****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(13)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.13

人の霊(13)

べレーシート

●シリーズ「霊によって生きる」のNo.11では霊の中の「直覚」という「たましいという通路を通すことなく、直接的に神のみこころを知る機能」があることを学びました。No.12では「霊の中で神をさらに知るようになっていく」という「交わり」の機能があることも学んで来ました。そして今回のNo.13では霊の中にある「良心」という機能について学ぼうとしています。これらは密接なかかわりをもって機能しています。

●「良心」と訳された語彙は旧約聖書では2回、新約聖書では29回です。29回のほとんどはパウロが言及しています。ちなみにヘブル語は一律に「レーヴ」(לֵב)と表記され、たましいの「心」と同義です。ギリシア語は「シュネイデーシス」(συνείδησις)という言葉で、「健全な良心」「きよい良心」「邪悪な良心」「責められることのない良心」「良心が証ししている」として使われています。人の霊の中にある「良心」の機能を考える上で、どういうことが「健全な良心」であり、「きよい良心」と言えるのかをまず考えてみる必要があります。

1.「きよい心」

●ウイットネス・リーは「神の永遠のご計画」(神のエコノミー)の中で、聖書において「きよい心」に言及している三つの箇所を挙げています。その三つとは、詩篇73篇1節、マタイの福音書5章8節、Ⅱテモテへの手紙2章22節です。その三つの聖句を見てみましょう。

①【新改訳2017】詩篇73篇1節
まことに 神はいつくしみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに。

②【新改訳2017】マタイの福音書5章8節
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

③【新改訳2017】Ⅱテモテ人への手紙 2章22節
あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

●特に、上記③のパウロが愛弟子のテモテに語った「きよい心」があります。新約で「きよい心」と訳された語彙は「カサロス・カルディア」(καθαρός καρδία)で、それは「純粋な心」です。純粋な心とは何でしょうか。それは「単一の心」、「単純な心」であることです。それは混合していない(混ざっていない)というニュアンスです。目標と目的において一つであること、つまり「主ご自身だけを唯一の目標と目的とすること」、「ただ一つのことを求めること」(One Thing)に情熱を燃やす心を意味しています。パウロは愛弟子のテモテに対して「きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」と命じていますが、「義と信仰と愛と平和」は神のみを求める純粋な心を通して与えられる副産物と言えます。

●上記の②のみことばは、イェシュアが山上の説教の中で語ったことばです。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:8)。ここでの「きよい」も同じ意味で「神に対する純粋な心」なのです。「神を見る」の「見る」は、ギリシア語の「ホラオー」(ὁράω)が使われています。新約聖書において「神を見る」というフレーズはこの箇所にしかありません。ここでの「神を見る」の時制は未来形となっています。つまり「必ず神を見るようになる」という意味であり、それは終末的な希望なのです。旧約聖書では神を見た者は死ぬと考えられていました。したがって、御子イェシュアを除いては「いまだかつて神を見た者はいない」のです(ヨハネ1:18、6:46、Ⅰヨハネ4:12)。神のふところにおられた御子イェシュアが神を説き明かされたことによって、「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と語られています。「見た」とは「すでに見ている」(現在完了)という意味です。これは霊の中で見ることを意味しています。すでに私たちはイェシュアを通して神を見ていると言えますが、いまだ不完全であることは言うまでもありません。しかし、やがて完全に「神の御顔を仰ぎ見る」ようになるのです(Ⅰコリ13:12、黙示録22:4)。

●「心のきよい者は幸いです」をヘブル語にすると「アシュレー・バーレー・レーヴァーヴ」 (אַשְׁרֵי בָּרֵי לֵבָב)となります。「バーレー」(בָּרֵי)は「バル」(בַּר)の複数形です。後で詳しく述べますが、「バル」とは息子を意味し、御子イェシュアを指し示します。つまり「心のきよい者(複)」とはイェシュアにつながる者たちであることを意味しています。というのは、「人の心は何よりもねじ曲がっている。癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」(エレミヤ書17:9)とあるように、私たちの心は絶望的な状態にあるのですが、そのような者を神はイェシュアの血潮を通して「心のきよい者」たちとしてくださり、やがて神を見るようにさせてくださるのです。

●ちなみに、「神を見る」の「見る」(「ホラオー」ὁράω)をヘブル語に戻す時に、二つの語彙が用いられています。一つは「ラーアー」(רָאָה)の未完了形、もう一つは「ハーザー」(חָזָה)の未完了形です。この語彙の違いは何なのでしょうか。前者が直接的であるのに対し、後者は間接的と言えます。間接的というのは、主ご自身に附随するものを「見る」ということで、主ご自身の「麗しさ」や「力」や「栄光」であったり、あるいは、主のなされる「みわざ」や「復讐」であったりを「見る」ことです。つまりそれらも含めて、やがてキリストの再臨によって完成される御国において「神を見る(仰ぎ見る)」ということが実現するのだと考えられます。エデンの園で主の御顔を避けた人間が、主の家において「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)。これこそが神のご計画の完成、救いの成就を意味しています。

