****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(8)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.8

人の霊(8)

べレーシート

●シリーズ「霊によって生きる」の第八回目です。今回も「人の霊」について扱います。私たちはすでに主から受け取った「注がれた油」(「油塗り・油注ぎ」「クリスマ」χρῖσμα)を持っているのですが、それは繰り返し繰り返し、私たちの霊に上書き(overwrite)する必要があります。そのようにして主を知り、主を経験する必要があるのです。それは私たちが肉に従って歩まず、御霊に従って歩み続けるためなのです。そのことを、今回取り上げたいと思います。

1. 「霊の中に生きる」予表としての「割礼」

(1) 割礼の啓示

●「霊の中に生きる」とは、「肉によって歩まない」ということを意味します。この「肉によって歩まない」とは「霊の中に生きる」ということの消極的表現です。これが、神がアブラハムに求めた「割礼」の霊的な意義です。ヘブル語動詞「ムール」(מוּל)は「割礼を施す・割礼を受ける」で35回、新約ではギリシア語「ペリテンノー」(περιτέμνω)で48回使われています。「ムール」の初出箇所となる創世記17章では11回使われています。イスラエルの民にとって「割礼」は、今日に至っても彼らの民族的アイデンティティーを示すしるしです。

●「あなたの子孫は砂の数ほど、星の数ほどになる」という神の約束をアブラムは信じることによって、神から義と認められましたが、創世記16章では妻サライの進言により、女奴隷ハガルによってイシュマエルを生み、その結果、主の語りかけのない13年を過ごしたことが記されています。その後、主がアブラムに現れて語ったことばが、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす」でした。この契約は「あなた」と言われたアブラムが「多くの国民の父」となるというものですが、その契約が実現するしるしとして名前がアブラムからアブラハムへと改名されると同時に、アブラハムとその子孫が代々にわたって「割礼を受ける」ことを求められました。

【新改訳2017】創世記17章9~13節
9 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい
11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

●「割礼を受ける」とは自分の包皮の肉を切り捨てることですが、神の約束が実現するために「肉を切り捨てること」、「肉を断ち切ること」を意味したのです。後の使徒パウロがその霊的な意義を明確に悟りました。それによれば、肉を切り捨てるという割礼が「肉に従わず御霊に従って歩む」という霊的なしるしを指し示していたということです。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからであり、肉のうちにある者は神を喜ばせることができないからです。そのことを教えるために、神である主はイスラエルの父祖となったアブラハムに割礼を施すことを求めたのでした。

●「割礼の啓示」は、メシア詩篇と言われる118篇では「断ち切る」という表現がなされます。つまり「彼らを断ち切る」という表現は「彼らに割礼を施す」という意味です。神に敵対する者に割礼を施し、神のみを信頼させ、神のみに従わせるということの積極的な表現なのです。それゆえこの詩篇がメシア詩篇と言われる所以です。

【新改訳2017】詩篇118篇8~13節
8 【主】に身を避けることは 人に信頼するよりも良い。
9 【主】に身を避けることは 君主たちに信頼するよりも良い。
10 すべての国々が私を取り囲んだ。しかし【主】の御名によっては彼らを断ち切る(מוּל)。
11 彼らは私を取り囲んだ。まことに私を取り囲んだ。しかし【主】の御名によっては彼らを断ち切る
12 蜂のように彼らは私を取り囲んだが茨の火のように消された。【主】の御名によっては彼らを断ち切る
13 おまえは私を激しく押し倒そうとしたが【主】が私を助けられた。

●詩篇118篇で登場する「」とは、イスラエルの民の代表的存在(メシア)と言えます。その「私」を取り囲む神に敵対する「すべての国々」を「断ち切る」ために、すなわち彼らに割礼を施させるという意味で、割礼用語「ムール」(מוּל)で言い表しているのです。 事実、キリストは十字架上で真の割礼を完成されました(コロサイ2:11)。それがなされたとき、アブラハムから継続してきた人の手による古い割礼は終わり、新約の人々はキリストの割礼を受ける者となったのです。教会はまさにキリストの割礼を施された者たちです。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙2章11節
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。
肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。

