初穂の祭り
初穂の祭り
1.「秘密の昇天」
●イェシュアが復活されたその日について考えてみましょう。墓に来ていたマグダラのマリアがイェシュアに触れたときに、こう言われました。
【新改訳2017】ヨハネの福音書20章17節
・・・「わたしにすがりついていてはいけません(現在命令形)。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
●しかし、このあとイェシュアが父のもとに上ったのを見た者はだれ一人いません。「父のもとに上る」という情報を聞かされただけです。ですから、これを「秘密の昇天」と呼んでいるのです。これは、使徒1章9~10節にある「(公の)昇天」とは明らかに区別されるべきです(※脚注)。「公の昇天」の記述はこうです。「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた」とあるように、使徒たちがイェシュアの昇天を確認しています。
●ところでイェシュアはなぜ父のもとに上る必要があったのでしょうか。それは「初穂の祭り」を成就するためです。私たちが旧約の「主の例祭」を重要視していなければ、このことの意味は分かりません。同時に「仮庵の祭り」の重要性にさえも気づきません。教えられたことがないから、あるいは教えられても、それが教会で重要な事柄として扱われていないからです。私も長い間、無知でした。しかし徐々に開かれてきました。聖書はイスラエルを基軸として書かれており、神のご計画はレビ記23章に記されている「主の例祭」に沿って成されるのです。それは、神の歴史におけるマスタープラン(計画書)なのです。
●イェシュアは復活された日、天に上って夕方に戻って来るまで何をしておられたのでしょうか。そのことを考えてみましょう。「初穂の祭り」は大麦の束を献げる祭りで、安息日の翌日と決まっています。つまり一日の祭りです。イェシュアは復活のからだを「初穂の束」として、御父に献げる必要があったのです。イスラエルの民が「初穂の祭り」に献げて来た「大麦の初穂の束」の「大麦」は復活を象徴し、その「束」(オーメル: עֹמֶר)は単数・男性であることから、それはイェシュアを啓示する型です。さらにこの束を受け取った祭司は、それを「奉献物」として献げました。「奉献物」のことを「テヌーファー:תְּנוּפָה」といい、語源「ヌーフ:נוּף」(揺り動かす)の通り、手前に引き寄せるように揺り動かして献げることから、「揺らすささげ物」(回復訳)とも訳されます。それはイェシュアの死と復活の時に、いずれも「地震」が起こることを予表するものでした。予め、そんなことまでが神によって定められていたことが驚きです。
(1) イェシュアが十字架上で死んだ時
【新改訳2017】マタイの福音書 27章51節
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、●「すると見よ」とは、イェシュアが「大声で叫んで霊を渡された」つまり「死んだ後」です。その時に地震があったことを記しています。「神殿の幕が裂けた」とは、イェシュアの十字架の死により神と人との道が開かれて、人が自由に神に近づくことが可能となったことを啓示する出来事です。まさにその時に「地が揺れ動き、岩が裂け」たのです。
(2)イェシュアが復活した時
【新改訳2017】マタイの福音書 28章2節
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
●ここでの「すると見よ」は、「安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」ことが示され、その時に地震が起こっています。これはサタンの最後の砦とも言うべき「死」が打ち破られたことを啓示する出来事です。このようにイェシュアの死と復活において「地震」が起こっています。このことと「揺らすささげ物」(テヌーファー: תְּנוּפָה)に密接な関係が隠されていたのです。つまり「初穂の祭り」と「七週の祭り」は密接なつながりがあるということです。どんなつながりがあるのでしょうか。
●イェシュアが「初穂の祭り」に秘密の昇天をし、ご自身を「初穂の束」として御父に献げることで、その際に父から重要なものが与えられます。イェシュアはあらかじめ秘密の昇天をすることをご存知で、その際父にお願いして与えられるものについて、最後の晩餐の時にすでに弟子たちに語っていました。
【新改訳2017】ヨハネの福音書14章16~17、26節
16 そしてわたしが父にお願いする(未来形)と、父はもう一人の助け主(παράκλητος)をお与えくださり(未来形)、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます(現在形)。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ(原文=あなたがたのそばに(παρά)とどまり(μένω))、また、あなたがたのうちに(中に=ἐν)おられるようになる(未来形)のです。
