****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

創造における神のトーヴ

2. 第一瞑想 「創造における神のトーヴ」

【聖書箇所】 創世記 1章

はじめに

  • イエス・キリストは「良い木はみな良い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはできない。」と(マタイ7:17, 18)言われました。これは真理です。神ご自身についても言えるたとえです。神が良い方であるならば、神は良いものしか造ることも、また、与えることもできないということになります。神が善であられるならば、その神とかかわることによってもたらされることはすべて良いのです。この認識、この信仰こそが、私たちのアイデンティティの根を太いものにしていきます。そして、神とのかかわりにおける成熟への憧憬(あこがれ)を抱かせるのです。
  • 神はその存在の本質において、いかなる被造物とのかかわりをもたずとも聖なる方であり、永遠なる方であり、空間と時を超越して偏在し得る方であり、全知、全能なる方です。いかなるものにも依存することなく存在しておられます。しかし、聖書の神は三位一体なる神であることによってすでに神ご自身の中にかかわり性を内包しておられるのです。このかかわり性をもった方がすべてのものを創造されたのです。ですから、「良い木がみな良い実を結ぶように、かかわり性をもった神の造られた被造物はみなかかわり性を有しているのです。」―神によって造られたすべてのものは、みなかかわり性を持って存在しているのです。被造物は決して単体で存在することはできません。自然も、そして人間も、宇宙も、すべてがみなどこかでつながっているのです。
  • 神の善(トーヴ)は、神の愛、さらには神の恵み、神のあわれみ、神の忍耐となって表わされます。愛も、恵みも、あわれみも、忍耐もすべては神が善であられるゆえに私たちとのかかわりおいて結ばれる実だということです。このことを検証し、裏付けるために、第一回目は創世記の第一章を開きます。そこには神の天地創造の出来事が記されていますが、なんと「トーヴ」טוֹבということばが繰り返し出てきます。

1. 聖書で最初に登場する「トーヴ」―創世記1章4節

  • 神の「トーヴ」が聖書の中で最初に登場するのは天地創造の出来事においてです。創世記1章には神の「トーヴ」(good)が7回。ちなみに、2章には5回。3章には3回と使われています。
  • まず、ここで創世記1章4節をフォーカスしてみます。そこには次のように記されています。
    「神はその光をよし(טוֹב)と見られた。」(God saw that it was good)。前節は「神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」という「光」の創造において、神はその光を「よし」と見られたと続きます。原文直訳では「そして見た、神は、よい(良い)ことを」となっています。

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    (右から左へ読みます)「ヴァッヤル・エローヒーム・キー・トーヴ」

  • 「神は見て、それをよしとされた」、「ヴァッヤル・エローヒーム・キー・トーヴ」は創世記1章に見られる定型句です。1:4, 10, 12, 18, 21, 25, 31

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(※第二日目の「水」のところを、「大空」=「天」に訂正する。)

  • 第二日目のところを除いてすべて「神は見て、それを良しとされた」という表現があります。最後の31節では、「非常に」という「メオード」(副詞)がついて、「トーヴ・メオード」で「非常に良かった、はなはだ良かった」という表現で締められています。すなわち、神が造られたものはすべて、神の目にははなはだ「良かった」のです。とすれば、この「良かった」という意味はどういうことなのでしょうか。私たち人間の目で、人間の視点や基準で「良かった」ということでは決してありません。神の目には良かったのです。だとすれば、神の目にどのように良かったのでしょうか。神の視点ではどのように良かったのでしょうか。そのニュアンスを理解したいのです。