(2) キリストの割礼=キリストによる新創造

●ここで「キリストの割礼を受けた」とはどういうことでしょうか。キリストは復活して「いのちを与える御霊」となられました。その御霊が私たちの霊の中に入られたことによって、それまで機能不全を起こして死んだようになっていた「人の霊」が回復され、御霊とミングリングされて神の子として生きることを神は実現してくださったのです。人に対する神の新しい創造は、「人の霊」から出発して、「人の心」を新しく造ることで神を知る者とさせ、やがては「人のからだ」も新しくする(御霊のからだ・栄光のからだとする)ことで、永遠に神に仕える者としてくださるのです。これが神の福音です。単に罪が赦されて神と交わる者とされたということではありません。キリストにある「新創造」(New Creature)として、永遠の「王なる祭司」、神のしもべ、キリストに似せられた長子たちとしてくださったのです。ですから、パウロは割礼のことで問題を起こしていたガラテヤ人たちに対してこう述べています。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章15節
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

●これは、前節の「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」ということの理由として置かれているのです。大事なのは新しい創造です。それはキリストが「いのちを与える御霊となられて私たちのど真ん中(至聖所=人の霊)に入られたことで、新創造がすでに包括的に始まっているからです。しかも、「主は御霊です」(Ⅱコリント3:17)。それゆえ、キリストにある者たちは御霊に従って歩む必要があるのです。

●ちなみに、神がアブラハムに割礼をすることを命じた時、「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。」と言われました。なにゆえに「生まれて八日目」なのでしょうか。ちなみに、イェシュアも契約にしたがって八日目に割礼を受けられました(ルカ2:21)。聖書において「八日目」はイェシュアを啓示します。なぜなら、八日目は「週の初めの日」であり、その日はイェシュアが死からよみがえられた日だからです(マタイ28:1, マルコ16:2, ルカ24:1, ヨハネ20:1)。詩篇118篇24節の「これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう」は、まさにこの「八日目」であり、「週の初めの日」であり、聖霊による新しい時代の恵みの日、救いの日のとばりが開いたことを預言する啓示だったのです。

●アブラハムの時に「割礼が施され」たのは、神のご計画が人間の肉(人間の思いや熱意や行い)によってではなく、神の計らいによって成し遂げられることを啓示するためでした。アブラハムの後、モーセの時代にはイスラエルの民に「律法」が賦与されました。それは律法を守るために与えられたのではなく、神がどのような方であるかを教えるために与えられたものでした。神は人が律法を守ることはできないことを知っておられたのです。神がそれを与えたのは、人がいかに罪深く、神のみこころである善を行うことができないかを証明するためでした。そのことを、以下の箇所が教えています。

【新改訳2017】マタイの福音書19章16~22節
16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

●この青年が、人は律法を守ることができないことを証明しています。しかし、また一人の律法の専門家がイェシュアに質問しました。

【新改訳2017】マタイの福音書22章34~40節
34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。
35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

●イェシュアは律法の本質を二つのことばで要約しています。ここで大切なことは、十戒に代表される律法を二つのことばで要約されたということではありません。訳文は『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあるように、命令文で訳しています。ところが原文では、下線の部分の「愛しなさい」という動詞が命令形ではなく、未来形で書かれているのです。どういうことでしょうか。つまり、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛するようになる」、「(あなたは) あなたの隣人を自分自身のように愛するようになる」と語っているのです。これは、人の能力や頑張りや崇高な意志によってではなく、「わたし(=イェシュア・メシア)によって」実現されるということが隠されていたのです。これが「キリストの割礼を受けた」という意味です。それが申命記に預言されていました。