●前頁①のみことばは、詩篇73篇の冒頭であり、作者アサフが霊的な葛藤の果てに得た結論として記されています。その結論とは「まことに 神はいつくしみ深い。イスラエルに 心の清らかな人たちに」でした。ここでの「清らか」というヘブル語には「バル」(בַּר)が使われています。「バル」は「息子、子」、および「穀物、小麦」をも意味します。形容詞としての「バル」(בַּר)は「混じり気のない、きよい」状態を意味します。これらは預言的に、「息子」は神の御子イェシュアを指し示し、「穀物(小麦)」も人となられたイェシュアの人性を指し示しています。しかもそれは御父に謙遜に仕えたイェシュアの姿です。これは詩篇1篇にある、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ「その人」(詩篇1:3)、すなわちイェシュアを啓示しています。「その人」を信頼する人々を、詩篇73篇では「心の清らかな人たち」と預言的に語っているのです。「預言的」というのは、やがて神がそのようにしてくださるという意味です。

●さらに、メシア詩篇の一つである詩篇24篇を見てみましょう。

【新改訳2017】詩篇24篇3~6節
3 だれが 【主】の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。
5 その人は 【主】から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ

●4節にある「心の澄んだ人」は単数形の「バル・レーヴァーヴ」(בַּר־לֵבָב)です。「だれが 【主】の山に登り得るのか。だれが その聖なる御前(=聖なる所)に立てるのか。」とこの詩篇は問いかけています。「【主】の山」と「聖なる御前(=聖なる所)」は同義的パラレリズムとなっており、それは「エルサレム」を意味しています。そこにだれが「登る」のかをヘブル的視点から考えるならば、イェシュアのことを預言的に啓示していることが分かります。なぜなら、へブル語で「登る、上る」という動詞「アーラー」(עָלָה)は単に「登る」という意味の他に、「(いけにえを)ささげる」とか、「反芻する」という意味があるからです。「反芻する」動物はきよい動物であり、全焼のいけにえや罪のいけにえとして祭壇にささげられる牛や羊です。「主の山に登る」という行為は、やがて聖なる山エルサレムにおいて、神にささげられる神の子羊イェシュアを預言的に象徴しています。つまり、「だれが 【主】の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか」と問われるならば、それは「心の澄んだ人」であるイェシュアしかいないのです。イェシュアこそ霊の中に生きた模範なのです。

2. 「良心」の機能

●これまで、「心のきよさ」について長々と述べてきましたが、今回のテーマは人の霊の中にある「良心」という機能についでてす。聖書に記されている「心のきよさ」と「良心」は密接な関係を持っています。「心のきよさ」の真意は、神に対する混じり気のなさです。それはパウロのいうところの「私にとって生きることはキリスト」(ピリピ1:21)という告白と同義です。これこそが、霊の中の「良心」が本来果たすべき機能なのです。

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●人は蛇(サタン)の狡猾な声にだまされた結果、その霊が機能不全を起こしてしまいました。霊の中にある神に対する「直覚」と「交わり」の機能も壊滅状態に陥りました。ところが「良心」だけは、かろうじてわずかに機能しているのです。神のことば(福音)は人の霊の中にあるその「良心」に訴えかけるのです。神の呼びかけの声に対して良心が反応するときのみ、霊は奇跡的に回復するのです。とすれば、神の子とされた者は良心が奇跡的に働いたことになります。

3. 「霊の残り」(「霊の残滓」「霊の残骸」)とその証し

●旧約聖書の預言書の最後に「マラキ書」がありますが、その中にとても不思議なことばがあります。

【新改訳2017】マラキ書 2章15節
神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。
神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。

●この15節はどんな意味でしょうか。文脈を見るなら、2章は「祭司に対する糾弾と祭司の本来の務め」について記されているところです。祭司たちは神から与えられた務めの道から外れ、多くの者たちをつまずかせてしまっていたのです。そのつまずきの原因を、祭司たちが神の教えを「えこひいきをしながら教えた」からだとしています。それは、主の教え(トーラー)を相手の顔(顔色)を見て(伺って)、都合の良いように解釈し、教えることを意味します。これはイェシュアが弟子に対して「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく批判しましたが、まさにこのことが「えこひいき」に当たるのです。神の教えでなく、人が喜びそうな教えを語ることを意味します。もし、教会でそのような教えが語られたとしたらどうでしょうか。人が喜ぶとは、人間の肉が喜ぶということです。それはこの世の教えと何ら変わりません。使徒パウロは愛弟子のテモテに神のことば(神の教え)を語ることを命じています。なぜなら、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって、自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け・・て行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3~4)と警告しています。

