人の魂 (3)
シリーズ「霊の中に生きる」 No.16
人の魂(3)
べレーシート
●これまで人のたましいにおける「思い」(知性)、および「感情」(感覚)を見てきましたが、今回は「意志」について取り扱います。ヘブル語は他の言語とは全く異なる特性を持っています。その特性とは、神の行為を表す「動詞」が基本となっており、名詞も形容詞も動詞から派生しているということです。英語の動詞は一人称単数形が基本ですが、ヘブル語の動詞は三人称単数が基本形なのです。聖書で最初の動詞は創世記1章1節にある「創造された」の「バーラー」(בָּרָא)であり、その主体は神です。特にこの動詞は人には使われず、神専用の特別な動詞なのです。
●1章1節で、「神」と訳された名詞「エローヒーム」(אֱלֹהִים)は複数形ですが、動詞「創造した」は単数形です。これが成り立つのは、「神」が「三一」だからです。このことは神の御子イェシュアが死からよみがえられることによって確証されました。それゆえ、聖書の最初のことばが「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)となっているのです。これは預言的です。預言的というのは、実際に神の御子イェシュアが人となって地に来られて、十字架上で最初のアダムの罪と呪いを終結させ、三日目に死人の中からよみがえることによって新しい被造物の「初穂」となられたからです。この「初穂」が「レーシート」(רֵאשִׁית)です。その「初穂」に「~によって」を意味する前置詞「ベ」(בְּ)を伴って「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)となり、これを聖書は「はじめに」と訳しているのです。パウロはこれをキリストによる「新創造」(New Creature)と言っています。ですから、創世記1章1節の「創造された」という動詞には、キリストの贖いが預言的に啓示されているのです。
●しかも、「創造された」の「バーラー」(בָּרָא)を構成している最初の文字が、「御子」を意味する「ベーン」(בֵּן)の頭文字であること。次の文字が「御霊」を意味する「ルーアッハ」(רוּחַ)の頭文字であること。そして最後は「御父」を意味する「アーヴ」(אָב)の頭文字であることは、決して偶然のことではありません。「三一の神」が「死からよみがえられた初穂である御子イェシュアによって」、神と人とを表す「天と地」を結びつけて一つにすることを、1章1節は啓示しているのです。すべてがこの「三一の神」のご支配の下でなされることを預言的に啓示しています。
●さらに、「創造された」の時制は完了形です。すでに完了しているということは、神が聖書のシナリオライターでなければあり得ないことです。不思議なことに、ヘブル語の動詞の時制には「完了形」と「未完了形」の二つしかありません。なぜそうなのか、長い間私には不思議でした。しかしそれも預言的な啓示なのです。つまり御子イェシュアが来られるまでそのことは隠されていました。御子イェシュアが語った「御国の福音」は、「神の国はあなたがたの中にある」という「すでに」という面と、御国はメシアの地上再臨によって実現するために「いまだ」という面があることを啓示しているのです。これらのことが明確に啓示していることは次の一点です。それは「神のご計画は、御子(キリスト)にあって必ず実現される」ということです。ですから、パウロのどの書簡を見ても、「御子にあって」(「エン・アウトー」ἐν αὐτῷ)・「御子を通して」(「ディ・アウトー」δι' αὐτοῦ)・「御子のために」(「エイス・アウトン」εἰς αὐτὸν)・「御子とともに」(「スン・アウトー」σύν αὐτῷ)のフレーズで満ちあふれています。キリストにあって新創造された人の行動を表す動詞は基本的にはすべて受動態ですが、たとえ能動態で表されていたとしても、そこには必ず「彼にあって」「彼によって」「彼のために」「彼とともに」が付随しているのです。なぜなら、私たちにとって「キリストがすべて」(コロサイ3:11)だからです。キリストなしに私たちは立ち得ない存在なのです。このことを預言的に啓示しているのが、聖書の冒頭にある「ベレーシート」(בְּרֵאשִׁית)です。
●このことを信じて歩んでいるなら、あなたはすでに「霊の中で生きている」のであり、キリストによって「新しく造られた者」(=新創造)となっているのです。ところが「たましい」(知・情・意)の領域とからだの領域はいまだ完全には変わっていません。それゆえに「霊とたましいを見分けて生きる」ことが重要なのです。キリストにあって「新しく造られた者」とは、御子イェシュアの語られる「霊であり、いのち」であるすべてのことばを聞いて生きる者のことです。イェシュアのことばのすべてを食べることです。「食べること」は「信じること」なのです。このことはすでにエデンの園で人に対して命じられていました。
【新改訳2017】創世記2章16節
神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」
●人が造られてから初めての命令があります。この「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」という訳は、命令形になっていません。原文によれば、許容的な意味ではなく、「あなたは園のすべての木から、そこから必ず食べなさい」というものです。その命令は、出エジプトしたイスラエルの民に対しても同様に語られています。それは「人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きる」ということばです。
1. 神の恵みに基づいて、神は「たましい」に語りかける
【新改訳2017】申命記8章1~9節
1 私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、【主】があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。
2 あなたの神、【主】がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを(主が)知るためであった。