【新改訳2017】申命記30章6節
あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し(【新改訳改訂第3版】「あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて」)、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。

●「あなたの子孫の心に割礼を施し」とは、イェシュアが復活されて「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)となられたことで、それが包括的に人の霊の中に入ることで(人の心にではなく)、神と人がともに住むのことが可能となったことを意味しています。これは「キリストによる新創造」(Ⅱコリント5:17)です。このためには、神である御子が人とならなければなりませんでした。受肉から始まり、罪なき生涯と十字架の死と葬り、そして三日目の復活、および昇天と着座という一連の出来事が不可欠でした。その一連の出来事を通して、律法を完成してくださったし、かつ完成してくださるのです。ここには「すでに」と「いまだ」の緊張関係がありますが、それは時間軸においてそうなのであって、神の視点によればすでに完成されているのです。そのことを、私たちはたましい(心)ではなく、霊の中で聞いて信じるなら、それはやがて実体化される(目に見えるものとされる)のです。

(3) 御霊の助けとしてのとりなし

●信仰は人の霊の中に起こります。それをたましいで理解しようとするなら、疑いのゆえに、信じることは困難となります。なぜなら、たましい(知・情・意)はサタンが足場を築いているところだからです。しかし、霊の中で神のことばを聞くことで信仰が生まれます。イェシュアが復活されて「いのちを与える御霊」となられて人の霊の中に入られたということは、私たちのために御霊が神(御父)にとりなしをしてくださるのです。なぜなら、私たちは神のみこころについて知らないために、どう祈ったらよいのかわからないからです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章26~27節
26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

●26節に「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」とあります。ペンテコステ派の人たちは、「ことばにならないうめき」を「異言の祈り」として理解し、異言で祈ることが御霊ご自身のとりなしであると理解しています。しかし異言で祈らない人たちにも、御霊ご自身がとりなしてくださるのは確かな事実です。内なる霊が与えられた弟子たちは異言で祈っていません。弟子たちが異言で語ったのは、力としての御霊を着せられた五旬節の時です。ですから、神のみこころを知るためにとりなされる御霊は、異言を語っていなくても与えられているのです。

●驚くべきことに、神に選ばれた私たちを罪定めする者(サタン)に対して、天において御父の右におられる御子が私たちのためにとりなしをしてくださっているともあります。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章33~34節
33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

●この神の事実を、信仰をもって聞くならば、最強の勝利者として実体化される(目に見えるものとされる)のです。まさに御子と御霊が御父に対して相互的に、かつ同時的にとりなしをしているのです。神と人がこのようなかかわりでつながっているのです。聖書は、この神と人とのつながりを「天と地を創造した(預言的完了形)」(創世記1:1)で表現しているのです。これが神のご計画でもあります。御霊が神のみこころを知って、私たちの霊の中でとりなしてくれるので、やがて私たちは神を完全に知ることが可能となるのです(エレミヤ書31:33~34)。

(4) 御霊の造り変え

●御霊の助けはそれだけでなく、私たちを「御子のかたちと同じ姿に」造り変えていきます。そもそも人間が創造された意図は神ご自身のかたちに、そしてその似姿になることでした。神ご自身とは「御子」のことです。ですから、「かたち」(「ツェレム」צֶלֶם)は神を表わす表現としての容器を意味します。御子イェシュアは御父を表現する「かたち」そのものでした。そのように神によってあらかじめ定められていた私たちも御霊によって「神のかたち」にされるのです。そしてまた御霊は「御子と同じ姿」に私たちを造り変えてくださいます。「同じ姿」とは「似姿」で「デムート」(דְּמוּת)です。これは神の内実を意味します。御子の似姿とは「長子」のことです。本来、長子は家族の中では一人だけですが、神である御霊は私たちを召し(選び)、義とし、義と認めた人々にさらに栄光をお与えになります(ローマ8:30)。つまり、御霊は私たちを「長子となられた御子と同じ姿(似姿)」に造り変えてくれるのです。それゆえ、私たちは「天に登録されている長子たちの教会」に近づいているという表現がなされます(ヘブル12:23)。「長子たち」という表現が長子である御子の似姿に変えられていることを意味しています。やがて、究極の新しいエルサレムにおいては、イスラエルは城壁の12の土台として「宝石」に、教会は城壁の12の門として「真珠」に造り変えられています(黙示録21:19~21)。

