****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十字架につけられたイェシュア (1)


121. 十字架につけられたイェシュア (1)

【聖書箇所】マタイの福音書27章32~36節

ベレーシート

1.
裂かれし主のからだ 流されし血潮
そは みな罪深き われらのためなり
2.
富と栄えを捨て  しもべとなられた
そは 死にてわれらの 贖いとなれり
3.
いざわれらのために 開かれたまいし
恵みのふるまいに 主を覚えて与らん

●上記は、過越の祭りの晩餐の席でイェシュアが制定された「主の食卓」(聖餐)で語られた新しい契約を歌にしたものです。イェシュアの十字架によって「裂かれしからだ」と「流されし血潮」は、「罪深き私たちのため」であったこと、そしてそれを私たちが「食べ」かつ「飲む」ことは、「主を覚えるため」です。「主を覚える」ことと「主を食べる」ことは一つのことです。なぜなら、「主を食べる」ことなしに、私たちが生かされることはないからです。これは奥義です。イェシュアはこう言われました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章53~56節
53 まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。

●56節の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」とは、イェシュアとひとつになることを意味しています。イェシュアの十字架の受難は、神のみこころを実現するためになくてはならない重要な出来事でした。たとえそれがイェシュアの周辺の人々がなしていることであっても、それらは神のシナリオの中にしっかりと取り込まれており、すべてが神のご計画どおりに運んでいきます。また一つひとつの出来事においても奥義が隠されています。その隠された奥義を今回のテキストから見てみたいと思います。今回のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書27章31~36節
31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」(されこうべの場所)に来ると、
34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。

●前回は、イェシュアに対するローマの兵士たちの嘲(あざけ)りに触れました。それはイェシュアが十字架につけられた後も続いています。今回のテキストでは、イェシュアが総督の官邸から連れ出されて、ゴルゴタと呼ばれている場所でイェシュアを十字架につけたことが記されています。そのプロセスで、兵士たちがシモンという名のクレネ人にイェシュアの十字架を無理やり背負わせたこと、イェシュアに苦(にが)みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたこと、そしてイェシュアの衣をくじで分けたことが記されています。イェシュアに関してなされたすべてのことには意味があります。たとえそれが偶然のように見えたとしても、神においては必然性があるのです。それを知るためには、私たちが「なぜ」という問いを投げかけることです。そうするならば、神の必然性が見えるようになります。その問いかけは以下のとおりです。


(1)シモンという名のクレネ人が十字架を無理やり背負わせられたのはなぜか。
(2)ゴルゴタと呼ばれている場所とはどこなのか。そしてそれは何を示唆しているのか。
(3)イェシュアは苦みを混ぜたぶどう酒をなめただけで、飲もうとはされなかったのはなぜか。
(4)ローマの兵士たちがくじを引いて、イェシュアの衣を分けたことにどんな意味が隠されているのか。

●今回は上記の四点について考えてみたいと思います。

1. シモンという名のクレネ人が十字架を無理やり背負わせられたのはなぜか

●「クレネ」は地中海に面した北アフリカの一大都市で、アレキサンドリアに並ぶ都市でした。そこに離散したユダヤ人のシモンがエルサレムの祭りに来ていたのです。ここでは「クレネ人」ではなく、「シモンという名」に焦点を当てます。「シモン」のヘブル語は「シメオン」(שִׁמְעוֹן)です。これはイスラエル(ヤコブ)の二番目の子の名前です。新約聖書の中では、イェシュアの両親が幼子イェシュアを主にささげるためにエルサレムに連れて行った時、シメオンという老人が幼子イェシュアを見て腕に抱いて神をほめたたえました。新約聖書には彼のみならず、実に多くの「シメオン」=「シモン」(Σίμων)と名乗る人物が数多く登場します。その名前に隠されている奥義は「御子に聞く」ということです。