●祭司たちが神の教えを「えこひいきしながら教えた」というマラキの時代は、夫である者が異教の女性と新しく結婚するために、妻たちを離婚させていたようです。そのような背景の中で語られたのが、15節なのです。イスラエルには信仰の継承という課題があったにもかかわらず、それを無視する風潮がその時代にはあったのです。それに対する主の声が15節のことばでした。

●「霊の残り」の原文は「シェアール・ルーアッハ」(שְׁאָר רוּחַ)となっています。KJVは「the residue of the spirit(霊の残滓=残留物、残りかす)」、NKJVは「a remnant of the Spirit(霊の残骸)」と訳しています。これが「良心」と考えられます。イメージとしては「残りかす」で価値がないように思えますが、神がわずかでもそれを残してくれなかったとしたら、私たちはどうなっていたことでしょうか。神に立ち返るチャンスは全くないということになるのです。

●イェシュアは復活したその日の夕方、弟子たちが隠れるようにしていた所に現われました。そして、息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」(=「聖霊を受け取れ」)と言って、いのちを与える御霊となり、弟子たちの霊の中に住まわれました。このことによって、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言ったイェシュアのことばが成就したのです。「成就する」ということばは「プレーロー」(πληρόω)で、彼らはそのときに、イェシュアの約束通りに霊の内が「聖霊に満たされた」のです。この満たしも「プレーロー」(πληρόω)です。さらに、それから50日目(五旬節)の時に、120名の弟子たちに神の御座から力ある聖霊が降り、彼らは「聖霊に満たされ」ました。これは「聖霊によるバプテスマ」(使徒1:5)のことです。この聖霊の満たしは「ピンプレーミ」(πίμπλήμι)という言葉です。つまり、初代教会の人たちは、内と外の両方から聖霊で満たされたことになります。その代表である使徒ペテロはこのときの状況について、不信がっていた人たちに対してメッセージを語り出します。そのメッセージは「復活し、神の右に上げられたイェシュアが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださった」と説明したあとに、次のように語りました。

(1) イスラエルの人々の証し

【新改訳2017】使徒の働き2章36~41節
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

●ここで重要なのは、37節です。「人々はこれを聞いて心を刺され、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った」ということです。このことから、彼らはペテロのことばを受け入れ、バプテスマを受けたのです。「心を刺され」(「カタニュッソマイ」κατενύσσομαι)という語彙は「心が激しく突き刺さる」ことを意味します。ここ一回限りですが、ここに霊の中の「良心」が働いた証拠があります。

(2) ダビデの証し

●旧約では、ダビデに「良心」が働いたことを見ることが出来ます。

【新改訳2017】Ⅱサムエル記 24章10 節
ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは【主】に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。【主】よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」

●「良心のとがめを感じた」を、他の訳で見ると「心に責められた」「心の呵責となった」「良心は痛み始めた」と訳されています。この痛みは、神との関係において引き起こされているのです。とすれば、ダビデが民を数えることで、ダビデの「ただ一つ」の心に何かが混ざり込んでしまったと言えます。ダビデという名前は「神に愛される者」という意味ですが、神との愛の関係の中に他の何かが混じり込んだことを意味しているのです。これはダビデ自身だけが認知できることです。神の代理者である王ダビデにとって、民を数えたことは神との関わりを損ねてしまうほどのことであったのです。

●聖書が記述するダビデの罪は二つあります。それは「姦淫の罪」と「人口調査に潜む罪」です。歴代誌によれば、後者の罪は、「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えさせるように、ダビデをそそのかした。」(Ⅰ歴代誌21:1)と記しています。このことを命じられたダビデの側近ヨアブは、疑心暗鬼に「なぜ、このようなことを望まれるのですか」とその動機をダビデに尋ねますが、ダビデに説き伏せられてしまいます。しかしこのことでダビデは神のみこころを損ない、結果として、神はイスラエルを打たれたのですが、その前にダビデは「良心のとがめを感じた」のです。

●神のみこころを損なったダビデの罪は、サムエル記がもっている主題に抵触するものだと言えます。つまり、イスラエルの真の王は神ご自身であり、人間の王はあくまでも神の代理者にしかすぎないという、他の国にはない独自の理念を根底から覆しかねない罪だったのです。「人口調査」それ自体が悪いことではなく、それを利用することによって、他の国の王のように国を私物化する専制君主となってしまう危険をはらんでいたのです。これはイスラエルの王制の理念を根底から覆す罪であり、一国のリーダーにつきまとう誘惑です。