●「造り変える」御霊の働きは、イェシュアが死から復活されて栄光を受けられるまでは存在しなかったのですが、復活によってそれが今や包括的に与えられています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書7章37~39節
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった(原文「なかった」)のである。

●「御霊はまだ下っていなかった」のは、イェシュアが復活されて栄光を受けるときまでです。すなわち、復活されたその日の夕方に、弟子たちに「息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』」と言われるまでは、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」という御霊は存在していなかったということです。しかし今や、イェシュアは「いのちを与える御霊」となられて、包括的に人の霊に入られることで、ヨハネの福音書7章37~38節の「生ける水の川」である御霊が人の霊の中に存在することが出来るようになったのです。ここが神の回復の始まり、再創造の出発点です。ここから人の新しい心が造られ、からだを健やかにし、やがては制約されることのないイェシュアと同じ御霊のからだとなるのです。

2. いのちの水の流れを止めさせようと働く敵の攻撃

画像の説明

●イェシュアは「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と言われました。ということは、私たちの霊の中にあるいのちは、絶えず流れ続けていなければなりません。なぜなら、私たちの霊の中にある生ける水の川の源泉は、無尽蔵な三一の神にあるからです。サタンはこの霊のいのちの重要性を知っています。それゆえ、敵は人の「たましいとからだ」(=肉「サルクス」σάρξ)に思いを向けさせることで、内なる霊の流れを止めていのちを閉塞させようと働きます。私たちの思いが、ひとたび、肉である「たましいとからだ」に向けられるなら、内なる霊の力は喪失し、霊はたましいに包囲され、その領域に落ち込んでしまいます。私たちはこれに対処する必要があります。つまり、霊が絶えず外側に向けて流れるようにしなければなりません。パウロはその対処の仕方を以下のように記しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章6~9, 12節
6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。・・・
8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務(=負債)があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

●特にパウロが教える対処法は12節です。「兄弟たちよ、私たちには義務があります」とは、私たちが救われた後も肉の次元で生きてしまう可能性があるという意味です。しかし「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」とは、肉に対する義務を負ってはいないという意味です。肉(思い・感情・意志)に対する義務に対処しようとすれば、必ず失敗すると分かっているからです。パウロはすでにこの失敗を告白しています(ローマ7:18)。その失敗の理由とは、「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないから」です。サタンは「良いことをしたいという願い」で肉に対処させようとします。しかしサタンの手に乗ってはならないのです。これはあらゆる人間関係に言えますが、肉への対処をやめることは容易なことではありません。私たちは何度も失敗してしまいます。むしろ私たちの思いを霊に従わせることに徹することです。いつも霊の中にとどまることを選び取ることです。神はそこを勝利の拠り所としてくださったからです。私たちは、この素晴らしい霊の中に生きる時に、外側の環境にかかわりなく、安息と慰めを得ることができるのです。

ベアハリート

●私たちが「肉に従って歩まず、御霊に従って歩み続ける」という神のみこころは、アブラハムの時から神は「割礼」というかたちで啓示していました。この伝統を固く守って来たヘブル人の中のヘブル人であるパウロが、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:15)と語っていることは驚くべきことなのです。文字(もんじ)やかたちを重視する宗教ではなく、いのちの路線にしっかりと立ち続ける神の子どもとなるように、神は私たちを召しておられるのではないでしょうか。

三一の神は私たちの霊の中に生きておられます。

2022.8.7
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