●「聞く」とは「聞き従う」ことです。有名な申命記の6章4節の「シェマ・イスラエル・アドナイ・エロヘーヌー・アドナイ・エハッド」は、「聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である」という意味ですが、これはイスラエルの民の重要な信仰告白です。「シェマ」は「シャーマ」(שָׁמַע)の命令形ですが、主に聞き従うことはイスラエルのあるべき本分です。それが「シメオン」(シモン)という名に象徴されているのです。いわばシメオン(シモン)という名はイスラエルのあるべき本質なのです。イェシュアの弟子の筆頭が「シモン・ぺテロ」であったということもそれを裏づけています。また、幼子イェシュアを最初に腕に抱いた老シメオンが、聖霊に満たされてイスラエルの慰め(=救い)を待ち望んでいた人物であったことも偶然ではありません。彼は幼子のうちに神の御救いを見て神をほめたたえています。その御救いは万民の前に備えられたもので、イスラエルの光栄のみならず、異邦人を照らす啓示の光として見る「新しい歌」そのものでした。そこにシメオンの名が深くかかわっているのです。

●シメオン(シモン)という名をより深く調べて行くなら、イスラエルの全土に福音が伝えられる要所要所に必ず登場する名前であることが分かります。例えば、①エルサレムの老シメオン、②ガリラヤで召命を受けた弟子のシモン・ペテロ、③ベタニアのパリサイ人シモン、④クレネ人でイェシュアの十字架を背負ったシモン=アンテオケのニゲルと呼ばれたシメオン、⑤サマリヤの魔術師シモン、⑥ヨッパ(ヤッファ)の皮なめしのシモン、などです。

●今回の「シモンという名のクレネ人」も、無理やりではありましたが、イェシュアの十字架を背負ったことに意味があります。イェシュアが弟子たちに対してたびたび語ったことばに、以下のことばがあります。

①【新改訳2017】マタイの福音書 16章24節
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
②【新改訳2017】マタイの福音書 10章38節
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
③【新改訳2017】ルカの福音書14章27節
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

●シモンという名のクレネ人が背負わされた十字架の場面は、まさにこのイェシュアのことばをそのまま絵にしたものとなっています。シモンは「無理やり」(=強制的)ではありましたが、イェシュアの後を、十字架を背負ってついて行った姿があります。ルカはこの場面をわざわざイェシュアの「後から運ばせた」(ルカ23:26)と記しています。ここに「御子に聞き従う」というシモンの名の本質があります。しかもそのシナリオを描いたのは、他ならぬ神ご自身なのです。

2. イェシュアが十字架につけられたゴルゴタという場所

●イェシュアが十字架につけられたのは、ゴルゴタという場所であったことが記されています。ゴルゴタはイェシュアが世のすべての罪を背負って死なれた場所であり、その正確な場所を知ることは大きな意味があります。しかしそれがどこにあったのかは聖書に記されていません。当時、ゴルゴタと呼ばれる場所がどこにあったのかが周知のことであったからだと思われます。

●「ゴルゴタ」はヘブル語で「ゴルゴッター」(גָּלְגֹּתָּא)と表記されますが、そもそもこの語彙はヘブル語の「ひとりひとりを数える(人口調査)」という意味の「グルゴーレット」(גֻּלְגֹּלֶת)に由来します。ちなみにこの「グルゴーレット」には「頭蓋骨」と「頭蓋骨を数えること」という意味もあります。そしてこのヘブル語の「グルゴーレット」がアラム語に音訳されたのが「ゴルゴタ」です。その「ゴルゴタ」はどこにあるのでしょうか。

●「ゴルゴッター」(גָּלְגֹּתָּא)と同じ意味を持つ語彙に「ミフカード」(מִפְקָד)があります。それは「数を数えること(人口調査)」の意味の他に、「定められた場所」「一定の場所」という意味があります。聖書の中で「定められた一定の場所」とは、「罪のためのいけにえがほふられる場所」を意味します。イェシュアが私たちを救うことができたのは「罪のためのいけにえの羊」としてご自身の血をささげられたからです。その罪のためのいけにえを火で焼く場所はどこでも良いわけではありません。他のいけにえは神殿の入り口や祭壇で焼かれますが、罪のためのいけにえは、必ず神殿の外の「定められた場所」でほふられ、焼かれなくてはなりませんでした。その場所をヘブル語で「ミフカードの祭壇」と呼びます。イェシュアの時代には、神殿の東門とオリーブ山とは以下のように橋でつながっていました。

