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大いなる福音の模型としての「青銅のへび」

民数記の目次

19. 大いなる福音の模型としての「青銅の蛇」

【聖書箇所】 21章1節~35節

はじめに

  • 民数記21章は荒野の放浪の全期間がまとめられている章で、いわば情報満載といえる章です。繰り返される「荒野でのつぶやき」、そしてカナンのアラドとの戦い、アモリ人の王シオンとの戦い、バシャンの王との戦いなどが記されており、すべて勝利していきます。また、荒野においてどのような経路を通ったか、その宿営の場所も示されている貴重な章です。荒野の旅路の地図は、朴潤植著(姜泰進訳)の「忘れていた出会い」(イーグレプ出版、2010)には、荒野の宿営地42ヶ所が完全に地図化されています。これはぜひ買われるべき本です。
  • さて、21章の最も重要な出来事は「荒野で上げられた青銅のへび」です。この出来事を取り上げることによって、やがて御子イエス・キリストを通して啓示される大いなる福音について瞑想したいと思います。前章の20章でも、モーセが権威の杖をもって岩を二度打ったことが、キリストの贖いの一回性と優位性を指し示したように、「荒野で上げられた青銅のヘビ」も神の大いなる福音を指し示しているのです。

1. 神のさばきとしての燃える蛇

  • 4節~9節には、イスラエルの民がホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海(紅海)の道に旅立ったとき、民たちは途中でガマンできなくなり、神とモーセに逆らって言ったことばは次のことばでした。

    新改訳改訂第3版 
    「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

  • イスラエルの民たちがエドムを迂回して荒野を旅するその道は困難をきわめたのかもしれません。迂回する道の総距離はかなりのものでした。「がまんできなくなった」とき、いろいろな心の思いが一挙に噴き出してしまうことは人間の常です。イスラエルの民はこのとき「パンもなく、水もなく、私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」と言ったのです。
  • ちなみに、「嫌になった」「飽き飽きした」と訳された原文は「私たちのネフェシュが嫌悪する」という意味です。
  • 「このみじめな食物」とは、神がご自分の民に与えた「マーン」(LXX訳では「マンナ」、日本語訳では「マナ」)のことですが、彼らは「飽き飽きした」と神とモーセに言ったのです。この「マーン」は約束の地に入ってからは食べることはありませんでしたが、荒野の食物として神が与えた恵みの食物でした。出16:31では「蜂蜜を塗ったうすい煎餅のような味」とあり、民数記11:9では「油をたっぷりと含んだクリームのような味」と記されています。それを「みじめな食物」(新改訳、岩波訳)、「粗悪な食物」(口語訳)、「あんな軽い食べ物」(バルバロ訳)と言ったのです。
  • これに対する神の反応はまことに厳しいものでした(6節)。

    「そこで主は民の中に燃える蛇を送られた」(新改訳)

    「そこで主は人を焼くへびを民に送り込まれた。」(バルバロ訳)

    「そこでヤハウェは、民に対してサーラーフの蛇を送った。」(岩波訳)

  • 蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだことが記されています。「燃える」「焼く」と訳された「サーラーフ」שָׂרָףは毒による熱いような痛みを表します。火のような痛みを与える毒をもった蛇(つまり「まむし」のこと)に多くの人々が噛まれて死にました。LXX訳は「死をもたらす蛇-deadly serpents(デェッドリィ・サーペンツ)」と訳しています。これが彼らの呟きに対する神の刑罰でした。
  • 食べ物に対するイスラエルの民のつぶやきに対して神がそれほどに怒られたのには理由があります。「マナ」はやがて神から与えられる「天からのマナ」の予型です。「天からのマナ」は神の口から出るすべてのことばとも言えますし、またその言葉を語るために来られた神の御子ご自身とも言えます。もし、私たちが神の語られることばに対して、粗悪で飽き飽きしたものだとつぶやくならば、それは霊的ないのち取りになりかねません。尽きることのない霊的源泉、私たちの魂を満ち足らせる良いものとして感謝して受け取り、その豊かな味わいを味わうことがなければ、霊的飢饉を自ら招き、魂に痛みをもたらすというということを、この出来事は警告しているように思います。

2. 神の救いの手段としての青銅の蛇

  • 神の刑罰による痛みを経験した者たちは、自らの罪を認め、救いを求めました。彼らはモーセのところに来て、「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」と願いました。
  • 罪による痛みの経験は再び神に近づくことのできるしるしです。痛みを伴わない救いは真の救いとはならないからです。だれでも罪を犯し、失敗をします。しかし自分の罪を認めることは痛みを伴いますが、神に立ち返る機会となるのです。イスラエルの民がこのとき経験した痛みは相当なものでした。それは彼らが同じ罪を犯す事のないための神の恵みと言えます。
  • モーセが彼らのために祈ると、主は救済の手段をモーセに教えました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(8節)。これか神の救済方法なのです。
  • この出来事が新約のヨハネの福音書3章14節に出てきます。

    【新改訳改訂第3版】
    14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
    15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
    16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

画像の説明
  • モーセが人々の救いのために、青銅で燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけたように、人の子もまた上げられなければなりません。その理由は、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と語っています。さばきをもたらした蛇が人々に救いをもたらしたように、人々の罪の身代わりとして神の呪いを受けた御子イエスは、同時に、私たちを救う者となるのです。この方を「仰ぎ見る」(「ラーアー」רָאָה)とは、十字架の上に上げられた人の子を「信じる」ということです。
  • 「燃える蛇」はこのように神の怒りと同時に、神の愛のしるしである十字架のキリストの模型であったのです。ちなみに、「蛇」の「ナーハシュ」(נָחַשׁ)のゲマトリアは358です。「メシア」(מָשִׁיחַ)のゲマトリアも358で同じです。これは呪いを救いに変えた神の贖罪を啓示しています。

3. 青銅の蛇を仰ぎ見た者たちのその後

  • 民数記21章10節以降には、青銅の蛇を仰ぎ見て生きた者たちが、北へと進軍していくの輝かしい記録が記されています。彼らは川のほとりに宿営し、また井戸のあるところを進みました。そしてイスラエルの民は「わきいでよ。井戸。」と歌いました。
  • エモリ(アモリ)人の王シホンとバシャンの王オグとの戦いに勝利し、その地を占領したのです。約束の地に向かっていく新しい世代の者たちが少しずつ整えられていくのを見ることができます。これは彼らが旗ざおに上げられた青銅の蛇を仰ぎ見て、生きたことのあかしです。

2012.2.15


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