3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
4 この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを知らなければならない。
6 あなたの神、【主】の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。
7 あなたの神、【主】があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、
8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
9 そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。
●ここでは、神の主権によって神のご計画が実現されるために、「人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きる」ことが命じられていました。ここに創世記2章16節の命令が引き継がれています。そのことを「分からせる」ために、神である主は彼らに荒野を歩ませられたのです。イスラエルの民に「分からせる」とは、たましいにおける「思いの領域」です。思いを新しくするために、神が「訓練されることを知らなければならない」の「知る」も同じく「思いの領域」です。神の恵みを認識させるために40年間、神の恵みがあったことを「あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった」と訴えかけています。40年にわたって、イスラエルの民が主の御手の下で守られ、支えられ、保護されたことを意味します。
●「感情の領域」では「主を恐れなさい」と語られています。「主を恐れる」とは「感情・感覚」の領域を示しています。この箇所では「感情の領域」に関する語彙は一つだけですが、聖書全体ではとても重要な語彙です。それは「主の仰せを大いに喜びとする者」であり、また「主の恵みを待ち望む者」、「主に信頼する者」です。「意志の領域」では、主の道に主体的に「歩む」ことが挙げられます。「歩む」ための具体的な行為として、【主】の御口から出るすべてのことばで「生きる」こと、主のすべての命令を、「守り行う」ことです。そうすることで、神の約束を手にすることが出来るからです。その約束とは「あなたの神、【主】があなたを良い地に導き入れようとしておられる」ということであり、その「良い地」がどのように良いのかが語られています(7~9節)。すべては神がご計画を実現して、イスラエルの民に良い地を与えようとされるのですが、その「良い地」とは、預言的な意味において「キリストそのもの」なのです。
●このように、神の民にとって「たましい」の働きはとても重要なのです。
2.「意志による行為」の背後にサタンがいる
●ところで今回は、たましいにある「意志の領域」に焦点を当てようとしています。意志とは、「私は・・こうしたい」「私は・・こうしよう」「私は・・したい」と行動を促す重要な領域です。私たちは、「こうしよう、こうしたい」ということを、自分の意志で行っていると思っています。ところがサタンが私たちのたましいに足場を築いて影響を与えていることに、気づいていないことが多いのです。私たち自身の言動がサタンによって誘導され、あるいはサタンの道具にされていることに気づいていないのです。一つの聖書の例を挙げたいと思います。
【新改訳2017】マタイ福音書16章13, 16~17節
13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
●イェシュアは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っているか」と質問されました。そこで弟子たちは、
「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」と答えます。そこでイェシュアは弟子たちに質問します。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。そこで弟子の筆頭であったペテロがこう言いました。「あなたは生ける神の子キリストです」。ところがイェシュアは不思議なことを言ったのです。それが17節のことばです。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(原文は「サルクスとハイマ」(σὰρξ καὶ αἷμα)」=つまり「人間」の意味)ではなく、天におられるわたしの父です」と。しかも「あなたは幸いだ」と言っています。
●ペテロの告白は、彼自身の生来の思いと意志で語ったことばではなく、「天におられるイェシュアの父が彼にそう言わせたのだ」ということです。これはどういうことでしょうか。天の父が機能不全を起こしていたペテロのわずかに残っている霊に働きかけたのです。イェシュアが死からよみがえって「いのちを与える御霊」となって私たちの霊の中に入って来られるまで、人の霊の機能は回復されていません。ところが、旧約の限られた人たちがそうであったように、神がある人たちの霊に働きかけています。ペテロにも同じようなことが起こったといえます。ペテロは生来のたましいで悟ったのではなく、あくまでも天の父によって悟り、語らせられたのです。特に、霊に関する告白は生来の私たちの中から出て来るものではなく、神から与えられたことばであるということです。そのような意味において、ペテロは幸いな者なのです。
●その後にイェシュアは弟子たちにエルサレムでなされる神のご計画について示し始められました。
【新改訳2017】マタイの福音書16章21~23節
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして(=引き寄せて)、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