画像の説明

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●今日多くのクリスチャンがイェシュアの足跡を辿り、エルサレム城の西側にある「ヴィア・ドロローサ」と「聖墳墓教会」を訪ねます。なぜなら、そこはイェシュアが十字架を背負って歩まれた道として、また死なれたゴルゴタとして信じているからです。プロテスタントの有識者たちはカトリックの聖地である場所ではなく、どくろのような形をした小さな山である「園の墓」という所を重視しています。しかし現在の聖墳墓教会は、東のオリーブ山とは正反対の西側の方向にあり、しかも神殿から二百メートルも離れていません。「園の墓」も同様です。ところが、エルサレムの神殿の東門からオリーブ山山頂までの距離は二千キュビトなのです。結論から言えば、「ゴルゴタ」は「オリーブ山」にあります。なぜなら、ゴルゴタは東側の宿営の外でなければならず、そこは神殿から「二千キュビト」(約九百メートル)以上離れた場所でなくてはならないのです。当時、十字架刑を受ける極悪人をエルサレムで処刑することはできませんでした。必ず「宿営の外」で刑が執行されました。ということは、イェシュアがエルサレムの外で死ぬのは、オリーブ山で死んだ「赤い雌牛」のように、罪のいけにえとしてでなければなりませんでした

【新改訳2017】民数記19章2~5節
2 「【主】が命じるおしえの定めは、こうである。イスラエルの子らに告げよ。まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛をあなたのところに引いて来るようにと。
3 あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡す。そして宿営の外に引き出し、彼の前で屠る。 。
4 祭司エルアザルは指で血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七度振りまく。
5 その雌牛は彼の目の前で焼き、皮と肉と血を汚物とともに焼く。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕(=後の神殿)の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。


3. イェシュアが苦みを混ぜたぶどう酒をなめただけで、飲もうとはされなかったのはなぜか

●マタイは「苦味を混ぜたぶどう酒」、マルコは「没薬を混ぜたぶどう酒」、ルカとヨハネは「酸いぶどう酒」とあるように、微妙に表現が異なっています。この違いを説明することは容易ではありませんが、多くの注解者は死の苦痛を和らげるぶどう酒としています。いずれにしても、マタイの強調点は、イェシュアに関するすべての出来事は預言者を通して言われた事が成就しているということに向けられています。詩篇69篇にはこうあります。この詩篇はメシア詩篇です。

【新改訳2017】詩篇69篇19~21節
19 あなたはよくご存じです。私への嘲(あざけ)りと恥と恥辱(ちじょく)とを。私に敵する者はみなあなたの御前にいます。
20 嘲りが私の心を打ち砕き 私はひどく病んでいます。私が同情を求めてもそれはなく 慰める者たちを求めても見つけられません。
21 彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え 私が渇いたときには酢を飲ませました
※「酢」は「ホーメツ」(חֹמֶץ)

●詩篇に預言されたことがイェシュアに成就しています。しかしここで問題にしたいのは、イェシュアが「苦味を混ぜたぶどう酒をなめた(=味わった=「ギュオマイ」γεύομαι)が飲もうとはしなかった」という点です。なぜ飲もうとはしなかったのでしょうか。それは、以下の箇所に記されています。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙2章9~15節
9 ・・イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです
10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物
の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
11 聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」
13 また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。
14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

●この箇所で記されているイェシュアの受肉の目的は、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するため」です。そのためには最初のアダムを終わらせるという贖罪的死が不可欠でした。と同時に、ここではイェシュアが兄弟たちの長子となるために(そのようなかかわりをもたらすために)、死の苦しみをまともに味わわれたということです。そしてそれはふさわしいことであり、釣り合うだけの価値があったということです。イェシュアが経験した「死」は、永遠に一度も断たれたことのない交わりのいのちが断たれるという経験でした。私たちがその経験を理解することは不可能です。イェシュアが「死を味わった」ことによって、神がイェシュアに与えられた兄弟たちの長子となって栄光に導くという点が重要だったのです。

4. ローマの兵士たちがイェシュアの衣を分けたこと

●今日の最後の問いは、ローマの兵士たちがイェシュアの衣を分けたことにどんな意味が隠されているのかということです。詩篇22篇(これもメシア詩篇です)に以下のことが預言されています。

【新改訳2017】詩篇22篇16~18節
16 犬どもが私を取り囲み 悪者どもの群れが私を取り巻いて 私の手足にかみついたからです。
17 私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
18 彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします

●詩篇22篇の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という冒頭の叫びだけでも、この詩篇がメシアについて預言された詩篇であることが分かります。この詩篇22篇はメシアの全体像を知る上できわめて重要な詩篇であり、多くの時間をかけて学ぶべき価値のある詩篇です。この詩篇には神から見捨てられた「私」(メシア)がおり、神だけでなく周囲の人々からも裏切られて、完全に見捨てられた孤立無縁の「私」(メシア)がいます。そして16節では「犬どもが私を取り囲」んでいます。ユダヤ人が「犬」という言い方をするのは、「異邦人」に対してです。そのことを考えるなら、複数の「犬ども」とは「ローマの兵士たち」を預言していることになります。そしてまさに預言どおりに「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」ということがイェシュアにおいて成就しているのです。

●イェシュアの衣服はどんなマントよりも霊的な力をもっています。「衣服」と訳された語彙はギリシア語では「ヒマティオン」(ἱμάτιον)の複数形です。なぜ複数なのかといえば、上着だけでなく下着も含んでいるからです。上着は分け合いましたが、一枚で織られた下着は裂くことをせずにくじ引きにしたようです。マタイはそのような細かな点には関心はなく、単に「くじを引いてその衣を分けた」と記しています。「衣を分けた」ことにどんな意味が隠されているのでしょうか。それは「衣」という語彙に隠されています。

●イェシュアの衣には霊的な力があることが信じられていました。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と思っていた長血の女(マタイ9:21)だけではなく、多くの人が「衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した」ほどで、「さわった人たちはみな癒やされた」のです(マルコ6:56)。そうしたイェシュアの衣がはぎ取られ、恥辱の限りを受けました。衣のヘブル語は「ベゲド」(בֶּגֶד)ですが、その語源となる動詞「バーガド」(בָּגַד)には「裏切る」「見捨てる」という意味があります。イェシュアはメシアとして自分の国に来られたにもかかわらず、ユダヤ人たちがイェシュアを「十字架につけろ」と叫び拒絶したことは、神に対する裏切り行為です。ピラトが「あの人がどんな悪いことをしたのか」と説得しようとしても聞く耳をもたず、ますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けたのです。そして裁判の権限を放棄したピラトに対して、民はみな「その人の血(の責任)は私たちや私たちの子どもらの上に」とまで言ったのです。これはマタイ21章にある「ぶどう園と農夫」のたとえのように、神に対する裏切り以外のなにものでもありませんでした。かつ、ローマの兵士たちがイェシュアの衣を分けたことは、ユダヤ人のみならず、全人類が神に背を向けたことを象徴する行為を意味するのです。しかし、神の視点からすれば、メシアに対する裏切り行為も神の重要なご計画の一部なのです。神が完全に拒絶されるということこそ、それがイェシュアの受難が意味する重要なポイントです。それは「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため」(ローマ3:19)であり、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」(同3:24)ためなのです。

ベアハリート

●今回は、イェシュアの十字架の受難にかかわる四つの出来事の中に、神のご計画の確かさと必然性を見てきました。聖書は実に不思議な書物です。「聖書は、わたしについて証ししているもの」(ヨハネ5:39)とか、「わたしは後のことを初めから告げ」(イザヤ46:10)とか、時系列を全く超越して語られる啓示や預言で満ち溢れています。それもそのはず、それは聖書のシナリオが歴史を超越した神によって書かれているからにほかなりません。聖書の真のシナリオライターはマタイでもマルコでもありません。ルカでもヨハネでもなく神ご自身なのです。ですから、黙示録21~22章で実現することが創世記1章に啓示されていたとしても、なんら驚くことではないのです。むしろそうした視点で聖書を読み解くことが大切です。神の目は常に歴史の終わりに向けられています。そのことを知って理解することが、聖書を「食べる」ということです。神が定められた永遠のご計画とみこころ、みむねと目的を、自分の食べ物として「食べる」ことによって、美味しく、かつ甘く感じられるのです。それが甘いと感じられないのは、肉で食べ、肉で理解しようとしているからです。イェシュアは「わたしのことばは霊であり、いのちです」と言われました。聖書を肉で食べるなら、それは苦い食べ物となります。しかし霊で食べるなら、それは甘い食べ物となるに違いありません。

2022.1.9
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