叫び求めるネフェシュに対する主のトーヴ
士師記の目次
3. 叫び求めるネフェシュに対する主のトーヴ
【聖書箇所】 3章7節~31節
はじめに
- 右の図を観て、なんと懲りないイスラエルの民かと思うでしょうか。確かに、ひとりの人間が何度も繰り返し神のみこころから外れ、罪の道を歩むことがあります。しかし、この図のサイクルは戦いを知らずに育ったイスラエルの各部族における新しい世代に対する、それぞれの神の取り扱いのパターンだということです。
- 神の教えを正しく教えられたとしても、その教えを身をもって学ぶためには、痛みを経験することが含まれます。私たち人間は「ネフェシュ」である存在です。つまり、必要の塊、常に多様な渇きを満たそうとする存在として造られています。ですから、その渇きを満たしてくれそうな対象に心が傾斜していく弱さを抱え持っています。ネフェシュの弱さのゆえに偶像礼拝が起こり得ます。そして、渇きを良いもので満たしてくれる真の神が忘れられてしまうのです。これが罪であり、あるがままの人間の姿です。ですからイスラエルの民を「なんと性懲りもなく」と考えることは、人間の本性を理解していないのです。私たちの魂(ネフェシュ)を真に満たすことのできる方こそまことの神であることを、神はいつの世代においても教え諭されるのです。
- 詩篇107篇は、士師記に見られるような図式がそのまま当てはまるような構造になっています。士師記は詩篇107篇の実際篇といえかも知れません。詩篇107篇で繰り返されている表現があります。それは、
「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。」(新改訳)
「苦難の中から主に助けて叫ぶと、主は・・救いを与えられた。」(新共同訳)
- つまり、詩篇107篇は「主はまことにいつくしみ深い」という真理を教えるための詩篇となっているのです。「士師記」という名称から、どうしても神によって立てられた「士師たち」に関心がいってしまいがちですが、フォーカスすべき事柄は神のいつくしみです。今回の瞑想の聖書箇所である士師記3章もそのことが扱われているのです。そうした視点から3章を味わってみたいと思います。
1. イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はひとりの救助者を起こされた
- 主を忘れて、主の目の前に悪を行った新しい世代の神の民に対して、神はいつくしみを施されます。その契機は、彼らが「主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者・・を起こされた」という事実です(3:9, 15)。
- 3章では三人の士師たちの名前が登場しています。順に、ユダ族のオテニエル、ペニヤミン族のエフデ、そして出身不明のシャムガルです。三人目のシャムガルについての記述はとても短く、わずか1節のみの記述ですが、イスラエルの強敵であるペリシテ人に対してイスラエルを救うべく神に起こされた士師のひとりでした。
士師名 | 出身部族 | 救いの手段 | 敵国 | 苦難の期間 | 平穏な期間 |
オテニエル | ユダ族 | 主の霊 | アラム・ナハライム | 8年間 | 40年間 |
エフデ | ベニヤミン族 | 左利き | モアブ | 18年間 | 80年間 |
シャムガル | 不明 | 牛の突き棒 | ペリシテ |
2. 士師が起こされるときには、決まって苦難の状況がある
- 士師が起こされるときには、決まってそこに「叫び求める」苦難の状況があります。士師記3章9節と15節の「叫ぶ」と訳されたヘブル語は「ザーアク」זָעַקです。この動詞は苦しみによる呻きを意味します。つまり「呻きの叫び」です。助けを求めて大声で泣き叫ぶ場合には「ツァーアク」צָעַקというヘブル語が使われてます。ちなみに、詩篇107篇の四つの叫びはこの二つの動詞がそれぞれ二つずつ使われています。⇒詩篇107篇の礼拝用語を参照
- 「苦しみの叫び」があったとしても「悔い改め」があったのかどうかその表現することばがありません。しかし「悔い改めた」という表現がなくとも、そのあとの平穏な期間が長ったことを考えるならば、「悔い改め」があったと考える方が自然です。「悔い改め」は、ことばよりも態度でその真意が示されるからです。
- 声を出して叫ぶ力もなく、ただ呻くしかない苦しみに至ったとき、主はひとりの救助者である士師を「起こされた」(「立てる」を意味する「クーム」קוּם)のです。ここに神の「いつくしみ」が見られます。
2012.4.14
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