2. 神がその目に良しと見られた最初の創造である「光」はかかわりの象徴

  • 神が創造された最初のものは「光」でした。3節で「そのとき、神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」と聖書はしるしています。「そのとき」とは、「やみが地を覆っていた」のです。そこに神は、『光よ。あれ。』と命じたのです(ただし、文法的には命令形ではなく、未完了の指示形「あるように」です。動詞は短縮されています)。。
  • 尾山訳では、この部分を「神が一声、『光は、出て来い』と仰せられると、光が出て来た」と訳しています。そして、「神はそれをご覧になって、満足された。」と訳しているのです。そして最後の31節では、「このようにして、神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。それはすばらしいものであった。」と訳しています。
  • 「トーヴ」というヘブル語を「良しとする」という言い方ではなく、神の目に、神のみこころに「満足する」ものであったと訳しているのです。決して、意訳ではなく、原語のもつ意味合いを表現したすばらしい訳だと私は思います。
  • 使徒パウロはこの「光」の創造について次のように表現しています。その前に、パウロは(彼はキリストに出会う前はサウロと言っていましたが)、ダマスコへの途上で突然「天からの光」に照らされました。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしはあなたがた迫害しているイエスである。立ち上がって、街へ入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」という声を聞いたのです。彼は「天からの光」によって目が(開いてはいますが)見えなくなりました。三日間、暗闇の中で、また一切の飲食も絶って、彼は自分に起こったことを考え巡らしていたことと思います。そして三日目にアナニヤというクリスチャンが彼を訪ねてきて、彼の頭に手をおいて祈った時、目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになったのです。そして彼は立ち上がりました。「目が見えるようになった」というのは、単に肉体的な目が見えるようになったことだけを意味しません。彼が迫害してきたイエスこそ、旧約で約束されていたメシア、すなわちキリストであることに霊の目が開かれて、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせるほどに、そのことを聖書を通して論証するほどに整理し直されたということです。なにが彼をそうさせたのでしょうか。―その答えは、「天からの光」です。
  • 前置きが長くなりましたが、その光を受けたパウロが「光」を創造された神について説明するときに、次のように語っているのです。Ⅱコリント4章6節です。「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」
    この節を尾山訳でみると次のようになります。
    「『光がやみの中に輝け』と言われた神は、キリストの御顔にある栄光の知識を理解させてくださったのである。」(尾山訳)
  • 「キリストの御顔にある栄光の知識」とはキリストの「福音」のことです。つまり、天からの光なしには福音を理解することができないということです。ですから、ここでの「光」は悟りを与える光であり、私たちに神とのかかわりを与えるいのちの光なのです。
  • 聖書における創造には「無から有を生む」という思想はありません。むしろ、やみの中に光が輝き出るという創造なのです。つまり「やみ」(「ホーシェフ」חֹשֶׁךְ)という混沌から、「光」(「オール」אוֹר)が輝き出たということなのです。創世記1章1節の「はじめに、神が天と地を創造した」という場合の「創造した」という動詞の「バーラー」בָּרָאは必ずしも無からの創造を意味していません。神が何かを造られる場合、「バーラー」だけでなく、「アーサー」(עָשָׂה)という動詞も使われます。「バーラー」という動詞の特異性は主語が常に神であるという一点です。つまりこの「バーラー」בָּרָאは、新しいもの、あるいは新たに更新されたものを生み出す(創造する)限りにおいて、神の働きを指し示す動詞であり、神のために取り置かれている動詞なのです。
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  • さて、「光」ですが、これは光源としての光ではありません。なぜなら、後に光源としての光をもたらす「太陽」が造られているからです。4節の「光」は「秩序」であり、その秩序とはかかわりの秩序と言えるのではないかと思います。ですから、かかわり性をもった神が、無秩序を象徴する「やみ」から「かかわりの秩序」をまず創造されたことは、神の視点からまことにふさわしいことであり、御旨にかなったことであったのです。この光はかかわりのいのちをもたらす愛の光です。神はこれを見て「良かった」(トーヴ)と表現しているのです。

3. 神の感動としての「キー・トーヴ」

  • 神は見て「良しとされた」の「キートーヴ」とは、神が光を創造されたときに、神の口から発したことばですが、実に、これは神の感動を表わす表現なのです。「まことにすばらしい」という神の感動のことばなのです。神はこのことばをすべての被造物に対して発しているのです。
  • 神はあなたという存在に対して「キー・トーヴ」、「まことにすばらしい」と感動を表しているのです。それは神のみこころにかなっているからであり、神の本質にふさわしい被造物だからです。生けるものすべて、そしてここにおられるひとり一人は、神の目から見て「まことにすばらしいかかわり性をもった者」として、神の感動に値する存在なのです。
  • 使徒ヨハネは、パトモス島に島流しにされ、そこで神を礼拝していた時に天が開かれて、天上の光景を見た人です。そのヨハネがそのことを「ヨハネの黙示録」に記しているのですが、4章10節に、24人の長老が御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠(殉教によって与えられた冠)を御前に投げ出して次のように言っているのを見、そして聞きました。

    「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(4:10)

あなたのみころろゆえに」とは、「あなたの目的にかなって」とか、「あなたの喜び(御旨)のままに」とも訳せることばです。とすれば、私たちの存在は神の喜びの対象だということになります。

  • すべての被造物は「はなはだ良かった」という神の感動の下に存在しているのです。私たちは(あなたは)神の満足された存在、神のお望みどおりの実に美しい存在なのです。この信仰こそ、私たちのアイデンティティの根を太いものにしていきます。そして、神とのかかわりにおいて成熟への憧憬(あこがれ)を抱かせるのです。
  • 使徒パウロという人は、キリストを知ってから次のように述べています。「かつては人間的な標準でキリストを知っていましたが、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二5:17)と。
  • キリストにあって、自分は神のみこころにかなった、喜びの(御旨になかった)対象なのだという認識が与えられたときに、パウロという人の真の美しさが輝き出るようになったのです。キリストなしには、人はやみの中にいる者であり、神が本来意図された輝きは放っていないのです。神のキリストによる救いの計画は、神が「良しとされた」「はなはだ良かった」とする存在へと回復させるためでした。回復させるだけでなく、その全生涯において、神の「トーヴ」が追いかけていくのです。ダビデはそのことを確信していました。ですから、「まことに、私のいのちの日の限り(全生涯)、いつくしみ(「トーヴ」טוֹב)と恵み(不変の愛「ヘセド」חֶסֶד)が、私を追って来る」と告白できたのです。ダビデの輝きの生涯はまさにその確信から来ているのです。

おわりに

  • 使徒パウロを照らした天からの光こそ、人間の本来の姿を回復させて輝かせます。その光を求める者となりましょう。神の光は、日々、絶えず、あなたに注がれているからです。天の光、神の光は、神が善であることのあかしなのです。あなたは(私たちは)、本来、その光の中で神によって造られたものであり、神がそれを良しとし、満足されたはずです。そこに私たちが立ち返り、その光の中で生きることを神は望んでおられます。もし私たちがそのことを信じるならば、神の栄光の光を受けてほんとうの自分を回復することができるのです。そして私(あなた)は神のトーヴのあかし的存在となるです。

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5章8節)

「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。」

2012.2.19


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