義としてのキリスト」と「満ち満ちたキリストをかしらとする教会」を啓示することであったのです。パウロの祈りは以下において、その頂点を極めます。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章20~23節
20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです

●下線の「満たす」と訳された語彙は「満たし続けていること」「満ち満ちている状態」を意味する名詞「プレーローマ」(πλήρωμα)です。その方こそ「キリスト」です。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ」(コロサイ1:19)にある「満ち満ちたもの」も同じく「プレーローマ」です。また「満ちておられるところ」と訳されている語彙は、「満ち溢れる」を意味する動詞の「プレーロー」(πληρόω)の分詞です。つまり、一杯になって「溢れ流れる状態」を意味します。このことは霊の中にある直覚によらなければ到底理解することはできないことです。生来の知性では悟ることができないのです。教会の本質を理解することが困難なのはこの所以です。しかし教会の本質的な理解こそ、New Creatureとされた者にとってはきわめて重要なのです。そのために「知恵と啓示の御霊」が不可欠であり、「心の目がはっきり見えること」が必要なのです。

ベアハリート

●神の永遠のご計画は、教会がそうであるように、この地のすべてが、「すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ」となります。神の真の安息がそこにあります。この神の究極的ヴィジョンを私たちの思いとし、生ける望みとすることができるように祈りたいものです。いつもそのことを思い描きながら、御国に向かっての旅路を続けていきたいものです。死んでから「御国に向かっての旅路」がスタートするのではありません。私たちが、キリストにあってNew Creatureとされたときから、すでに「御国に向かっての旅路」は始まっているのです。御国に向かっての旅路の歩みが続けられるのは、この世に生かされている間だけです。死は一時の眠りでしかありません。再び目覚めるときには、キリストにある望みはすでに成就し、完成されているのです。

三一の神は私たちの霊とともにあります。

2022.10.2
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