●ヨアブはダビデの命令に従い、「ダンからベエル・シェバまで」(つまり、北から南までの全土を9ケ月かけて)人口調査をしました。ところが、「ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた」とあります。ちなみに、「とがめを感じた」と訳された原語は「打つ、打たれる」を意味する「ナーハー」(נָכָה)が使われています。ダビデは自分の犯した罪が重大なものであることに耐えられなくなり、心が打ち破られて、神が預言者ガドを遣わされる前に自分の罪を神の前に認めています。ここがダビデのすごさでもあります。だれにも分からない心の深いところに隠されている動機、この動機こそ神に背く罪だったのです。

●私たちは普通、バテ・シェバ事件を通してダビデが自らの罪の深さを知ったと考えがちです。バテ・シェバ事件は罪の性質上だれでもよく理解できますが、人口調査の件はその罪の性質がよくわからないために、注目されません。人口調査という罪とは無関係に見える事柄の中に「隠れた野心、自惚れ、王国の私物化」の罪、その罪による神のさばきの大きさ。上に立つ者のよこしまな思いと政策がただちにその者の下にいる者たちに災いとなって跳ね返ってくることに、ダビデは王としての自分の罪の深刻さを思い知らされたに違いありません。

●事実、このダビデの罪によって、イスラエルの民の7万人が疫病にかかって死ぬことになります。一見、大変な数の人々が犠牲になりましたが、これはひとつの見せしめとしての数です。神の代理者であるイスラエルの王が神の支配から逸脱していくことで、イスラエルの国全体を滅びに招くとすれば、7万人どころか、何十万、何百万という人々が犠牲となります。このようにダビデの人口調査は、イスラエルの王が神の代理者であることを忘れて他国と同じように専制君主の道を歩むならば、より悲惨な結果が待っているまっていることを見せしめとして教えた出来事と言えます。

【新改訳2017】詩篇51篇10~12節
10 神よ 私にきよいを造り 揺るがないを 私のうちに新しくしてください。
11 私を あなたの御前から投げ捨てず あなたの聖なる御霊を 私から取り去らないでください。
12 あなたの救いの喜びを私に戻し 仕えることを喜ぶで 私を支えてください。

●10節でダビデは「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」という積極的な祈りをしています。「きよい心」とは「レーヴ・ターホール」(לֵב טָהוֹר)、「揺るがない霊」とは「ルーアッハ・ナーホーン」(רוּחַ נָכוֹן)です。それを「造る」(「バーラー」בָּרָא)という動詞は、「天と地を創造した」の「創造した」と同じ動詞です。「造る」(「バーラー」בָּרָא)の主語は常に神です。ダビデは、天と地を造られた神以外に、自分を全く新しく再創造してくれる者はいないことを確信して神に祈り求めているのです。人間の罪性(原罪)は私たちのたましいの知覚によるものではなく、ただ霊の中にある「良心」によってのみとらえることができるのです。そこから「主よ。私をあわれんでください」という祈りが生まれてくるのです。

●イェシュアが語られたたとえの中に「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ18:9~14)があります。義と認められて帰った取税人の祈りは「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて『神様。罪人の私をあわれんでください。』」というものでした。この祈りこそ、神の霊が先行的な恩寵をもって働いていたとしか言いようがありません。それは霊の中にある良心が回復された証しなのです。

ベアハリート

●「良心」とは「人の霊」の存在をあかしするものです。御霊は人の霊と共に働きます(ローマ8:16)。御霊と良心も同様です(ローマ9:1)。奥義派と言われるアンドリュー・マーレーは「キリストの御霊」という本の中で、「良心は人の中にある神の像の残存物であって、人類堕落の荒廃のただ中に踏みとどまり、神の栄光を守る衛兵です。」と記しています。「その結果、神のあがないのみわざは常にまず良心から始まらなければなりません。・・・人間の新生とその聖潔における聖霊の働きと良心の働きとの調和はきわめて緊密であり、また重要です。」と記しています(「キリストの御霊」の「聖霊と良心」199頁)。

①【新改訳2017】ローマ人への手紙8章16節
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

②【新改訳2017】ローマ人への手紙9章1節
私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししています・・

●聖霊は人の霊を一新する力があります。といっても、新しい機能を創造するわけではありません。すでに存在しているものを新たにし、きよめて再創造してくださるのです。そのことを覚えつつ、主に感謝をささげ、主にある私たちはますます霊の中に生きることを学んで行きたいと思います。

三一の神が私たちのただ中におられます。

2022.10.30〔宗教改革日記念礼拝〕
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