●イェシュアがエルサレムでなされる神のご計画について語ったときに、ペテロはすかさず反応して答えます。ペテロだけでなく、他の弟子たちもおそらく同様な思いであったはずです。このペテロのことばを現代版にするとどういうことになるでしょうか。親愛の情を込めながら、「主よ。ご自愛ください」とか、「主よ、もっとご自身のお体を大切になさってください」ということになりませんか。これは相手のことを思いやることばですが、イェシュアにとってはそうではなかったのです。23節に「しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた」とあります。
「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
●ペテロのことばに、すかさずイェシュアは、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせる(=邪魔をする)ものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言います。ペテロにしてみれば、主のことを最大限に思って言っているのに、いきなり「サタン呼ばわりされて」と思ったに違いありません。ペテロは全く気づいていないのです。自分の発したことばが、無意識のうちにサタンによって言わせられていること、神のご計画を阻止しようとするサタンの道具となってしまっていることに全く気づかずにいるということです。こうしたこと、つまり「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことが、私たちのつい口から出ることばの中に数多くあるのではないかと思います。
●イェシュアが「下がれ、サタン」と言わなかったとしたら、ペテロは自分がサタンの手先となっていることに全く気がつかなかったに違いありません。そのようなことが往々にして起こっているにもかかわらず、私たちの口から出たことばが、サタンの道具として用いられているとしたら、一体「自分」とは何者なのでしょうか。「自分をどこまでも信じて」とか「自分を大切にして」といったことば、「自分の抱いた夢を決してあきらめず、その夢に向かって頑張ろう」といった「自分を励ますことば」など・・。この世においてはそういうことばが満ち溢れています。
●果たして、この「自分」という意識はどこから来ているのでしょうか。神からでしょうか、それともサタンからでしょうか。神からでも、サタンからでもないとしたら、自分という意識はどこから来るのでしょうか。自分は神でもサタンでもない特別な場所にいるのでしょうか。神の支配にも、サタンの支配にもいない「自分」というのは存在し得ません。神の支配の中にいないということは、サタンの支配の中にいるのです。逆に、サタンの支配の中にいないということは、神の支配の中にいるということです。どちらかです。ただし神の支配の中に身を置いていたとしても、たましいとからだはサタンの支配の中にあるということは、あり得るのです。
●「自分を大切にする」人は、「自分の夢」も大切にする人です。そのような人に対して、イェシュアは次のように言っています。
【新改訳2017】マタイの福音書16章24~25節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
●上記のことばで、イェシュアはなぜ「自分」を捨ててとか、「自分の十字架」を負ってとか、「自分のいのち」を失う者はそれを見出すと言われているのでしょうか。その理由は、「自分・自己・エゴ」といった意識がサタンの本質の写しだからです。生来の自分のいのち(「プシュケー」ψυχή)である「たましい」は、サタンの足場とされています。イェシュアを信じて救われた者であっても、自分という意識の中にサタンが足場を築いていることを知っている人は少ないのです。キリストにある者の歩みは「霊の中に生きる」ことによって、生来の自分と決別して、それに一切頼らない歩みです。にもかかわらず、生来の「自分のいのち」を救おうと思う者、すなわち自分を信じて、自分の夢を大切に思っている人はそれを失い、イェシュアのために(自分の)いのちを失う者はそれを見出すと言われています。なぜなら、人が大切にしている「自分」(自己、自我、エゴ)がサタンに汚染されているからです。その影響が、ペテロの「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」ということばとなって表れています。
●ペテロが一切を捨ててイェシュアに従ってきたのに、そのイェシュアがエルサレムにおいて宗教指導者たちによって多くの苦しみを受け、殺されたとしたら、私の夢も希望も無くなってしまうと感じて、「とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」という希望的観測からの言葉となって出たのかもしれません。ペテロは、おそらくイェシュアの「多くの苦しみを受け、殺され・・」という話で止まって、その後の「三日目によみがえらなければならない」話は吹っ飛んでしまっているような感じです。「なんで、そんなことが」、人間的に見ると自然な反応のように思えますが、ペテロは自分の言動が神のご計画を邪魔しているとはまったく思っていないのです。私たちも、自分本位のことばや言動がサタンによってうまく利用されていることに気づいていないことが多いのです。