26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え(未来形)、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(未来形)。
●ここで語られた重要なことは、父が「もう一人の助け主」「真理の御霊」「聖霊」を与えてくださるということです。世はこの方を知ることがないとイェシュアは言っています。しかし弟子たちに対しては「この方を知っている(現在形)」つまり、やがて知ることになることを語っているのです。やがてとは、この方を弟子たちに与えるために、週の初めの日の夕方に、再び戻って来る時です。事実、イェシュアは天から地に戻って来られて、鍵がかけられていた戸をすり抜けて、弟子たちの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と二度も語り、「息を吹きかけ」て、それから「聖霊を受けなさい(受け取りなさい)」と言われたのです。この順序が重要です。「息を吹きかけ」たことで人の霊は回復したのです。その上で「聖霊を受けなさい」とアオリスト命令形で言われたのです。それは人が、回復された霊を活かして主体的・自覚的に聖霊を受け取ることを命じられたということです。この「聖霊」とは「もう一人の助け主」「真理の御霊」と同義です。これらはヨハネの表現ですが、パウロの表現だと「いのちを与える御霊(霊)」となります。この聖霊を弟子たちに与えて、弟子たちがこれを受け取るためには、イェシュアが秘密の昇天をする必然性があったのです。
2. 「夕方」の奥義
【新改訳2017】ヨハネの福音書 20章19節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
●週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。そこに天から地に戻って来たイェシュアが彼らの真ん中に立ち、こう言われたのです。「平安があなたがたにあるように」と。
【新改訳2017】創世記8章11節
鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地の上から引いたのを知った。
●「夕方」(エレヴ:עֶרֶב)の初出箇所がこの箇所です。神のさばきとしての洪水の水が引いた頃、再度ノアは鳩を放ちます。すると鳩はオリーブの若葉をくわえて戻ってきます。「鳩」と「オリーブの若葉」の関係は、地上に新しい時代が始まったことを知らせる象徴です。「週の初めの日」とはイェシュアが死からよみがえった日です。その日の夕方に、戸に鍵がかけられていたにもかかわらず、そこを通り抜けられて、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました。「彼らの真ん中(ど真ん中)に立ち」も実に象徴的です。というのは、イェシュアの霊が弟子たちのど真ん中である霊の中に入る(内住する)ことになるからです。それは歴史の中で長い間隠されて来た神の悲願が、今ここに実現成就するということであり、そのことをイェシュアは「平安があなたがたにあるように」という言い方で表しました。たましいで読むなら単なる挨拶のことばと思ってしまいますが、イェシュアのことばは常に「霊であり、いのち」です。しかも「週の初めの日の夕方」に語ったことばは、新しい時代が始まったことを知らせるしるしです。「平安」は「シャーローム」(שָׁלוֹם)ですが、その語源は「シャーレーム」(שָׁלֵם)で「完成する、実現する、成就する」を意味します。そのような意味を持つことばを、しかも二度使うということは、「新しい時代が始まったこと」を強調しているのです。ですから「週の初めの日の夕方」は、とても重要なことが起こった記念すべき時(カイロス)なのです。その時がエックレーシアの誕生と言えるのです。
3. 「王なる祭司」の回復
●この聖霊を弟子たちが受け取ったことで、どうなるのでしょうか。
【新改訳2017】ヨハネの福音書20章21~23節
21 ・・「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
(直訳)「そして、このことを言ってから彼(イェシュア)は息を吹きかけた。そして彼らにこう言った。聖霊を受けなさい(アオリスト命令形)。」
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
●聖霊を受け取ることの目的は、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わ」すためです。しかし遣わされる前に、彼らがイェシュアの語った「御国の福音」を正しく理解し、悟ることが必要です。そのために、復活の夕べから40日の間、彼らはイェシュアから直接の指導と訓練を受けるのです。このことによって、初めて弟子たちは「祭司」として回復されるのです。回復だけでなく、その「権威」をも与えられます。それが「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」ということばで裏付けられています。罪を赦すためには神の「権威」が不可欠です。その権威が祭司には必要なのです。人はエデンの園で「耕し、守る」という務めが与えられていました。それは「王なる祭司の務め」のことです。聖霊を受け取る目的は、この「王なる祭司の務め」を回復するためなのです。この回復を「神と人がともに住むための再創造」、あるいは「キリストにある新創造」とも言えます。特に祭司としての回復は、イェシュアの「40日間の顕現」を通して十分に整えられたと言えます。その明らかな証拠が「120」という数に表されています。
