初代教会信仰告白
初代教会の信仰告白(改定)
●これらの務めの中で祭司の務めが第一であり、預言者と王の務めを導きます。つまり、神の代理者として神の民を導き支配する王の務めも、また、神のみことばとそのみこころを正確に民に告げる預言者の務めも、第一の祭司の務めにすべてはかかっています。それゆえ、祭司的な務めをする者はきわめて重要なのです。
●預言者は御国が完成するまでの一時的な務めにすぎません。御国においては、祭司と王の務めは存続しています。
●祭司の主要な務めは、神のために働くことではなく、主の臨在の中で過ごすことです。そのことによって、霊において主と一体(「エハード」אֶחָד)となり、主に満たされることです。その意味で、最初のアダムも祭司として形造られ、最後のアダムであるイェシュアも祭司の務めを永遠になされている方です。私たちはこの祭司についてもっと深く学ぶ必要があります。
- ところで、2013年5月に、スコット・マクナイト師の「福音の再発見」という本がキリスト新聞社から翻訳出版されました。現在用いられている「福音」という言葉は、イェシュアや使徒たちが意味していた本来の福音をもはや指すものではなくなってしまったと警鐘をならして、イェシュアの語った「福音」に焦点を当てています。
- 彼によれば、「福音とはイスラエルの物語を完成させるイェシュアの救いの物語であり、イェシュアは明らかに、イスラエルを救う神のご計画の中心に自分を据えていた。」と述べています。別の表現をするならば、「福音とは、イスラエルのメシアであり、すべてのものの主であり、ダビデの裔(すえ)である救い主イェシュアの、その救いの物語によって完結するイスラエルの物語である」としています。
●イェシュアが「メシア」であるという事実が福音とどう関係があるというのか。
●福音派は、使徒的な福音という意味での「福音派」でなく、むしろ「救い派」になっている。なぜか。福音派は「福音」を「救い(救いの計画)」と同一視してしまったからからである。福音という言葉は、私たちが「個人的な救い」として理解しているものに乗っ取られて、イェシュアや使徒たちが意味していた本来の福音を、もはや指すものではなくなってしまった。「個人的な救い」とは、死後に天国に行けるようになるために、私の罪を赦してもらうことに他ならない。「罪のあるままでは天国に行けないが、イェシュアの十字架によって罪を処理してもらえば、罪人であった私たちも天国に行けるようになる」という次元でしか「福音」を捉えていないことを指す。
●イェシュアの物語―それは誕生、人生、教え、奇蹟と行動、死、埋葬、復活、そして昇天、着座であるーは、旧約聖書に見られるイスラエルの物語の成就であり、完成であり、解決である。しかもそれは御国(王国)のヴィジョンに関するものである。
●福音とは、聖書に書いてあるとおりに、イスラエルの物語を完成、完結させるために、キリストがした物語である。実際、パウロの理解や説教や教えに関する思索は、すべてイスラエルの物語によって形づくられている。使徒パウロがいかに旧約聖書を念頭に置いているかは圧倒されるほどである。ということは、福音は一つの民族、一つの歴史、一つの聖書の中に、がっちりと組み込まれている。そして「福音は約束から始まる」ということを出発点としている。つまり、福音とは、イスラエルに対する約束の成就であり、今やキリストにあって完成されたということである。そして神の救いとは、福音から当然帰結するものである。
2013.7.4(2019.5.1改定、a:7582 )
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