●ですから、「霊とたましいを見分ける」ことをパウロは述べているのです(ヘブル4:12)。自分のいのち(「プシュケー」)を救おうと思う者は、つまり、自分のいのちを大切にしようと思う者は、神がしようとすることを邪魔してしまうことになるということです。神のご計画はこんなことで邪魔されることはないのですが、その人のいのちは失なれるのです。しかしイェシュアのために(自分の)いのちを失う者とは、たましいではなく、霊の中で生きようとすることであり、それによっていのちを見出すとイェシュアが語っています。イェシュアの語ることばは「霊であり、いのち」です。イェシュアのことばを信じなければ、その人のたましいのいのちは救いようがありません。ここでの「それを失い」、「それを見出す」というときの「それ」とは、生来のたましいではなく、キリストによって与えられる「新しいたましい」(単数)でしょう。つまりキリストにある「新しい思い、新しい感情、新しい意志」、あるいは「新しい心」です。これは自分の力によって得られるものではなく、あくまでも、よみがえられた主からの賜物(プレゼント)です。すでにそれは包括的に与えられており、私たちが霊の中で主のことばを信じることによって、私たちの中に実体化して来るのです。それでも、生来の自分を生かそう、救おうとして頑張りますか。だとしたら、神のくださるゾーエーの「いのち」に生かされることは不可能です。サタンが私たちを支配し、コントロールしているのは、生来の「私」、すなわち「自分・自己」です。ですから、それを「憎まないなら」、イェシュアの弟子になることはできないのです。
【新改訳2017】ルカの福音書14章26~27節
26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
3. 「自分」という意識の根源
●何度も繰り返して語られている「自分」という意識の根源は、一体どこから来ているのでしょうか。このことすらも考えることがないほど、「自分意識、自己意識」を自然なこととみなしています。しかもサタンはこのことに覆いを掛けているのです。サタンの語源である動詞「サータン」(שָׂטַן)は「敵対する」という意味ですが、サタン(「サーターン」שָׂטָן)は最初から神に敵対する者ではありませんでした。あくまでも御使いの一人だったのです。
【新改訳2017】ヨブ記38章4~7節
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
5 あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。
●「明けの星々」「神の子たち」とは「御使いたち」を意味します。彼らは、地の基が据えられる前から神によって造られた霊的な存在です。すぐれた知性と力を持つだけでなく、神を賛美し、そして「ともに」(副詞「ヤハド」יַחַד)、「みな」とあることから、御使いたちの間には完全な調和があったことが分かります。
イェシュアもご自身のことを「明けの明星」(Ⅱペテロ1:19、黙示録2:28, 22:16)と言っていますが、それは朝が訪れる前の「ひときわ目立つ存在」(単数)としての表象です。
●しかし、以下の箇所の「明けの明星」はイェシュアでなく、サタンを指しています。
【新改訳2017】イザヤ書14章12~14節
12 明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。
13 おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。
14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
●ここの「明けの明星」は「ヘーレール」(הֵילֵל)で、旧約ではここにしか使われていません。これをラテン語では「ルシファー」(Lucifer)と訳しました。「へーレール」の動詞「ハーラル」(הָלַל)のヒフィル態は「輝かす、照らす、(光を)放つ」を意味します。また「暁の子」は「ベン・シャハル」(בֶּן־שַׁחַר)で「夜明けの子」を意味します。このイザヤ書14章は直接的にはバビロン王に対して書かれていますが、同時にサタンが重ねられています。サタンは御使いの中で「ひときわ目立つ存在」であったので、「明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか」と神は問いかけているのです。バビロン王(サタン)が「天から落ちた」理由が、以下の五つの「私は・・しよう」という言葉に表されています。
①「私は天に上ろう」(אֶעֱלֶה)・・・・・・・・「アーラー」(עָלָה)
②「私は、私の王座を上げよう」(אָרִים)・・・「ルーム」 (רוּם)
③「私は・・で座に着こう」(אֵשֵׁב) ・・・・「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)
④「私は、・・・に上ろう」(אֶעֱלֶה)・・・・・「アーラー」(עָלָה)
⑤「私は、いと高き方のようになろう。」(אֶדַּמֶּה)・
(ヒットパエル態:似るようになる)・・・・・・・「ダーマー」(דָּמָה)
●これらのバビロン王の心の思いには、いと高き方と等しくなろうとするサタンの高慢な野心(欲望)が重ねられています。バビロンの王とは絶対主権を持ち、彼が言うことは即、法律となるような存在でした。同じようにサタンは私たちのたましいに足場を築いて、「神」によって生かされるのではなく、「自分」を主体とさせることで、私たちが神に背くようにしているのです。そのようなサタンから解放されて生きるためには、「シェーム・イェシュア」と呼ぶことです。「シェーム・イェシュア」によって、聖書を読み、主のことばに従うことです。「シェーム・イェシュア」こそ、一連の贖いのみわざを通して、主が私たちに与えてくださった最強の力なのです。
ベアハリート
●天と地にあるすべてのもの、目に見えるものも目に見えないものも、そのすべてが神によって造られた被造物です。神の造られた被造物は、神のご計画とみこころ、みむね(喜び)と目的のために造られています。すべての被造物が神によって造られているために、その存在の必要性は御手の中にあるのです。人の存在の目的も必要性もすべてが神の御手の中にあります。ということは、すべては神によって生かされるということです。私たちのたましいがいよいよキリストのことばによって占有されることで、「私にとって生きることはキリスト」、「キリストは私のすべて」となっていくのです。そのためには、日ごとに、昼も夜も、絶えず、「シェーム・イェシュア」(שֵם יֵשׁוּעַ)と呼び続けていかなればなりません。
三一の神の霊があなたがたの霊とともにおられます。
2023.2.5
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