【新改訳2017】使徒の働き1章15節
そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、・・
●「百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」という言及はとても重要です。なぜなら、この数字は彼らが「王なる祭司」として整えられたことを表しているからです。「百二十」は12の倍数です。黙示録21~22章は「新しいエルサレム」が記されていますが、そこには12とその倍数(24,144,12000)が満ちています。つまり、そこには「王なる祭司」たちで満ちていることが啓示されています。これは創世記6章にある神の宣言の成就です。
【新改訳2017】創世記6章1~3節
1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
3 そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」●2節の「神の子ら」については諸説ありますが、私は「神の人ら」(ヴェネー・ハーエローヒーム:בְּנֵי הָאֱלֹהִים)を「セツの子孫」と解釈します。つまりセツの子孫がカインの系譜にある美しい娘たちとかかわりを持つようになり、神を信じない娘たちを妻とすることで、彼らの影響を受けるものとなり、祭司の系列にある者たちの「その心に計るとがみな、いつも悪いことだけに傾くようになった」ゆえに「人の齢は百二十年にしよう」という神の宣言となったと理解します。120は12の倍数です。120は12という祭司の数の拡張数と言えます。
●「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ」と主は言われました。それゆえに、神の子らが自分の欲(おのが腹)を神とするようになったのを見て、多くの人は「人の齢は百二十年にしよう」を「神のさばき」として解釈しようとします。しかしそれはたましいの理解です。「だから」と訳された接続詞(ヴェ:וְ)には逆接(しかし)も含まれていることから、これは「人を王なる祭司としよう」という「神の回復の宣言」と言えるのです。それが、使徒の働きにある「百二十人ほどの人々」に実現しています。「百二十人ほどの人々」は、イェシュアの40日間の顕現によって、すでに「祭司」として十分に整えられていたことを示しているのです。これを「プレーロー」(πληρόω)ということばで括ることができます。「プレーロー」は「満たされた、成就した」を意味します。そして、公の昇天をするイェシュアから「キリストの証人」となるべく「上からの聖霊」を待つように命じられ、弟子たちはエルサレムにとどまっていたのです。こうしてイェシュアの公の昇天から10日目に、その聖霊がくだり、彼らは「満たされた」のです。この「満たし」が「ピンプレーミ」(πίμπλημι)です。これは警察官が制服を着るようなものです。この制服にこそ権威があります。この制服を着ていなければ「ただの人」ですが、上からの聖霊で満たされることで、「祭司」が王的権威をもつことができるのです。祭司の内側が聖霊で満たされていることを「プレーロー」(πληρόω)と言うのに対して、外側の権威に満たされていることを「ピンプレーミ」(πίμπλημι)と言います。これは「二つで一つ」の事柄です。祭司としての務めを権威をもって為すために、神の御座から注がれる聖霊に満たされる必要があるのです。この「ピンプレーミ」の奥義を悟ることこそが「五旬節」の意義なのです。
※脚注
1.「秘密の昇天」はヨハネの福音書独自の記事です。特に、13~16章にそのことが記されています。ヨハネ13章の「洗足」の出来事の奥義と「行って、帰って来る」というフレーズにそれが指し示されています。ヨハネの福音書には「公の昇天」についての言及はありません。ヨハネの福音書は新約聖書の中で最後に書かれています。おそらくヨハネは共観福音書には書かれていない最も大切な事柄を知って、そのことを記す必要性があったのだと思われます。それは「いのち」(ゾーエー:ζωή)です。「秘密の昇天」はその「いのち」と深い関係があるのです。また「主の例祭」の意義を重要視しているのもヨハネの特徴です。
2.「公の昇天」の言及については、①マルコ16章19節、②ルカ24章51節, 使徒1章9~11節にあります。しかし③マタイにはありません。
2026.6.3
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